史の綴りもの 006 尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 

尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、尼子氏の歴史をすこしさかのぼりまする。 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで二回に亘りまして、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏についてお話してまいりました。それでは、そもそも尼子氏はどこから来たものか、室町幕府中枢から見た時に、どのような一族であったのか、について少しお話できればと思いまする。 
 
尼子氏の主家が京極氏であり、その領地のひとつである出雲の守護代を勤めていた家柄であることには触れましたが、尼子氏もまた京極氏の一門であり、京極家と申さば、室町幕府にあって四職(ししき)の家に数えられる名門でござりました。足利将軍家を頂点とする室町幕府においては、三管四職と呼ばれる七家が重要な役割を担っておりました。三管とはすなわち幕政において将軍を補佐し幕政を統括する幕府管領職に就くことのできる三家のことで、斯波家、細川家、畠山家の三家の何れかからのみ、その必要がある時に任じられた役目でござりました。将軍親政でない場合には、文字通り将軍に成り代わって幕政を執り行う強大な権力を持ちうるものでありますゆえ、限られたものにのみ許された立場でござりました。そして幕府においてその次に大きな力と申しても過言ではないのが、幕府の軍事警察権を司る侍所でありました。そしてその長、侍所頭人(所司)に任じられる資格を有していたのが、京極家、山名家、赤松家、一色家の四家でござりました。誠に余談ながら、筆者が学生の折、日本史の教諭より、四職家の覚え方として紅葉の時期の京を思い浮かべ『京の山は赤一色』と覚えればよいと教わった記憶がございます。そのように室町幕府にあっては中心的な立場を占める名門京極氏の一門ではありましたが、近江源氏の流れを汲む京極氏の西国の領地、出雲の守護代であった尼子氏、主家から見ればあくまで地方領地の経営を任されただけであり、決して恵まれた立場から始まったわけではなかったことは、先に触れました通りでございます。ただ、主家の勢いが衰えてきますと、あとは他にとられるか、内からとられるか、でございますが、内から取って代わられる下克上が尼子氏台頭のお話でござりました。 
 
では、そもそも京極氏は何故幕府においてそのような力を持ちえたのでござりましょうか。時をすこし行き来しつつ遡りながらお伝えできればと思いまする。 
 
京極氏は近江源氏の流れを汲む一族で、基は第五十九代宇多天皇の皇子らの臣籍降下によりまする宇多源氏であり、その中で武家としての頭角を現し、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地として軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏にまでたどりつきまする。 
平安後期、すでに有力武士に数えられる勢力を保持していたと思われる佐々木秀義は、河内源氏棟梁たる源為義(八幡太郎源義家の孫であり、源頼朝の祖父)の娘を妻とし、保元元年(西暦1156年)崇徳上皇と後白河天皇とが争うにいたりました保元の乱においては源義朝(源頼朝の父)に従い後白河天皇方として戦に臨み勝を収めるも、続く平治元年(西暦1159年)に起こりました平治の乱では、おなじく義朝方として共に戦うも敗れ、東国へと落ち延びていくこととなるのでございました。 
 
時は流れ平清盛率いる平氏政権の世、治承四年(西暦1180年)伊豆国に配流の身となっていた義朝の遺児、頼朝の挙兵に際し、相模国の平家方である大庭景親らによる頼朝討伐の動きを知り得た秀義は、子の定綱を走らせ頼朝に危急を知らせるとともに、定綱、経高、盛綱、高綱ら息子たちに頼朝挙兵を扶けさせ、佐々木四兄弟は源平の戦において軍事貴族としての力を示し、後に西国を中心に御家人として大きく勢力を伸ばしていくことになるのでございました。佐々木秀義もまた元暦元年(西暦1184年)の三日平氏の乱にて、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、伊賀・伊勢の平家方残党と戦い、実に九十余人を討ち取るも、自らも討死を遂げたと伝えられております。享年七十三歳、まさに老いて尚盛んな武門の人であったのでございましょう。 
 
そうして鎌倉期に勢力を拡大させていきました佐々木氏は、承久の乱においては官軍と鎌倉幕府軍とに別れて争うこととなってしまいますものの、幕府軍にあって宇治川の戦での戦功大でありました佐々木 信綱は、本貫地のある近江国でさらに複数の地頭職を得るのでございました。近江国領は後に信綱の四人の息子に分割して与えられ、その子孫が大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となっていったのでございます。この内、室町時代から戦国時代にかけてまで名を残していくのは京極家と六角家と申してよいかと存じますが、京極家は、北近江にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡、そして京の京極高辻館を受け継いだ信綱の四男の佐々木氏信の一族がやがて京極氏と呼ばれるように、そして、近江領の多く南近江一帯を受け継ぎ支配していた信綱の三男、佐々木泰綱が、京・六角東洞院に屋敷があったことから、やがて六角氏を名乗る様になったと伝えられております。佐々木宗家は六角氏がそれにあたりますが、では何故室町時代に入り、宗家である六角家をしのぎ、別家である京極家が幕府四職家に数えられるほどの地位を築き得たのでござりましょうか。
そこには、京極家に生を受け、後の室町幕府初代将軍、足利尊氏と共に時代を生き、盟友として共に戦い、あらたな政の基礎を築き上げ、足利政権の立役者とも言われる佐々木道誉(佐々木高氏)の存在なくしては語り得ないものがございます。 
婆沙羅大名と呼ばれ、その華美で奇抜な行動でも知られる佐々木道誉のお話、次の回にてお伝えいたしたくぞんじます。 
 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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