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史の綴りもの 006 尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 

尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、尼子氏の歴史をすこしさかのぼりまする。 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで二回に亘りまして、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏についてお話してまいりました。それでは、そもそも尼子氏はどこから来たものか、室町幕府中枢から見た時に、どのような一族であったのか、について少しお話できればと思いまする。 
 
尼子氏の主家が京極氏であり、その領地のひとつである出雲の守護代を勤めていた家柄であることには触れましたが、尼子氏もまた京極氏の一門であり、京極家と申さば、室町幕府にあって四職(ししき)の家に数えられる名門でござりました。足利将軍家を頂点とする室町幕府においては、三管四職と呼ばれる七家が重要な役割を担っておりました。三管とはすなわち幕政において将軍を補佐し幕政を統括する幕府管領職に就くことのできる三家のことで、斯波家、細川家、畠山家の三家の何れかからのみ、その必要がある時に任じられた役目でござりました。将軍親政でない場合には、文字通り将軍に成り代わって幕政を執り行う強大な権力を持ちうるものでありますゆえ、限られたものにのみ許された立場でござりました。そして幕府においてその次に大きな力と申しても過言ではないのが、幕府の軍事警察権を司る侍所でありました。そしてその長、侍所頭人(所司)に任じられる資格を有していたのが、京極家、山名家、赤松家、一色家の四家でござりました。誠に余談ながら、筆者が学生の折、日本史の教諭より、四職家の覚え方として紅葉の時期の京を思い浮かべ『京の山は赤一色』と覚えればよいと教わった記憶がございます。そのように室町幕府にあっては中心的な立場を占める名門京極氏の一門ではありましたが、近江源氏の流れを汲む京極氏の西国の領地、出雲の守護代であった尼子氏、主家から見ればあくまで地方領地の経営を任されただけであり、決して恵まれた立場から始まったわけではなかったことは、先に触れました通りでございます。ただ、主家の勢いが衰えてきますと、あとは他にとられるか、内からとられるか、でございますが、内から取って代わられる下克上が尼子氏台頭のお話でござりました。 
 
では、そもそも京極氏は何故幕府においてそのような力を持ちえたのでござりましょうか。時をすこし行き来しつつ遡りながらお伝えできればと思いまする。 
 
京極氏は近江源氏の流れを汲む一族で、基は第五十九代宇多天皇の皇子らの臣籍降下によりまする宇多源氏であり、その中で武家としての頭角を現し、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地として軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏にまでたどりつきまする。 
平安後期、すでに有力武士に数えられる勢力を保持していたと思われる佐々木秀義は、河内源氏棟梁たる源為義(八幡太郎源義家の孫であり、源頼朝の祖父)の娘を妻とし、保元元年(西暦1156年)崇徳上皇と後白河天皇とが争うにいたりました保元の乱においては源義朝(源頼朝の父)に従い後白河天皇方として戦に臨み勝を収めるも、続く平治元年(西暦1159年)に起こりました平治の乱では、おなじく義朝方として共に戦うも敗れ、東国へと落ち延びていくこととなるのでございました。 
 
時は流れ平清盛率いる平氏政権の世、治承四年(西暦1180年)伊豆国に配流の身となっていた義朝の遺児、頼朝の挙兵に際し、相模国の平家方である大庭景親らによる頼朝討伐の動きを知り得た秀義は、子の定綱を走らせ頼朝に危急を知らせるとともに、定綱、経高、盛綱、高綱ら息子たちに頼朝挙兵を扶けさせ、佐々木四兄弟は源平の戦において軍事貴族としての力を示し、後に西国を中心に御家人として大きく勢力を伸ばしていくことになるのでございました。佐々木秀義もまた元暦元年(西暦1184年)の三日平氏の乱にて、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、伊賀・伊勢の平家方残党と戦い、実に九十余人を討ち取るも、自らも討死を遂げたと伝えられております。享年七十三歳、まさに老いて尚盛んな武門の人であったのでございましょう。 
 
そうして鎌倉期に勢力を拡大させていきました佐々木氏は、承久の乱においては官軍と鎌倉幕府軍とに別れて争うこととなってしまいますものの、幕府軍にあって宇治川の戦での戦功大でありました佐々木 信綱は、本貫地のある近江国でさらに複数の地頭職を得るのでございました。近江国領は後に信綱の四人の息子に分割して与えられ、その子孫が大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となっていったのでございます。この内、室町時代から戦国時代にかけてまで名を残していくのは京極家と六角家と申してよいかと存じますが、京極家は、北近江にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡、そして京の京極高辻館を受け継いだ信綱の四男の佐々木氏信の一族がやがて京極氏と呼ばれるように、そして、近江領の多く南近江一帯を受け継ぎ支配していた信綱の三男、佐々木泰綱が、京・六角東洞院に屋敷があったことから、やがて六角氏を名乗る様になったと伝えられております。佐々木宗家は六角氏がそれにあたりますが、では何故室町時代に入り、宗家である六角家をしのぎ、別家である京極家が幕府四職家に数えられるほどの地位を築き得たのでござりましょうか。
そこには、京極家に生を受け、後の室町幕府初代将軍、足利尊氏と共に時代を生き、盟友として共に戦い、あらたな政の基礎を築き上げ、足利政権の立役者とも言われる佐々木道誉(佐々木高氏)の存在なくしては語り得ないものがございます。 
婆沙羅大名と呼ばれ、その華美で奇抜な行動でも知られる佐々木道誉のお話、次の回にてお伝えいたしたくぞんじます。 
 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 005 出雲の戦国大名尼子氏 其の二 

出雲の戦国大名尼子氏 其の二 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、戦国大名尼子氏のお話の続きにございます。 
 
尼子経久は天文六年(西暦1537年)に家督を嫡孫の詮久(後の尼子晴久)に譲ったのでございますが、それは若くして優れた将器を見せ、父、経久の覇業を支える立場でございました経久の嫡男、尼子政久が、永正十五年(西暦1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れ、反旗を翻した桜井宗的の討伐に総大将として出陣いたしましたものの、敵の矢に当たって命を落としてしまっていたためでございました。智勇に優れていただけではなく、笛の名手でもございました政久が、長期戦の様相を呈し厭戦気分が流れ始めた陣中で、得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞しては敵方の磨石城を激しく攻め立てておりましたところ、城兵側がその笛の音が聞こえる方を目がけて矢を放ち、それが喉に当たったためと伝えられております。 
 
尼子宗家を継いだ尼子晴久(元服後の初名は詮久)は永正十一年(西暦1514年)生まれ、家督相続時は齢二十三の若き武士(もののふ)でございました。家督を継いだ翌年の天文七年(西暦1538年)には、大内領であった石見銀山を攻略、東に軍を返して因幡国を平定した勢いで播磨国まで兵を進め、石見・因幡・播磨の守護、赤松晴政に大勝、天文八年(西暦1539年)には、東の勢力圏を播磨国にまで広げたのでございました。尤も、これは当時、室町幕府が石山本願寺と対立関係にあり、大内氏・尼子氏等の勢力に対して本願寺に抗するべく上洛が促されていたことが背景にございまして、尼子家はこれを機に近隣諸国に武威を示すとともに、国人衆の統制を強めることを目指したものでございました。そのようなこともあり、晴久は一度出雲に戻っておりますものの、やがて強大化した尼子氏の力が播磨にまで着実に及んでしまうことを懸念した将軍・足利義晴が大内氏に尼子牽制を命じたことを機に、少なくとも表向きは和睦状態にあった大内氏との関係は破綻を見ることとなるのでございました。 
尼子氏は、天文九年(西暦1540年)には大内氏(当主:大内義隆)側であった安芸の有力国人、毛利元就に対し兵を向けておりまする。この時隠居の身であった祖父経久は、まだ小さな勢力ながら元就の器量も知り、出兵には異を唱えたものの晴久は血気にはやり兵を起こしたと『陰徳太平記』に記されてございます。尤も、確かに毛利攻めに先立って石見国の小笠原氏や福屋氏、安芸国の吉川氏や安芸武田氏、そして備後国の三吉氏など、多くの周辺有力国人衆を味方につけており、状勢は尼子氏に有利でございました。そして戦が始まりましてからも、安芸武田氏の奮戦により大内氏の援軍は足止めされ、さらには大内勢と毛利勢との合流を遮るべく本陣を移して牽制をかけるなど晴久は着実に戦を進めていったのでございました。しかしながら最終的には毛利元就の粘り強い籠城先方の前に兵力差を活かして潰しきることもができないまま、陶隆房(後の陶晴賢)率いる大内勢に大敗を喫し、大叔父の尼子久幸までを失い、尼子勢は敗れてしまうのでございました。(吉田郡山城の戦い) 
 
さて、経久の時代に力を大きく強めたものの、尼子宗家の潜在的支配体制の弱点を見据えていた晴久は、東西への武力行使による勢力拡大とともに、時には一族の粛清すらも行いながら尼子宗家に実効支配力を集中させることを続けました。大内氏と並ぶ西国の雄とも言い得るほど強大な戦国大名家となった尼子宗家は、新旧様々の家臣団に支えられておりました。宇山氏(宇山久兼)、佐世氏(佐世清宗)、牛尾氏(牛尾幸清)らが晴久とその前後時代の御家老衆筆頭として知られておりまするが、その中でも筆頭格たる宇山久兼の家は、元々宇多源氏佐々木氏の一族であり、佐々木六角氏から分かれた一族とされており、尼子氏とは祖を同じくする同族でございました。また他に、晴久の時代よりも、その後の活躍で知られる尼子家臣としては、山中鹿之助幸盛の名こそ挙げられるべきでございましょうか。諸説あり定かならぬものの、山中氏は出雲東部での勢力を強めてきた尼子清定(経久の父)の子、尼子久幸を祖とすると伝えられております。尼子晴久から見れば、祖父経久の兄弟(弟)にて、大叔父にあたる人でございます。 
 
経久時代からの考えを引き継ぎ、尼子宗家への支配力の集中を着実に強め、厳島の戦いで大内氏を滅亡へと追いやった毛利元就が西で急速に勢力を拡大する中、西の毛利の侵攻をよく防ぎながら、尼子氏の版図を拡大し、中国地方十一カ国中、八カ国の守護を兼任する西国の大大名家へと尼子氏を成長させた晴久。天文十年(西暦1541年)に祖父経久が亡くなるも、なお尼子の力を示し続けた主としての姿は、祖父経久と比べられれば謀将というよりも、時に血気に逸る嫌いがあるかに見えたかもしれませぬが、出雲国を中心に、戦国時代の難しい両国経営をよくこなし、尼子氏最大版図時代を築き上げたその力量は、決して凡将の能くするところではなかったと言い得るのではないかと思います。天文二十三年(西暦1554年)晴久は家中の統制を図る目的で、叔父、尼子国久率いる尼子氏家中の精鋭軍事集団として知られた新宮党を粛清するのでございます。如何に精鋭であっても、家中にあって傲慢に振舞い、半ば独立勢力の様ですらあり、他の重臣や宗家の晴久との間にも確執を生じせしめてしまう尼子国久、誠正父子は、もはや一枚岩たらんとする家中の統制を乱す存在でしかなくなってしまい、ひいては尼子分裂の基ともなりかねないものとなります。この粛清により、新宮党の勢力基盤であった東出雲能義郡吉田荘、元の塩冶氏領出雲平野西部は晴久のもとに直轄化され、尼子宗家の支配体制強化につながったのでございます。 
月山富田城に連歌師・宗養を招いて連歌会を行うなど文化の隆盛にもつとめ、また独自に朝鮮や明との貿易にも力を入れた様子も見られており、戦国時代、文字通り群雄割拠する苛烈な時代にあって当主として能く尼子氏を導いた晴久でしたが、永禄三年(西暦1561年)居城、月山富田城にて急逝してしまうのでございます。享年四十七でございました。 
 
既に経久亡く、晴久も急逝した尼子家は、晴久の嫡男・尼子義久が継ぐことになりますが、尼子宗家への支配力集中を歴代進めてはきたものの、未だ全きを得た状態にはなく、世は苛烈極まる戦国の時代、晴久の急逝により尼子宗家の当主となった義久に、その途上の歪は容赦なく押しかかってくるのでございました。就中、強敵毛利元就とは石見銀山をめぐる争いが続いている中であり、新宮党粛清は同時に、尼子方の精鋭軍事力が失われた状態であることにもまた変わりなく、国人衆とてまた全て尼子氏の家臣化をしているわけでもない中で突然の宗家継承、そこに隙を生じさせないのは、如何にしても困難といわざるを得ないことでした。 
永禄九年(西暦1566年)、毛利勢に囲まれた月山富田城は開城、ここに大名家としての尼子氏は滅び去ることとなるのでございました。 
 
後日譚ではございますが、尼子氏滅亡の後、先の山中鹿之助幸盛は、永禄十一年(西暦1568年)、京の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ、各地に散った尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがったのでございます。三日月の前立てに鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた姿で知られ、尼子十勇士の筆頭であった幸盛は、勇力優れ、才智にも長けた将であり、その生涯を尼子家再興のために尽くし、各地で戦いを続けていくのでございました。山陰の麒麟児と呼ばれ、やがて戦国の世にその名を響かせていくことになる幸盛は、三日月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と唱えたとされております。 
 

さて、このように守護代から戦国大名へと下克上のお手本が如き姿変わりを見せ、一時は西国最大勢力とまでなった尼子氏。ではその一族は、室町幕府において、元はどのような家に属し、その辿る先は何処から-。次のお話にてそのあたりに触れていきたく存じます。 

 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 004 出雲の戦国大名尼子氏 其の一  

出雲の戦国大名尼子氏 其の一 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏に連なるお話でございます。 
尼子氏といえば、長禄二年(西暦1458年)に生まれ、主家である京極氏の出雲守護代としての立場から、着々と在地で独自の権力基盤を築き、尼子氏を戦国大名へと伸し上がらせしめました尼子経久がまず思い浮かぶところでございましょうか。権謀術数に長け、同時代中国地方で同じく謀将としても名高い毛利元就、宇喜多直家と並び中国地方の三大謀将とも称されております。ただ、弱体化しつつあったとは言え未だ中央から全国の政を執りおこなっていた室町幕府や主家の命をはねのけつつ、取分け主家の京極氏が守護代を派しながらその下部組織たる小守護代や郡奉行といったものたちが存在せず、他国とは少し異なる、守護代による独自の統治支配が長らく行われてきた出雲国では、言わずもがな国人衆(南北朝から室町期、その土地に実行支配力を持っていた地方豪族)はじめ寺社勢力、たたら製鉄場といった在地勢力の力も強く、これら勢力との結びつきを強めていきながら自身の権力基盤を確立させていくことは並大抵のことではござりませんでした。尼子氏の戦国大名としての基礎固めは経久の力量を以てしてはじめて成しえた一大下克上事業とでも申すべきものでございましょうか。中でも、時代が進みやがて各地で守護大名、戦国大名の被官として家臣団に組み込まれていく国人衆ですが、この時期にはまだ大小様々な在地独立勢力としての毛色が強く、それをどう味方とし、味方とし続けられるかは常に勝敗を大きく左右するものでございました。よく言えば気を見るに敏、悪く言えば日和見主義的なところもある彼ら国人衆もまた、その判断は生存に関わる重大事、致し方のないことでもございまして、結果として、旗色次第でまとめて寝返ってしまうということしばしばでございました。経久の勢力拡大策は、その拡大の途上で当然の如く、時に国人衆や他の支配勢力との対立を生むことにもなり、中でも西出雲の塩冶氏と対立は、後に尼子宗家による支配体制を見直さざるを得ない結果を見せつけるものとなったのでございます。塩冶氏と言えば、元をたどれば尼子氏とは同族、出雲国西部で大きな勢力を誇る一族で、鎌倉期には出雲守護を務めていた名族でもございました。 
 
さて、周りをすこし広く見まわしますれば、西に西国一の勢力を誇る大大名、大内氏有り。周防国山口を本拠に東は石見、安芸、西は北九州の筑前、豊前にまでその支配力を及ぼした西国の大大名家にして、その影響力を度々中央にまで及ぼすほどの力を持っておりました。永正八年(西暦1511年)大内義興上洛の折には尼子経久もその軍勢に従ったと伝えられておりますが、後の尼子氏の勢力拡大はやがて利害の不一致による争いへとつながり、時に争い、また時には敢えて触れず、の関係がつづくのでございました。 
勢力拡大のため、縁戚関係による結びつき、養子縁組による他家の取り込みも巧みに行い、旗色を見て靡いてしまう程度の国人衆とのゆるい結びつきを、尼子宗家の意向で動かせる勢力へと変えていくことにも経久は力を尽くしたのでございます。そして先の塩谷氏に対しては自身の子、三男の興久を養子にいれることで取り込むことを図りましてございます。こうして塩谷氏を継いだ塩谷興久は、父、尼子経久の意思を汲み、幕府御料を直轄地化したり、古志氏など在地氏族を尼子勢力配下に組み入れたりするなど力を尽くしましたが、同時に塩谷氏独自の権益もまた守らなければならない立場でもあり、その故に反尼子勢力との結びつきもまた深めていくこととなり、興久率いる塩谷氏の同盟勢力範囲は出雲西部・出雲南部、そして備後北部にまで至るほどとなっていったのでございます。やがて立場の違いは、互いの中に異なる事情を生み、享禄三年(西暦1530年)塩谷興久は、反尼子の旗手を鮮明にしたのでございました。父、尼子経久との争いに際し、出雲大社、鰐淵寺、三沢氏、多賀氏、それに備後の山内氏等の諸勢力を味方とし、規模の大きなものであったことが窺えると共に、尼子宗家の影響力が出雲西部に浸透していなかったことを如実に物語ることでもあったのでございます。また、両者とも大内氏に援軍を求めておりますが、大内氏側では、両者共倒れを狙ったこともあってか、最終的にはやや消極的ながら経久側に立つということを決しております。激しい戦いの後、乱は鎮められ、興久の領地の多くは、次兄である尼子国久へと引き継がれていきました。 
政戦両略を駆使し、時に後退することはありつつも、尼子氏の勢力基盤を着実に強化させた尼子経久、外からは謀将としての顔で知られますが、それが内に対しては細やかな気遣いとなって表れる人物であったとも伝えられております。家臣が経久の持ち物を褒めようものなら、たいそう喜ぶだけではなく、どんなものでもすぐにその者に与えてしまうため、家臣たちも却って気を遣い経久の持ち物を褒めずにただ眺めているだけにしたと言われております。ある時、家臣のひとりが、さすがに庭の松の木なら大丈夫であろうとその松の枝ぶりを称賛したところ、経久はすぐにその松を掘り起こして与えようとしたため、周囲の者が慌てて止めたものの経久は諦めず、とうとう切って薪にして与えてしまったそうでございます。また冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えてしまい、ついには自身は薄綿の小袖一枚で過ごしていたとも言われ、欲なく家中を思い遣る主としての姿が伝えられております。 
 

 

さて、このように守護代から戦国大名へと、まさに下克上の典型とも言える変化を遂げてきた尼子氏ですが、世はこれからさらに乱れ、混沌の中で力が新たな秩序をつくり、戦乱の中で変革を重ねていく時へと向かっていきます。歴代国の力を積み重ねてきた大国でさえただ一度の戦に敗れ滅び去ってしまう時代、尼子氏はどのように舵を取りすすみゆくのでございましょうか。次回、其の二にてお話できればと存じます。 

 
 
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 003 悪左府 藤原頼長 保元の乱と武家政権の基(後編)

前編では、藤原氏のルーツについてお話してまいりました。後編では、まさに時代の大きな流れの狭間に生き、語り継がれるべき藤原頼長卿のお話となりまする。 
 
 
さて、このように興り朝廷の政を長きにわたり主導してきた藤原北家でございますが、悪左府と呼ばれた藤原頼長もまたこの藤原北家に生を受けた公卿のひとりでございました。保安元年(西暦1120年)、時の摂政関白太政大臣、藤原忠実の三男として生まれた頼長は、幼名を菖蒲若(あやわか)といい、『台記』(藤原頼長の日記)によれば、少年時代には父・忠実の命にも従わずよく馬にまたがって山野を駆け巡ったものの、落馬して一命を失いかねないほどの目に遭い、その後は心を入れ替えて学問に励むようになったと伝えられております。そして膨大な和漢の書を読み、やがては誰もが認める博識となったと言われております。元服し、着実な昇進を遂げ、保延二年(西暦1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねるまでになっておりました。 
一方、氏長者として一族を束ねる立場にあった兄・忠通は後を継ぐ子宝に恵まれなかったため、天治二年(西暦1125年)にはまだ幼い弟である頼長を養子に迎えていたのでございました。しかし康治二年(西暦1143年)に実子・基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望むようになった忠通は、父・忠実、また頼長と対立していくようになるのでございました。そのような中、久安三年(西暦1147年)、朝廷に左大臣、右大臣が空席である中、内大臣であった頼長が一ノ上卿(最上位公卿)として朝廷政務を掌握、摂政たる忠通を事実上凌ぐ勢いとなるのでございました。そして久安五年(西暦1149年)、頼長は名実共に最高位である左大臣へと進むのでございます。 
 
時を少し遡りまして、世は白河上皇の院政時代、親政を目指す院の思惑により摂関家の力が弱められていく中で逼塞を余儀なくされてていた摂関家は、やがて鳥羽院政時代になり、頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后(異例中の異例として皇后宮に冊立された)となることで息を吹き返してくることとなるのでございました。
生後程なく祖父である白河法皇の下に引き取られて養育され、生後七ヵ月で立太子、後、父である堀河天皇の死後、わずか五歳で即位することとなりました鳥羽天皇、その治世は、幼帝の後見という形で、太上天皇たる白河上皇の院政が布かれた中での始まりでございました。 
尤も、白河上皇が院政を布くに至った契機は、摂関家当主の師実、その嫡男・師通が相次いで亡くなったことで、まだ若年の忠実(頼長の父)が跡を継がざるを得なかったこと、さらには堀河天皇の早世により摂関家が天皇の外戚の座を失ってしまったことが重なり、権力が半ば然るべく集まってきたことによるとの見方が正鵠を射たものと言い得るかもしれませぬ。
永久五年年(西暦1117年)には、鳥羽帝のもとに白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、鳥羽天皇の中宮とし、保安四年(西暦1123年)には、第一皇子に譲位させ崇徳天皇として即位させておりまする。これにより鳥羽天皇も鳥羽上皇となられたことになりますが、院政の実権は依然白河法皇(嘉保三年(西暦1096年)に出家のため)が握っており、実に四十三年間の長きにわたり院政を布き、政治的実権を掌握しつづけたのでございました。 
白河法皇崩御の後、大治四年(西暦1129年)より、鳥羽上皇による院政が布かれることとなります。幼少の頃より白河院政の駒のようにされ、長きに亘り耐えてきた重石のようでもあった白河法皇の崩御後は、あたかも白河院政時代になされた決定をまるで巻き戻すかのようなことが行われているように見えるところがあるかと存じます。それは否定ゆえか、または策有りてのことか、はかり知り得るものではござりませぬが、少なからず否と言い、巻き戻せることを巻き戻すことで、その思いを現実のものとしたかったというところは無きにしも非ず、と申せますでしょうか。そのひとつが、白河法皇の勅勘を受け宇治に蟄居の身となっておりました前関白・藤原忠実(頼長の父)を呼び戻したことであり、その娘、すなわち上述の頼長の異母姉・泰子を入内させたことでございました。また、白河法皇の側近を遠ざけ、院の要には自己の側近を据えるなどは、いつの世も行われることではございますが、伊勢平氏の平忠盛(平清盛の父)に内昇殿までをゆるし、政権に近づけることも行われたそうでございます。かつて地下人(じげびと)と呼ばれ、公卿の命で戦いをする役割であった武士が、その看過しえぬ実力をもって朝政にも影響を及ぼし始める大きな区切りのひとつでございました。尤も、その素地となる北面の武士(院御所の北側の部屋に詰め、上皇の身辺警護や供奉を司った武士)は、白河法皇が創り調えたもので、既に時代の変化により必要とされるものとなっていたのかもしれませぬ。また寵愛は、白河法皇の後ろ盾を失った藤原璋子(待賢門院)から、藤原得子(美福門院)へと移っていきました。尤も、中宮・藤原璋子(待賢門院)は、幼き頃より白河院の養女となって溺愛されておりまして『古事談』によれば、鳥羽院は、第一皇子である崇徳天皇のことを「叔父子」(祖父・すなわち自身の子ではなく白河院の子)と呼んでいたとされておりますこともあり、白河法皇という重石がなくなった時に、寵がうつるのもまた致し方ないところであったのかとも思われまする。 
 
何はともあれ、鳥羽院政下において、摂関家も、内にまとまりを欠いたままではあったにせよ総じて力を盛り返してくることができたのでございまする。しかしながら崇徳天皇に譲位させ、齢三で即位した近衛天皇の元服(久安六年(西暦1150年))に合わせ頼長の養女・多子が入内すると、兄・忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に摂関家の娘でなくば立后できない旨を奏上、もはや忠実・頼長と忠通との亀裂は如何にしても繕い得るものではなくなってしまったのでございました。事実、これに立腹した忠実は、摂関家の財を忠通より接収し、また氏長者の地位をも剥奪しこれを頼長に与え、忠通を義絶してしまうのでございました。 
 
鳥羽法皇はこれら一連に敢えてあまり深く関与はせず、曖昧とも言える立場でしたが、何にせよ左大臣であり、氏長者ともなった頼長は、政に意欲高く取り組み、取分け学術の再興と綱紀粛正を目指したと伝えられております。後に悪左府と呼ばれることになるのは、その苛烈で妥協を許さない性格からのものであり、『悪』という語が、元は剽悍さ力強さをも表す言葉として使われてきたことに由来するものと考えられております。しかしながら、実際の慣例や個々の事情などよりも、律令や儒教の論理をはるかに重視し、苛烈に事にあたっていく頼長の政は周りに理解者を減らし、院近臣である中・下級貴族からの反発を招き孤立を深めていくこととなってしまうのでございました。そしてその苛烈さゆえに周囲との衝突を繰り返す頼長は、綱紀粛正の動きの中で結果的に寺社勢力との対立も深めてしまい、政の有り方を正そうとする思惑に基づく行動は、却って頼長の対立者を生み出してしまうことの方に、よりつながってしまうのでございました。 
久寿二年(西暦1155年)近衛天皇の崩御に伴い、皇位継承者を決める王者議定が開かれることになりましたが、この時期、頼長は妻の服喪のため出仕できておらず、また王者議定とは申しましても、その実は権大納言 三条公教が主導し、鳥羽法皇、関白 藤原忠通、久我雅定ら少数と密かにはかり、後継を定めてしまうというものでございました。当初、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が後継と見られ、父である上皇もそれを望んでおりましたが、崇徳上皇が藤原頼長と結んで先の近衛天皇を呪殺せしめたとの噂がまことしやかに宮廷内でささやかれ、それが鳥羽法皇の逆鱗に触れ、重仁親王は皇位継承の道から遠く退けられてしまうのでございました。代わって、生母が出産の後に急死したことで、祖父にあたる鳥羽法皇が引き取り、その后たる美福門院に養育され、僧侶となるため九歳で覚性法親王のいる仁和寺に入っていた孫王に目が向けられることとなりました。これがやがて皇位を継ぐことになる守仁親王(後の二条天皇)でございますが、如何にしても幼少であったこともあり、且つ実父も存命であるものを、それを飛び越えての即位はさすがに如何なものかとの声も無視できず、守人親王即位までの中継ぎという形で、その父、雅仁親王が立太子もせぬまま即位することとなったのでございます。それこそが第七十七代天皇、後白河天皇でございました。尤も、この突如として雅仁親王を擁立する運びとなった裏には、雅仁親王の乳母の夫であった信西の策動があったと言われておりますが、定かなところは知る由もなきことにございまする。しかしながら、ここに権力をめぐり激しき政略戦が繰り広げられ、その中で内覧としての立場も奪われた頼長は失脚に等しい状態とされていたのでございます。 
 
その翌年、保元元年(西暦1156年)二十八年の長きにわたり院政を布いた鳥羽法皇の崩御を機に、それまで薄氷の下を流れていた水が亀裂からほとばしるかの如く事態は動き始めるのでございました。世に言う保元の乱でございます。保元の乱につきましては、他に事細かく述べられているものも多く存じますので、ここではそのあらましに触れるのみといたしまするが、「(崇徳)上皇と左府(藤原頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞により謀反人の烙印を押され、嵌められた形ではあれど対せねばならぬ状況へと頼長は追い込まれていくのでございました。平氏源氏の武士を動員し、武力の上で優位にたつ後白河天皇陣営は、形の上でも官軍であり、それに対して事ここに至りては挙兵するより外ない頼長は、挙兵の大義として崇徳上皇をいただいて臨むこととせざるをえなかったとも言えましょうか。摂関家の私兵がほとんどを占める中、武士で上皇方に参じていた源為朝が夜襲を献策するも、頼長はそれを退けたと伝えられております。興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待ち、夜が明けてから相対するということに軍議は決した様でございますが、悲しいかな頼長は政の知見は豊かでも、軍の駆け引きに通じた人ではなかった様でございます。このような常ならざる時、人は平時の儀礼や日頃のあるべき姿といったものを敢えて忘れ、敵を退けることをこそ考えねばならぬものかと存じますが、頼長にはそこまで割り切ってしまうことはできなかった様でございます。時を同じくして、後白河天皇陣営でも夜襲が献策され、逡巡する藤原忠通(頼長の兄)を信西、源義朝(源頼朝の父)らに押し切られ、夜のうちに攻めかかることで決したのでございます。平清盛率いる三百余騎、源義朝率いる二百余騎、そして源義康(足利氏の祖)率いる百余騎が京の大路をそれぞれ進み寅の刻(午前四時)に上皇方との戦が始まったと伝えられております。一進一退の攻防が続くも、やがて放たれた火が白河北殿にも燃え移り、上皇方は総崩れとなってしまうのでございました。 
落ち延びる際、源重貞の放った矢を頸部に受けた頼長は、出血による衰弱に苦しみながらも逃亡を続け、末期の望みとして奈良に逃れていた父、忠実に今際の対面を望むも拒まれ、失意のなかで絶命したと言われております。 
 
時代の流れではございましょうが、朝廷での権力争いが、武士の力をも巻き込んでこのような形でひとつの結末を迎えました保元の乱、やがて世は着実に武士が力を持つ時代へと移り変わっていくのでございました。 
 
頼長の死後、長男の師長、次男兼長、三男隆長、四男範長は、乱を起こした父頼長と連座させられる形で、いずれもが官位剥奪の上配流とされてしまいました。長子の師長は、後に許されて京に戻り、内大臣にまでのぼり、やがては従一位・太政大臣にまで昇っておりますが、他の三人は、そこから戻り返り咲くことはできませんでした。頼長は、生前、彼らに、学問を決して疎かにせざることを諭してきたと言われております。家風として、学問を重んじ、それによって得た知見を政の中で活かし、国を支えることの意を教え伝えていたのではないでしょうか。 
世が移り、再び藤原摂関家が日の本の政全てを動かす時が再び来ることはなくなれども、続いて到来する長きにわたる武家支配の世にあっても、藤原北家流に連なる摂関家は、五つの家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)即ち五摂家に分かれて、脈々と続いていくのでございます。 
 

 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 002 悪左府 藤原頼長 保元の乱と武家政権の基(前編)

悪左府 藤原頼長 保元の乱と武家政権の基 
 
 
さて、前回、左大臣の登場により血筋によってのみ与えられた権威を振りかざす一条三位も、ぐうの音もでなくなってしまった場面をお話いたしましたが、律令制下の朝廷において最高行政機関たる太政官の最高位が左大臣でありましたことはお伝えしたとおりでございます。今回は、そんな左大臣を任じられた方々の中でも、悪左府と呼ばれた平安末期の左大臣・藤原頼長卿について少しお話できればと存じます。 
 
因みに『左府』とは、左大臣の唐名のことでございますが、府にはもともと古代中国において官物や財貨を収蔵した蔵という意味がありました様で、やがてその蔵が立ち並んだ場所が重要拠点として政を執り行う場となり、延いてはその長を言い表す言葉となっていったためではないかと考えられます。 
 
左大臣 藤原頼長についてお話する前に、皆さまご存知の藤原氏について、時代を遡ってみたいと思います。 
 
藤原一族の中でもよく知られた方と言えば、平安中期に、その権勢並びなきと言われた藤原道長が挙げられますでしょうか。天皇外戚となり、摂政として政の実権を掌握、祝宴の席での即興の歌『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば』はその権勢並びなきことを後世につたえるものとしてよく知られたものでございます。
悪左府、藤原頼長も大きな流れとしては、その道長と同じ藤原北家の流れを汲む貴族でございました。 
 
ではそんな藤原一族はそもそもどこからやってきたのか、と申しますれば、さらに時を遡りまして飛鳥時代、大化の改新にて中大兄皇子(後の天智天皇)を支え、政権の中心的立場として、それまでの豪族中心の政から、唐の律令制に倣い、天皇中心の中央集権国家体制をつくり上げる基を築いた、藤原鎌足まで行きつくことになります。その始まりは、皇極天皇四年(西暦645年)のことでございました。大化の改新以降、天皇という呼称が正式なものとなったと伝えられておりますが、各地に豪族が濫立し、広大な私有地に対して公に支配力を持つ中では大王(おおきみ)を中心としつつも、実質的なところはおろか、形式的にもまだまだ諸勢力の集合体であるところに留まったままであり、統一国家としてより大きな力を示すことは事実難しいことでございました。申すまでもなく、それまでの伝統に基づく氏族制をいきなり廃してしまうことによる混乱は避けなければならず、ゆえに少しずつ、我が国の在り様を鑑みながらも律令制を採り入れていき、真に天皇を中心とした中央集権国家へと制度を整え始めたというところでは、国が国として成るための大きな変革のはじまりであったと申せますでしょうか。 
早くから中国の史書に高い関心を持ち、遣唐使として留学していた南淵請安に学び、国家の有り方というものを改革の旗手として進めていきました鎌足ですが、最初から藤原であったわけではなく、神事を司る中臣氏でありました。中臣鎌足として改革を進め、天智天皇の信任も厚かった鎌足は、落馬して療養する中、天智天皇が見舞い、その際に大織冠の位と、藤原の氏を賜り、その翌日に身罷ったと伝えられております。鎌足五十六年の生涯でございました。大織冠の位は大化三年(西暦647年)に制定された七色十三階冠の制における最高位であり、史上、大織冠となったのは藤原鎌足の他にはおりませんでした。また、この時賜った藤原の氏は、鎌足が大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)の生まれであることによるとも言われております。家々が氏を単位として結合し、氏族として朝廷を支える支配階級の構成単位でもございました。そのことからも新たに氏が作られるということは、どれだけ大きな意味を持つものであったかを伺い知ることができるかと存じます。 
 
こうして天智天皇の治世、国家の功臣として大きな力を持つにいたった鎌足の一族ですが、鎌足亡き後は、一転不遇の時期を迎えることになります。鎌足の子、不比等(史)は、幼くして父を亡くし、鎌足の死後中臣氏の中心的存在であった右大臣 中臣 金が、天智天皇の後継争いである壬申の乱において、天智天皇の子、大友皇子方として敗れ処刑されるに至り、勝者たる天智帝の弟、大海人皇子、すなわち天武天皇の治世には、乱とは無関係であった鎌足流も不遇の時代を迎えることとなったのでございます。金をはじめとする中臣氏の有力者が近江朝(大友皇子)方として処断され、朝廷の中枢から一掃されてしまった天武天皇の御代、天皇親政の下、時代は大きく変化を続け、官制もまた大きく改革されます。広く優秀な人材に官途をひらくべく、宮廷に仕える者をまず大舎人とし、その後才能を見極め官職につける制度となりました。世を鑑み、一から始めることも厭わぬ史(不比等)は官途に就くべくこの新制度下で歩み始めるも、後ろ盾を持たない不比等にはいつまでたっても道が拓かれないどころか、ただ鎌足の子として視られ退けられたまま時が過ぎていくのでした。しかしながら、不比等はこの時を無為には過ごさず、勉学に勤しみ、来るべき律令制国家時代において必要とされる知識を誰よりも多く身につけていくのでございました。また、ただ待つだけではなく、伝手と人脈づくりにも腐心した不比等は、天武帝の治世後期には、従兄弟の中臣大嶋と共に草壁皇子(天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子)に仕えていたと伝えられております。 
忍耐強く、慎重に着実に動いた不比等に、やがて次の持統天皇(天武天皇皇后)の時代、転機が訪れるのでございます。天武天皇薨去に際し、後事を託された皇子と皇后でしたが、皇子の年なども鑑み、皇后自らが天皇の位につくこととなるのでした。草壁皇子に仕えながら、その立場に加え、政をはじめとする幅広い知見を以て持統帝の信頼を得ていく不比等でしたが、生まれつき病弱でもあったと伝わる草壁皇子は、その後皇位につくことなく持統天皇三年(西暦689年)二十七歳の若さで薨御されてしまうのでございました。当時、皇位継承に関して直系継承などの定まり事は未だなく、皇族の中からその出自、地位や力により次の天皇が選出されておりました。おそらくは母の身分の高さをはじめ幾つかの条件が揃ったことですでに立太子されていた草壁皇子でしたが、それが即ち、皇太孫にあたる皇子の子、軽皇子の皇位継承を何ら確かなものとすることにはつながらなかったのでございます。しかしながら我が子であり、やがて皇位を継がせるべく慈しみ、時と場を整えてきた草壁皇子を亡くした持統天皇の想いは、草壁皇子の子、己が孫にあたる軽皇子へと自然注がれることになり、何とか軽皇子に皇位を継承させたいと願うようになっていったのは、何ら不思議なことではなかったかと思われます。ここで持ち前の優れた観察眼と智慧を活かし、軽皇子(後の文武天皇)の擁立に尽力した功績は大きく、また卓越した政の知識を以て大宝律令編纂においても中心的な役割を担うこととなった不比等は、その影響力を政治の表舞台へと及ぼしていくのでございました。さらに、軽皇子の母たる阿閉皇女(後の元明天皇)に仕えその信任厚く、細やかな心配りだけではなく、政治的な視点においても優れたものを持っていた女官と伝わる県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)との関係と力添えは、不比等が皇室との関係を深めていく上で大きなものとなるのでございました。尤も、力をつけてきたことで皇族たちの目もまた彼らから見て危ういものとして不比等に向けられることになります。一つ段を踏み誤ればすべてが崩れてしまうような中、慎重さを重ねても重ねすぎることはないくらいに、地歩を固めていったのではないかと思われるのでございます。さて次に不比等は、やがて皇位を継承する軽皇子と自身の娘との距離を近づけていくことに心を砕くのでございますが、後に、天皇の外戚となることで実権を握る摂関政治の基は、不比等がこのような思いの中で築き始めたものでございました。しかしながら、この時代には、皇后、妃となることができるのは皇族出でなければならず、たとえ如何に信頼を得、位を得たとしてもなお、不比等にできるとすれば、己が娘を皇后、妃より位の劣る天皇の夫人とさせることまででした。即ち、側室にはなれても正室にはなれない、ということとなりますが、では天皇の位についた文武天皇(軽皇子)が、皇族の中から妃を迎えず、夫人しか迎えなかったとしたらどうなりますでしょうか。その時には、夫人が皇子を生めば、その皇子が皇位を継ぐことになります。皇位を他の皇族ではなく天皇の子が継承していくものという流れを形づくってきたことがここで意味をもつのでありますが、いにしえのことにて、定かなことは推しはかるより外はございませぬものの、時の流れが味方をしたものか、不比等が遠大な思いの中でこのような流れをつくり上げていったものなのか、誰にとって最も益のあることであったのか、ということから伺い知るばかりとなりますでしょうか。
果たして不比等の娘、藤原宮子は即位した文武天皇(軽皇子)の夫人となり、文武天皇には他にそれより位の劣る嬪はいても、皇后、妃を迎えたという記録はなく、文武天皇と宮子の間に生まれた首皇子が、やがて聖武天皇として即位することとなるのでございました。
さらに不比等は橘三千代(県犬養三千代)との間にもうけた娘、安宿媛(光明子)を首皇子に嫁がせます。養老四年(西暦720年)不比等は六十二年の生涯を閉じることとなりますが、光明子は不比等の死後、力を合わせた不比等の息子たち藤原四兄弟により光明皇后となり、皇族ではない立場からの立后の先例を開いたとされております。 
 
藤原氏を新しい律令制国家の政の中枢へと導き、神事を司る中臣氏とは一線を画す立場に位置付けんとした不比等の意思により、藤原氏は不比等とその子孫にのみ許され、他の一族は再び中臣氏たることとされたのでございますが、政を律令制という、制度として動くものへと進めていくこと、それは、政を前時代的な神権政治から脱却させ、次の形へと変えていくことの必然性と、それに欠くべからざる学問を重んじた不比等の姿勢なくしては得られぬものであったかと思われるものでございます。 
不比等亡き後、武智麻呂(むちまろ・藤原南家開祖)、房前(ふささき・藤原北家開祖)、宇合(うまかい・藤原式家開祖)、麻呂(まろ・藤原京家開祖)の四兄弟がその遺志を継いていくのでございますが、その道のりは決して平坦なものではなく、幾多の政敵との争い、また時には一族内での争いの歴史でございます。時は流れ、嵯峨天皇の時代に、帝の信を得た当主冬嗣が朝廷内での力を伸ばし、冬嗣より三代続けて北家嫡流が外戚の地位を保ち続けることができたことにより確固たる地位を築きあげ、先述の藤原道長、そして頼道の時代の全盛期へとつながっていったのでござりまする。 
 

次回後編では、悪左府 藤原頼長の時代のお話へとつづきまする。

 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 001 水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま

水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま 
 
 
皆さまご存知の人気時代劇『水戸黄門』。越後のちりめん問屋のご隠居という世を忍ぶ仮の姿で日の本全国を旅してまわり、各地で権力を傘に悪事を働き、民百姓を苦しめる悪党を見つけては厳しく仕置きするのは、徳川御三家の一家、水戸徳川家(但し当初は水戸松平家で、駿河徳川家断絶後に徳川を賜姓される。)常陸水戸藩の第二代藩主、徳川光圀(水戸光圀)でございました。 
どこからともなく現れて、いままで甘い汁を吸い放題だったところに賢しげに説教する旅の一行。悪事を働く者たちにとって、それはさぞかし不愉快不機嫌極まりないものに違いありません。せっかく悪事で潤い築き上げた今の立場を手放そうとするはずもなく、たかが旅の商人の一行くらい後でなんとでもなると、お約束で皆殺しを手下に命じます。 
ところが、葵紋の印籠を見せつけられて相手が実は徳川光圀(水戸光圀)であると告げられるものだからさぁ大慌て。世は徳川宗家を頂点とする江戸幕府が治める江戸時代、そして水戸光圀と言えばその徳川宗家に近い一族の先代当主です。目の前にいるただの老いぼれと見下していた相手が、実は大変な権力者であったわけですから、何はともあれひれ伏してしまいます。露見した悪事を誇らしげに語り、思いっきり開き直ってしまったわけですから、手下に始末させてキレイさっぱりとの目論見が一転、自分たちが始末(処断)されてしまいそうなことになってしまったとなれば、それはもうびっくり仰天です。 
 
さて、当時、財力の基となるものはご承知のように基本的には土地でした。水戸黄門のご一行が旅をしていた土地というものは、実際にはもっとずっと細かく分かれますが、きわめてざっくりと分けてしまえば、天領か大名領かの何れかでございました。天領は幕府直轄地で、幕府が直接治める地であり、ここにいるのはいわゆる幕府が任じた代官です。一方で大名領地は、徳川家との関係、幕府への貢献度合などから幕府に領地を治めることを許された大名家が治める土地でした。幕府に近しい順に親藩、譜代、外様となっておりますが、いずれもそれぞれ大名家がやはり代官をあちこちに配して治めておりました。日の本全土の実行的支配権を徳川宗家の江戸幕府が握っている時代、例えどこのどんなに小さな村であっても、水戸黄門のご威光というものは、それは強いものでありました。なぜなら、天領であった場合には言うに及ばず、大名領地であったとしても、その大名たちの中で徳川幕府に逆らえる者など存在しない程の力の差があり、幕府に従属している関係でしたので、詰まるところ権力を傘に着て悪事を働く者たちの拠り所となるその権力が、すなわち最終的には徳川江戸幕府の力であり、ゆえにご老公の身分を表す印籠は全国何処でも効果覿面なのでございました。 
 
ところが、ごく稀に印籠を見ても全く意に介さない悪しき権力者が登場します。取り分け江戸初期における武家主導の実行支配体制を鑑みるに、上の者と言えば将軍家に、他の御三家当主たちと数えるほどの徳川光圀ですが、確かにそれだけの考えの枠には嵌らない高位者が存在しました。それらの代表的存在が、天皇と、天皇を中心とする公家です。そもそも、如何に実行支配力を持っていたとしても、徳川宗家とて我が国においては天皇の臣下であり、水戸光圀とてまた例外ではありませんでした。徳川宗家が戦国の世を経て覇者となるよりもはるか昔より、我が国は朝廷により治められてきておりましたし、鎌倉時代以降、長きにわたり武家の政治的独立に伴う複雑な二元政治的流れを形作りながらも、少なくとも形式の上では変わるものではなかったためです。 
このような印籠に屈しない悪しき権力者の例は数回あった様なのですが、その中のひとりに、一条三位という公家がおりました。印籠を見せられても屈するどころか薄笑いを浮かべ、『麻呂は帝の臣であり、徳川の家来ではおじゃらん!』と光圀たちに言い放ちます。 
 
さてこの一条三位、曰く中納言を務めたとのことですが、分解してみますと一条家の一族であり(分家ではないと仮定)、位は三位(正三位もしくは従三位の何れか)、また官(官職)として中納言を務めたことがある、ということになります。公家には家格というものがあり、その家格毎に位や官に上限が定められておりましたが、一条家と言えば藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする藤原北家の流れを汲み、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流として公家の最高位に数えられる藤原嫡流五家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)の一家、まさに名門中の名門、摂政・関白の位に就ける唯一の家格でした。とはいえ一条家といっても大きな家ですので、少なくとも一条宗家や中心的な人物ではなかったとは思われますが、名門ゆえに相応の官位に恵まれていた存在と考えてよいと思います。因みに、中納言に限らないことと言えますが、南北朝時代以降は中納言の正官は任命されなくなり、もっぱら権官(「権」は「仮」の意で、主に正規の官職員数を越えて任命する場合に使われた。実権を伴わぬ名誉職的な側面も。)のみが置かれたそうですので、一条三位もまた、権中納言であった可能性が高いと考えられます。 
ではその一条三位中納言に対して、同じく帝の臣たる徳川光圀ですが、寛永十七年(西暦1640年)従三位の位に叙せられ、官は右近衛権中将、参議などを経て隠居後の元禄三年(西暦1690年)権中納言となっておりました。皆さまよくご存知の通り、水戸黄門の『黄門』は、中納言を中国の官職名諷に言ったもので『黄門侍郎』から来ております。
官と位はほぼ相当するものであり、中納言の位は従三位とされておりましたので、一条三位も途中で何らかの特別な御沙汰など無き場合、正三位への昇叙はなく従三位のままであった可能性が高くなります。 

その場合には、どちらも位は従三位、どちらも官職は権中納言となり全くの同格同列です。そんな一条三位が徳川一門の印籠に対して平伏する理由は確かにありませんが、帝の臣であるのは光圀もまた同じですね。 
 
事の裏側を知った光圀は、そのような一条三位の反応は予想済で、目には目を、公家には公家を、と、一条三位が頭の上がらない良識人に事情を説明し助力を頼んでおりました。光圀を罵る一条三位の前に登場したのは朝廷の左大臣、これにはさすがの一条三位も仰天です。律令制において司法・行政・立法を司る、いわば最高行政機関たる太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言、そして後に中納言・参議が加わり、議政官として政務の重要な案件を審議する場であり、且つ太政大臣は常設の地位ではなかったため、事実上左大臣がいわば太政官における最高責任者でありました。そして菊亭と名乗った左大臣、菊亭家といえば今出川家のことであり、公家の家格としては、最上位の摂家につぐ清華家(時代により異なるが、主に三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・今出川の七家を指す。)の家格、太政大臣まで就任できる家格でしたので、左大臣として一条三位を叱責する立場での登場となったのであろうと考えられるかと思います。 
 
武家官位ではあるものの、やはり高位の水戸光圀、それに全く物怖じしない相手としては、それ相応の公家が必要であったのでしょう。五摂家の家格の公家まで登場させますが、最後には光圀の仕込みに屈することに。その相手として清華家家格の左大臣を配するあたり、やはりよく考えられていますね。 
 
至極簡単ではありますが、少しだけ幅を広げて名シーンを回想してみました。いつもの定番シーンに、こんな一波乱がこれまで幾度かあった様ですが、何せ有名な場面ですので既に情報も出揃っているかとは思います。ただ、ほんのすこしだけ深堀してみることで、また新たな疑問が湧いてはこないでしょうか? 
 

回を重ねて、いろいろなちょっとした歴史の深堀におつきあいいただければ幸いです。 
 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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新コラム 史(ふひと)の綴りもの ~歴史の入口~ 連載開始のご案内

のこす記憶ドットコムコラムでは、この度、新たに歴史をテーマにしたものを連載開始いたします。 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。 
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 

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朝の音 ~新型コロナウイルス感染症拡大リスクの中で~

新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止を図るべく、緊急事態宣言が4月7日に発出されてから、3週間以上が過ぎました。2月末に様々な感染拡大防止策が追加、強化する形で講じられはじめてからだと、もう2か月以上が経ちます。この新型コロナウイルス感染症により亡くなられた方、また感染により今この時も苦しんでいる方が全国に多くいらっしゃる中、ただ一日も早い終息を願うばかりです。
 
感染リスクという見えない恐怖と否応なしに向き合わなければならない今、命を守るために様々な社会経済活動に著しい制限がかけられ、感染リスクによる生命の危険に加えて、先の見えない大きな不安を抱えていない人はいない状態が続いています。今日明日の暮らしさえ見えないという人が日々社会にあふれてきて、支え合いにもどうしても限りがあり、国や自治体による迅速な支えなしには、社会全体がより深手を負うことになってしまいます。
 
活動を停止させられてしまった今、いたるところで街明かりも早くに暗くなり、都心部でも週末とは思えないような静寂につつまれています。そして明け方には、澄んだ空気に包まれた、いつもよりしんと静まり返った世界が、まるで何もかもが無くなってしまったかのような印象さえ与えてきます。そんな中、耳に入ってきた、遠ざかっていく新聞配達のカブのエンジン音は、社会はそれでも動いているんだな、と感じさせてくれるものでした。
 
元のようには、同じようには戻らないところがきっとたくさんあることと思います。けれども、少なくとも人が人として暮らしていける社会、未来を見据えることができる社会を再び取り戻すために、できることを、できるだけ、ひとりひとりが今やっていければ、と思います。

 

 
終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。

エンディングノートの未来

少子高齢化が進む中、家族の形もまた形を変えてきました。核家族が家族形態の中心を占め、便利になったかに見える社会は、一方でその不規則さゆえに却って家族で共にすごす時間というものを失わせてしまっている側面があると言っても過言ではないでしょう。『個』の時代といわれる中、結局一方で、人とのつながりを様々な形で求め続けるのが私たち人間かもしれません。
 

そんな人とのつながりの基となっている家族の絆、そしてそれは誰しもが持っている自分のルーツです。日々の多忙さになかなか振り返ることができなかったルーツを、人生の終盤に振り返ってみる機会をエンディングノートの記録を通じて持たれる方も多い様です。
 
はじめは、単に最後を迎える時に迷惑をかけたくない、きちんと準備をしてサッと逝こう、という思いからペンを執る方も少なくないと思いますが、記録を綴っていく中で甦る様々な記憶、出会いはそのひとつひとつが自分の人生の1ページ、無かったとしたら違うストーリーになっていた、大切なものだと気づかされることもあるのではないでしょうか。あの人の忘れ得ぬ言葉、すべてが詰まった一枚の写真、そういったものを残して、自分史として伝えていくことの意味は大きいのではないでしょうか。
 

今は分かってもらえないかもしれないけれど、いつか孫が大きくなった時にしてやりたい話、もう二度と撮ることはできない、たった一枚の貴重な写真、自分が知りたいと思って調べることが大変だった先祖の話がもししっかり残っていたら…。少なくとも自分の歴史からはきちんと残すことが出来れば…。
 

ひとりひとりが人生の棚卸しをして、自分の生きた証を残していける、終わりではなく、未来へのつながり、それがエンディングノートの大切な役割となっていくのではないでしょうか。
 

 
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老後の暮らしとペット ~ペットと一緒にお墓に入るということ~

世帯、家族の形が様々変わる中で、人生の終盤を誰と過ごすのか、ということもまた当然変わってきました。子供がいて、一緒に暮らしていて、お墓に入っても家の墓として家族が墓守をしてくれる、という形は、家庭毎様々な事情からではあっても、年々その形を維持できなくなってしまうケースが増加傾向にあるという事実認識は、間違ったものではないでしょう。
 
高齢者の一人暮らし世帯も増え、そこに地域のつながりというものもあるわけではなく、いままでいろいろあった『つながり』を失くしてしまうことは、やがて活力を失っていくことにつながってしまいがちです。支え、支えられることで人として在ることができる-それは老若男女を問わず等しく言えることではないでしょうか。
 
つながりと言えば人と人とのつながりはもちろんですが、ペットとの触れ合いが認知症の予防につながるということも介護業界を中心に言われています。これは、ペットとの触れ合い、特に飼育とするという責任を伴う行動が、認知症予防において大切だと考えられている「記憶」「運動」そして「会話」を伴うからだそうです。飼い主として面倒をみる以上、食事や予防接種などなどきちんと把握、記憶しておかなければならないことはありまあすし、犬などであれば散歩が運動につながります。また、例え言葉でのコミュニケーションができないとしても、愛情をもって話しかける行為は、独りきりで言葉すら発しない日常と比べてどれほどよいことでしょうか。ペットは家族同様と思ったり、あるいはそれ以上の絆で結ばれたりする人もめずらしくはありません。それは、そこにしっかりとした『つながり』があるからではないでしょうか。
 
ただ、ペットを飼うということはもちろん責任を伴いますし、長年ペットを飼ってきた方であればあるほど、その責任感から、高齢となって、もし自分が先立ってしまったら、という不安からペットを飼うことをやめてしまう方も多くいらっしゃいます。確かにしっかりと考えておかなければならないことですが、予め里親を探しておくなどできることもまたあり、ペットを通じて新しく広がる人とのつながりもあるかもしれません。また逆にペットが先に亡くなってしまう悲しみ(ペットロス)も訪れ得ることではあります。
 
そしてそこまでのつながりで結ばれたペットとは、同じお墓に入りたい、という願いを持っていらっしゃる方も少なからずと思います。
のこす記憶.com パートナー寺院である善福寺(浄土真宗/神奈川県 小田原地域)には、全国でもめずらしい、ペットと一緒に入ることのできる墓地が境内の一角にございます。ペットと共に永眠できるところを、という方にはこちらで詳細をご案内いたしております。

 
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