史の綴りもの 007 尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 

婆沙羅大名・佐々木道誉 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで三回に亘り、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏について、そして尼子氏が室町幕府四職家の一家に数えられる、宇多源氏近江佐々木氏の流れを汲む京極氏の一族であることお話してまいりました。 
 
平安後期には、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地としてすでに軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏、頼朝挙兵直後から四兄弟が駆け付け、鎌倉幕府創設の功臣でもございました。やがて鎌倉に武家政権が形作られていく中、事の成行きとしてその形がよく頼朝を支え、輪の如く回ることはなかったものの、一時は源氏一族たる「門葉」に対し、清和源氏の棟梁としての確固たる優位性を示す傍らで、彼らをまた将軍家の藩屏として遇することもしてまいりました頼朝でしたが、それとは裏腹に鎌倉殿として、征夷大将軍としてその権力基盤を固める中で多くの同族や兄弟を滅ぼすこととなり、結果頼朝直系が潰えてしまいました後には源氏一族の柱石たる人物ものこっておらず、幕府は頼朝の遠縁にあたる九条家から公家将軍を傀儡に迎え、その実権は執権として北条得宗家が掌握、佐々木氏もまたその幕府体制を支える御家人として仕える身となるのでございました。
尤も、御家人の中にも下野国足利荘を領した、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国が次男、源義康を祖とする足利氏が、源氏嫡流に近い御家人として在り、足利宗家二代当主である足利 義兼は、頼朝挙兵より従い、おそらくはその一族ではあっても遠からず近すぎずの距離感もあってのことでございましょうか、頼朝にも重んじられ、北条家とも縁を結ぶなどして、幕府御家人の中でも足利家は厚く遇される家として続いていくのでございました。しかしながら北条得宗家としても、源氏嫡流将軍断絶の後、戦においては源氏門葉として軍勢を率い、幕府に奉仕する家柄であり、幕府有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされる足利氏を、警戒もしまた頼みともし、縁戚関係を続け官位昇進などで得宗家に次ぎ厚く遇する傍ら、造営事業などでは多くの負担を強いるなど、手綱を握らんと苦慮する様子もうかがえまする。 
 
時は流れ永仁四年(西暦1296年)、佐々木氏の分家である京極の家に、後の室町幕府の立役者とまで語られるようになる京極高氏(佐々木高氏)が誕生いたしまする。佐々木高氏は当初、執権・北条高時に仕え、高時が正中三年(西暦1326年)、病のため24歳の若さで執権職を辞して出家すると、高氏も共に出家し導誉と号したのでございます。同じく鎌倉幕府に使える御家人であった足利尊氏とは、後に尊氏が後醍醐帝の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受けるまで、名が同じ『高氏』同士、各々執権北条高時より偏諱を受けてのことではあるものの、何かしら気の通ずるものがあったとも伝えられております。 
 
 
さて、時は鎌倉時代も末、幕府の大きな力は京の朝廷にも大きく力を及ぼすようになりまして久しく、それはひとえに武力という力にのみ依存したものではなく、日の本全てを統治するほどの政の仕組みが京の朝廷より離れたところにも作り上げられ、人のいとなみに枠をかたちづくり、支えてきた所以でございました。政の中枢は、紆余曲折ありながらも大きくは平安期に藤原氏による摂関政治から、やがて上皇による院政という形に移ってまいりました。その後、平氏政権の時代を迎え、これまで地下人とよばれ、頭を抑えつけられてきた武家が力を持ち、初期武家政権を形作りはじめましたものの、こと政においては朝廷の政の中で一族の力を伸ばしていくというものであり、さながら武家が摂関政治の主役に成り代わらんとする様なところもございました。 
 
それが、稀代の政治家、源頼朝により幕府というものがはじめて京から遠く離れた鎌倉の地につくられ、頼朝亡きあと、承久の乱を経て幕府は朝廷に対しても大きく影響力をおよぼすまでになりましてございます。後鳥羽上皇による院政もこの時事実上崩れ去り、幕府は以後、皇位継承もその意向に従わせていくほどの力を持つことになりましてございます。 
 
しかしながら、院政そのものは承久の乱の後も続き、公家政権の中枢として機能しつづけ、脈々と受け継がれていったのでございます。ただ、後に、たとえその院政が実質幕府統制下にあったものとは言え、治天の君を定めぬまま文永九年(西暦1272年)後嵯峨上皇(後嵯峨法皇)が崩御したことは、その後鎌倉期を通じて後嵯峨帝の第三皇子、後深草天皇の子孫である持明院統と、第四皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで両統迭立がおこなわれるきっかけとなってしまいました。 
 
時は下りまして文保二年(西暦1318年)践祚した後醍醐天皇は、大覚寺統の天皇でしたが、この両統迭立のために自らの実子たる皇子に譲位することができず、故に譲位して上皇として院政を行うこともまかりならない状況にございました。そのすべてを打破し、政をふたたび自らが中心となる朝廷でおこなうために討幕を志す帝は、二度の挙兵を経て討幕を果たすのでございました。幕府御家人に厭戦の機運も高まり始める中、その流れを大きく変えたのは、後醍醐天皇の綸旨を受け足利尊氏が討幕側に加わったことであり、佐々木道誉もまたこの動きに従い、後醍醐天皇方として幕府側と戦うのでございました。しかし、討幕を果たしたのも束の間、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏と共に戦い、足利政権の確立、室町幕府の設立に力を尽くしていくのでございました。室町幕府において若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護職、そして財政と領地に関する訴訟を掌る政所の執事を務め、さらには公家との交渉事も新たに誕生した室町幕府方として広く引き受けておりました道誉は、軍事貴族化し栄えてきた一族であると同時に、類まれなる政の才にも恵まれた人でございました。 
 
佐々木道誉について事細かに書かれたものは多く存在いたしますので、ここで事細かに書き記すことはいたしませぬが、ただその人となりを伝えるものとして欠かすことのできないものといいますれば、南北朝時代から室町時代初期にかけて見られました、権威を嘲笑し、奢侈で派手な振る舞いをすることや、粋で華美な服装を好む美意識、それら思想や文化的流行、社会風潮をあらわした『ばさら』という言葉が挙げられますでしょうか。語源は、梵語(サンスクリット語)で「vajra (伐折羅、バジャラ)= 金剛石(ダイヤモンド)」を意味すると伝えられ、何かしら頑なに固まってしまった伝統といったようなものを、金剛石のような硬さで砕き割るというような思いがこめられたものとも言われているようでございます。そのばさらを地で行くような生き方をした佐々木道誉は、婆沙羅大名と呼ばれ、奇抜で派手な装いは、後の『傾奇者』につながったとも言われておりまする。連歌・田楽・猿楽・茶道・香道・立花などに通じ、文化人としての顔も持ちあわせる道誉をして公家とのつながりもよく保つことができたのではないでしょうか。 
 
尊氏亡き後、二代将軍義詮時代の政権において政所執事を務め、幕府内における守護大名の抗争を調停するなど、文字どおり様々な場面で足利政権の立役者でございました佐々木道誉、隠居の後、文中二年/応安六年(西暦1373年)、甲良荘勝楽寺にてその生涯を終えましてございます。 
 
佐々木道誉が室町幕府創成期にこのように軍事、政治のあらゆるところで広く関わったことは、まぎれもなく近江源氏佐々木氏の力を盛り立てることにつながり、京極家が佐々木宗家六角氏をも凌ぐ力を幕府内で手に入れる結果を生むこととなったのでございました。 
 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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