史の綴りもの 005 出雲の戦国大名尼子氏 其の二 

出雲の戦国大名尼子氏 其の二 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、戦国大名尼子氏のお話の続きにございます。 
 
尼子経久は天文六年(西暦1537年)に家督を嫡孫の詮久(後の尼子晴久)に譲ったのでございますが、それは若くして優れた将器を見せ、父、経久の覇業を支える立場でございました経久の嫡男、尼子政久が、永正十五年(西暦1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れ、反旗を翻した桜井宗的の討伐に総大将として出陣いたしましたものの、敵の矢に当たって命を落としてしまっていたためでございました。智勇に優れていただけではなく、笛の名手でもございました政久が、長期戦の様相を呈し厭戦気分が流れ始めた陣中で、得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞しては敵方の磨石城を激しく攻め立てておりましたところ、城兵側がその笛の音が聞こえる方を目がけて矢を放ち、それが喉に当たったためと伝えられております。 
 
尼子宗家を継いだ尼子晴久(元服後の初名は詮久)は永正十一年(西暦1514年)生まれ、家督相続時は齢二十三の若き武士(もののふ)でございました。家督を継いだ翌年の天文七年(西暦1538年)には、大内領であった石見銀山を攻略、東に軍を返して因幡国を平定した勢いで播磨国まで兵を進め、石見・因幡・播磨の守護、赤松晴政に大勝、天文八年(西暦1539年)には、東の勢力圏を播磨国にまで広げたのでございました。尤も、これは当時、室町幕府が石山本願寺と対立関係にあり、大内氏・尼子氏等の勢力に対して本願寺に抗するべく上洛が促されていたことが背景にございまして、尼子家はこれを機に近隣諸国に武威を示すとともに、国人衆の統制を強めることを目指したものでございました。そのようなこともあり、晴久は一度出雲に戻っておりますものの、やがて強大化した尼子氏の力が播磨にまで着実に及んでしまうことを懸念した将軍・足利義晴が大内氏に尼子牽制を命じたことを機に、少なくとも表向きは和睦状態にあった大内氏との関係は破綻を見ることとなるのでございました。 
尼子氏は、天文九年(西暦1540年)には大内氏(当主:大内義隆)側であった安芸の有力国人、毛利元就に対し兵を向けておりまする。この時隠居の身であった祖父経久は、まだ小さな勢力ながら元就の器量も知り、出兵には異を唱えたものの晴久は血気にはやり兵を起こしたと『陰徳太平記』に記されてございます。尤も、確かに毛利攻めに先立って石見国の小笠原氏や福屋氏、安芸国の吉川氏や安芸武田氏、そして備後国の三吉氏など、多くの周辺有力国人衆を味方につけており、状勢は尼子氏に有利でございました。そして戦が始まりましてからも、安芸武田氏の奮戦により大内氏の援軍は足止めされ、さらには大内勢と毛利勢との合流を遮るべく本陣を移して牽制をかけるなど晴久は着実に戦を進めていったのでございました。しかしながら最終的には毛利元就の粘り強い籠城先方の前に兵力差を活かして潰しきることもができないまま、陶隆房(後の陶晴賢)率いる大内勢に大敗を喫し、大叔父の尼子久幸までを失い、尼子勢は敗れてしまうのでございました。(吉田郡山城の戦い) 
 
さて、経久の時代に力を大きく強めたものの、尼子宗家の潜在的支配体制の弱点を見据えていた晴久は、東西への武力行使による勢力拡大とともに、時には一族の粛清すらも行いながら尼子宗家に実効支配力を集中させることを続けました。大内氏と並ぶ西国の雄とも言い得るほど強大な戦国大名家となった尼子宗家は、新旧様々の家臣団に支えられておりました。宇山氏(宇山久兼)、佐世氏(佐世清宗)、牛尾氏(牛尾幸清)らが晴久とその前後時代の御家老衆筆頭として知られておりまするが、その中でも筆頭格たる宇山久兼の家は、元々宇多源氏佐々木氏の一族であり、佐々木六角氏から分かれた一族とされており、尼子氏とは祖を同じくする同族でございました。また他に、晴久の時代よりも、その後の活躍で知られる尼子家臣としては、山中鹿之助幸盛の名こそ挙げられるべきでございましょうか。諸説あり定かならぬものの、山中氏は出雲東部での勢力を強めてきた尼子清定(経久の父)の子、尼子久幸を祖とすると伝えられております。尼子晴久から見れば、祖父経久の兄弟(弟)にて、大叔父にあたる人でございます。 
 
経久時代からの考えを引き継ぎ、尼子宗家への支配力の集中を着実に強め、厳島の戦いで大内氏を滅亡へと追いやった毛利元就が西で急速に勢力を拡大する中、西の毛利の侵攻をよく防ぎながら、尼子氏の版図を拡大し、中国地方十一カ国中、八カ国の守護を兼任する西国の大大名家へと尼子氏を成長させた晴久。天文十年(西暦1541年)に祖父経久が亡くなるも、なお尼子の力を示し続けた主としての姿は、祖父経久と比べられれば謀将というよりも、時に血気に逸る嫌いがあるかに見えたかもしれませぬが、出雲国を中心に、戦国時代の難しい両国経営をよくこなし、尼子氏最大版図時代を築き上げたその力量は、決して凡将の能くするところではなかったと言い得るのではないかと思います。天文二十三年(西暦1554年)晴久は家中の統制を図る目的で、叔父、尼子国久率いる尼子氏家中の精鋭軍事集団として知られた新宮党を粛清するのでございます。如何に精鋭であっても、家中にあって傲慢に振舞い、半ば独立勢力の様ですらあり、他の重臣や宗家の晴久との間にも確執を生じせしめてしまう尼子国久、誠正父子は、もはや一枚岩たらんとする家中の統制を乱す存在でしかなくなってしまい、ひいては尼子分裂の基ともなりかねないものとなります。この粛清により、新宮党の勢力基盤であった東出雲能義郡吉田荘、元の塩冶氏領出雲平野西部は晴久のもとに直轄化され、尼子宗家の支配体制強化につながったのでございます。 
月山富田城に連歌師・宗養を招いて連歌会を行うなど文化の隆盛にもつとめ、また独自に朝鮮や明との貿易にも力を入れた様子も見られており、戦国時代、文字通り群雄割拠する苛烈な時代にあって当主として能く尼子氏を導いた晴久でしたが、永禄三年(西暦1561年)居城、月山富田城にて急逝してしまうのでございます。享年四十七でございました。 
 
既に経久亡く、晴久も急逝した尼子家は、晴久の嫡男・尼子義久が継ぐことになりますが、尼子宗家への支配力集中を歴代進めてはきたものの、未だ全きを得た状態にはなく、世は苛烈極まる戦国の時代、晴久の急逝により尼子宗家の当主となった義久に、その途上の歪は容赦なく押しかかってくるのでございました。就中、強敵毛利元就とは石見銀山をめぐる争いが続いている中であり、新宮党粛清は同時に、尼子方の精鋭軍事力が失われた状態であることにもまた変わりなく、国人衆とてまた全て尼子氏の家臣化をしているわけでもない中で突然の宗家継承、そこに隙を生じさせないのは、如何にしても困難といわざるを得ないことでした。 
永禄九年(西暦1566年)、毛利勢に囲まれた月山富田城は開城、ここに大名家としての尼子氏は滅び去ることとなるのでございました。 
 
後日譚ではございますが、尼子氏滅亡の後、先の山中鹿之助幸盛は、永禄十一年(西暦1568年)、京の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ、各地に散った尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがったのでございます。三日月の前立てに鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた姿で知られ、尼子十勇士の筆頭であった幸盛は、勇力優れ、才智にも長けた将であり、その生涯を尼子家再興のために尽くし、各地で戦いを続けていくのでございました。山陰の麒麟児と呼ばれ、やがて戦国の世にその名を響かせていくことになる幸盛は、三日月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と唱えたとされております。 
 

さて、このように守護代から戦国大名へと下克上のお手本が如き姿変わりを見せ、一時は西国最大勢力とまでなった尼子氏。ではその一族は、室町幕府において、元はどのような家に属し、その辿る先は何処から-。次のお話にてそのあたりに触れていきたく存じます。 

 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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