此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、近衛家と並ぶ五摂家の双璧とされた九条家の起こりとともに、武家がもはや公家の意のままに動く軍事貴族から一段上の存在へと昇ってきた時代における摂関家の姿を見つめてみたいと思いまする。
時は、後に鎌倉時代とよばれることになる時に入りましてからしばらく後、鎌倉に幕府を作り武家政権を樹立した源頼朝が世を去り、三代将軍となった頼朝の次男、源実朝が兄、頼家の忘れ形見である僧・公暁の手で弑され、混乱の中でさて次の鎌倉殿を誰にするかと思惑が入り乱れている時でございます。
京では、後白河院も既に崩御、建仁二年(西暦1202年)には失脚した前の関白九条兼実は出家し、源通親(土御門通親・正二位、追贈 従一位)は薨逝、いよいよ名実共に治天の君として院政を布き、朝政を主導する後鳥羽院でございましたが、鎌倉を本拠とし坂東武士の武力があつまり、その上に統治体制が整いつつあった鎌倉幕府は、どうにか手駒にしたいところでございました。元は源氏に率いられた軍事貴族集団、実の態はさておき源氏は天皇家から別れ出た氏族でありましたが、混乱期にある今の鎌倉を取り仕切るのは執権北条家、朝廷から見れば縁もゆかりもない陪臣にすぎず、面白くないことこの上ありませぬ。
さて、『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけではなく、狩猟を好み武芸にも通じるところのございました後鳥羽院は、白河法皇の御代に形作られたとされる上皇の身辺警衛や御幸に供奉した武士であり、いわば院の直属軍としての性質を持っていた北面武士に加えて、新たに西面武士を設置し、軍事力の増強を図られたのでございました。北面武士と申しますれば、創設期の構成は近習や寵童といった院と個人的な関係の深い者が中心でございましたが、後に源氏平氏といった、それぞれがある程度の武士団を従えております、いわゆる軍事貴族が加わるようになり、名実共に院の直属軍としての性質を帯びたものとなってきたのでございます。平正盛(清盛祖父)、平忠盛(清盛父)、源義朝(頼朝、義経父)等もみな北面武士でございました。新たに設立された西面武士は、主に西日本の有力御家人から成っており、元々は院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め所があった北面武士に対して、院御所の西面に詰め所などがあったことから、このように呼ばれるようになったそうでございます。そして西面武士成立の背景には、やはりこの時期まだ西国に対する幕府の支配力も限られたものであり、未だ成立して間もない幕府と朝廷との、事実上の二元政治体制ゆえの混乱がございましたことは否めない理となりますでしょうか。
そのような中で起こりました承久元年(西暦1219年)一月の源実朝暗殺による源氏将軍断絶は、将軍継嗣問題を可及的速やかに決さねばならないものとして、政を司る人々の上に押し付けることになったのでございます。幕府という力をこのまま北条の手に委ねたくないのは朝廷側としては一致した意思たるものの、では誰を、というところでは思惑は少しずつ異なるものがございました。鎌倉を意のままにするのであれば、然るべき身分の者を将軍として送り込む必要があり、且つまた源氏色が強い者よりも京に近しい者が適任であることは申すまでもありません。この時考えられた皇族将軍の実現は結果として見送られることとなりましたが、折衷案的に採用されたのは、摂関家の者をあらたな将軍として送る、というものでございました。
ここで少し時を遡りまして、この『史の綴りもの ~歴史の木戸口~ 』で以前にも触れました悪左府藤原頼長卿のお話から連なる、摂家将軍を出すこととなる九条家について触れておきたく存じます。
久寿二年(西暦1155年)のこと、元々皇位継承とは無縁であり気楽に暮らしておりました雅人親王(後の後白河天皇)でしたが、皇位を継ぐこととなった子、守仁親王(後の二条天皇)が如何にしても幼少であり、且つまた実父(雅人親王)も存命であるものを、それを飛び越えての即位はさすがに如何なものかとの声も無視できず、守人親王即位までの中継ぎという形で、その父である雅仁親王が立太子もせぬまま即位することとなりましたのでございます。運命の悪戯ともいえるような流れから第七十七代天皇、後白河天皇の御世ははじまりました。尤も、この突如として雅仁親王を擁立する運びとなった裏には、雅仁親王の乳母の夫であった信西の策動があったと言われておりますが、定かなところは知る由もなきことにございまする。しかしながら、ここに権力をめぐり激しき政略戦が繰り広げられ、その中で内覧としての立場も奪われた藤原頼長は失脚に等しい状態とされていたのでございます。
その翌年、保元元年(西暦1156年)二十八年の長きにわたり院政を布いた鳥羽法皇の崩御を機に、それまで薄氷の下を流れていた水が亀裂からほとばしるかの如く事態は動き始めるのでございました。世に言う保元の乱でございます。保元の乱につきましては、他に事細かく述べられているものも多く存じますので、ここで詳述はいたしませぬが、朝廷内の権力争いに平氏源氏の武士が動員され、大きな役割を果たさせたことが武士の政への参画への糸口となり、平氏政権時代への遷移とともに摂関家もかつての権力を維持できなくなり、実に四世紀もの長きに亘りました日の本の支配体制が大きく動いたのでございました。
謀反人の烙印を押され、挙兵せざるを得ない立場に置かれ、その正当性を示すために崇徳上皇を上にいただくも結果敗死することになる頼長。乱後、摂関家の力はすでに往事のものとは程遠いとは申せども、依然朝廷において重きをなす藤原摂関家は、悪左府頼長の兄、藤原忠通の手に戻ってくるのでございました。早世してしまうなど長らく後継となるべき男子に恵まれず、年の離れた弟、頼長を養子としていた忠通でしたが、齢四十を過ぎてから再び男子に恵まれ、四男の基実が後の五摂家である近衛家の祖となり、六男の兼実が同じく五摂家の一家となる九条家の祖となったのでございました。五摂家の一条家、二条家は後に九条家から枝分かれした家であることから、この三家をして九条流とも呼ばれておりまする。
こうして激しい権力争いの時を経て、悪左府藤原頼長の兄、藤原忠通の子から五摂家の基が始まっていくのでございますが、九条家の祖、九条兼実は、保元の乱でその勢力を大きく後退させることとなった摂関家の生き残り方として、故実先例の集積により儀礼政治の執り行いに精通することにより、己の立ち位置を確立せんとしたのでございます。学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として朝廷内で昇進を遂げていく様は、やはり藤原一門らしさともうすべきでございましょうか。後白河法皇に仕え、紆余曲折ありながらも摂政・氏長者を宣下された兼実は、政に精力的に取り組んでいきます。鎌倉との結びつきを強めていったのも、時流を感ずる術に長けていたが故に、と申せますでしょうか。ただ、後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇は、その兼実の厳格な姿勢に不満を抱くところも多く、やがて兼実は失脚してしまうのでございました。しかしながら、兼実の弟、天台宗の僧・慈円が後鳥羽上皇に仕えており、九条家の者が姿を変え、立場を変え、朝廷の中で治天の君の傍に座すという形が保たれていたのでございます。
建久三年(西暦1192年)、三十八歳で天台座主となりました慈円僧正でしたが、後鳥羽上皇の傍にありて、様々政の助言を行うなど、知の力で朝廷を支える立場にありましたが、源氏将軍三代目の実朝が暗殺されたことによる混乱の中で、一時は皇子をとも考えられるも上皇に躊躇の心も見える中、源頼朝の遠縁にもあたることが鎌倉側にとっても受け入れやすいことにつながるとし九条一門の中から、三代当主九条道家の三男にあたる三寅(後の九条頼経)を四代目将軍として送り込むことをなしております。承久の乱を経て、すでに鎌倉に送られていた三寅はやがて元服、ここに朝廷と幕府の思惑に挟まれた摂家将軍の時代がはじまり、そこには九条家のものがいるという形を作る事を成しえたのでございました。尤も、承久の乱を経て鎌倉と京との力関係は大きく変わり、専ら鎌倉の執権北条家にとっての都合のよさで考えられていくことにはなりますが、後鳥羽上皇の挙兵を諫め、今ある形をつつがなく続けられるようにと願ったであろう慈円僧正の心は、しかしながら慈円僧正もまた九条の家に連なる者であることから、手駒選びへの関与とみられてしまうのでございました。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら
将軍の器 ~籤引き将軍 足利義教~
度の歴史の木戸口 史の綴りものは、前回から続きまして、いよいよ室町幕府六代将軍、足利義教の時代へと進みたく存じます。三代将軍足利義満の子にして、兄である四代将軍義持の跡を継ぎ、神籤によって六代将軍となることが決まった足利義教、その将軍としての器はいかに。
後継争いを避けるため、応永十年(西暦1403年)青蓮院に入室し僧籍に身を置くこととなった義教でしたが、程なく青蓮院門跡であった尊道法親王が逝去、義教の長兄にあたる尊満が先に精錬院に入室しており門跡を継ぐはずではあったものの、何らかの理由で青蓮院を追われてしまうのでございます。生母の加賀局の身分が相応でなかったことによるものか、僧籍に入る前からも長男としての扱いは受けられておらず、さりながら青蓮院からこの時期に追われてしまったのが門跡を継ぐことを妨げる意思によるものかどうかは、知り得ぬところでございます。やがて、後の義教は応永十五年(西暦1408年)に得度して門跡となり、義円と名を改めるのでございますが、これは同時に三代将軍義満の後継争いから正式に外れたことを意味するものでございました。
ここで青蓮院について少し触れておきたく存じます。
主には不要な後継争いを避けるべく皇族や摂関家の子弟が入寺し、取分け皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶が法親王・入道親王として門主となるのが門跡寺院でございますが、伝教大師最澄による開山の青蓮院は、天台宗三門跡に数えられます。比叡山上に最澄が建立した青蓮坊がその起源であり、平安時代も末の頃、久安六年(西暦1150年)に鳥羽上皇と皇后美福門院が青蓮坊第十二代、行玄大僧正に帰依し青蓮坊を祈願所としました。このことにより寺格が上がり始めまして、さらに鳥羽上皇が第七皇子の覚快法親王を行玄の弟子として入寺させ、以降、青蓮院は皇族や摂家の子弟が門主を務める格式を持つ寺院となっていったのでございます。そしてそれに伴い、青蓮坊は院の御所に準じ都に殿舎を造営し、青蓮院と称されることとなったのでございます。ただ、山上には青蓮坊がそのまま残されており、やがて廃絶する室町時代まで寺籍は保たれていたそうでございます。
青蓮院となって後、第二世門主となっていた覚快法親王の薨去後、養和二年(西暦1182年)になりまして紆余曲折を経ながらもその後を継いだのが、歴史書『愚管抄』を記したと伝えられる慈円でした。天台座主として法会や伽藍の整備、また政においては実兄である九条兼実の孫・九条道家の後見人を務め助言を惜しまず、その道家の子・頼経が公家将軍という形で鎌倉に下向することにも期待を寄せ、公武の協調をこそ理想としたと伝えられております。それだけに、後鳥羽上皇の挙兵の動きに対しては反対を唱えましたものの、ついに聞き入れられず、世に言う承久の乱へと時は進んでしまうのでございました。
『徒然草』によれば、何らか一芸ある者であれば身分に関わりなく召しかかえてかわいがったとあり、その真摯で芯が強く、時の流れの中で生み出されたあるがままを受け入れ融和させていこうという心の広さが伺い知れますが、後に浄土真宗の宗祖となる親鸞も、慈円に教えを授けされたひとりであり、治承五年(西暦1181年)9歳の折、慈円について得度を受けております。
そのように格式ある青蓮院に入室し義円と名を改めた後の六代様足利義教でしたが、応永二十六年(西暦1419年)11月には第百五十三代天台座主ともなり、「天台開闢以来の逸材」とまで呼ばれるほどの才を示したと伝わっておりまする。しかしながらその義円が次の将軍に選ばれたのはその才ゆえではなく、神籤によるものでございました。申すまでもなく人知の及ばぬ存在が義円を選んだ、という考えが成立する傍らで、この時代でさえ、やはり籤による選び方というのは異例であり、人々の心の底には、どこかで『くじ引きで偶然選ばれた』という思いが横たわっていたのもまた否とは言い切れぬものであったのかもしれませぬ。そしてそれは、当の義円、足利義教自身の心の中にもまた同じく横たわっていたものと言い得るものではなかったのでございましょうか。
いずれにいたしましても、兎にも角にも次の将軍が定まったのでございますので幕府重臣たちとしては、将軍不在という権力の空白期間を一日でも短くすべく働きかけを急ぎますものの、元服前に出家していた義円は、俗人としてはいまだ子供という扱いになってしまい、無位無官のままでございました。尚且つ、法体である身の者が還俗し将軍となった先例もなかったことから武家伝奏の万里小路時房は強く反対し、まず義円の髪が伸び、元服できるようになるまで待ち、その上で次第次第に昇任させてゆくべきであるとした。公卿の多くも同意であり、武家の力が強大なものとなってまいりましたこの時代ではありながら、幕府と雖もそれを跳ねのけて無理を通すほどの力はまだなく、二月ほどが過ぎ、漸く義円は還俗、名を義宣と改め従五位下左馬頭に叙任されたのでございまする。そして正長二年(西暦1429年)には、義教と名を改め参議近衛中将に昇った上、ついに征夷大将軍となるのでございました。改名は「義宣」(よしのぶ)が「世忍ぶ」に通じるという俗難を不快に思ったためだそうでございますが、それではと公家が協議の上で新たな名として「義敏」となすことを決めておりましたものの、「敏」よりも「教」の方が優れていてよい、と摂政・二条持基を通じてこれを正させるなど、六代将軍、意思の非常に強いところがすでに垣間見えるのでございます。
こうして六代将軍、足利義教の治世が始まったのでございますが、その目指すところは、未だ盤石とは言い得ぬ幕府権威、そして幕府そのものの力を三代義満の治世を手本としつつ取り戻し、高めていくこと、そしてそれを将軍親政という形で成し遂げていくことにあった様でございます。
かつて天台座主となり「「天台開闢以来の逸材」とまで呼ばれるほどの才を持ち、体に流れる血は足利家と幕府の力を高め南北朝合一を成し遂げた三代将軍義満を父とするもの、そして自らの力で幕府の力を高めていくことを志す者が、名実共に室町殿となったのでございます。将軍親政を目指す政の手始めとして、義教は諸々の決定を将軍主宰で行われる御前沙汰にて行う、また管領を通して行われてきた諸大名への諮問を将軍直接諮問とするなど、幕府管領の権限抑制策を打ち出していきました。また、体制として有力守護に実質依存していた軍事政策を改め、将軍直轄の奉公衆を強化再編し、幕府直轄軍事力の強化を進めていこうといたしました。
寺社勢力に対し積極介入を繰り返したことも知られ、取分け自身が天台座主であったことから、還俗後すぐ弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図るも、延暦寺の弾劾訴訟からはじまる争いはやがて泥沼化の様相を呈し、義教の苛烈な対処は、事態を収束とは逆へと向かわせてしまうことしばしばでございました。また幕府を支える斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏、今川氏など有力守護大名家に対して将軍の支配力を強めるべく家督継承に強く干渉するようになり、意に反した守護大名、一色義貫や土岐持頼は大和出陣中に誅殺されるほどでありました。そして誅殺された彼らの所領は義教の近習に与えられるなど、苛烈で強硬な政策を推し進めることは、結果守護大名たちに大きな不安を与えることにつながったのでございます。また、義教の苛烈さは些細なことにおいてもあらわれ、繰り返される厳しい処断は義教の治世を万人恐怖と言わしめるものとなってしまったのでございます。
そのようなことから畏怖された、と申しますよりは恐れられた六代様と申した方が当を得ていると思われる将軍義教でしたが、幕府最長老格ともなっていた四職の一家である赤松家当主、赤松満祐は将軍親政を進める義教に疎まれる様になっており、永享九年(西暦1437年)頃には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れておりましたが、永享十二年(西暦1440年)、義教は赤松満祐の弟・赤松義雅の所領を没収の後、その一部を義教自身が重用する赤松氏分家の赤松貞村に与えたのでございます。
嘉吉元年(西暦1441年)六月二十四日、満祐の子の赤松教康は、関東の結城合戦での祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称し西洞院二条にある邸へ将軍義教の「御成」を招請したのでございます。将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う御成は重要な政治儀式であり、義教は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村と、いずれも義教の介入により家督相続を成しえた、いわば義教子飼いの大名衆でございました。
赤松邸にて猿楽を観賞していた折、突如屋敷に馬が放たれ門が一斉に閉じられた音がしたのでございます。異変を感じた義教は「何事であるか」と叫ぶも、傍らに座していた正親町三条実雅が「雷鳴でありましょう」と答えたと伝えられております。したがその直後、周りの障子が一斉に開け放たれ、甲冑姿の武者たちが宴の座敷に乱入、義教は赤松家随一の武勇を誇る安積行秀に討ち取られてしまうのでございました。
不安定であった幕府権力を強め、中央集権化を図ろうとした将軍義教の政そのものは、国としては理に適ったものであったかと思われまする。幕府財政強化のため明との貿易も再開させた義教には、海の向こうすら見据えていたのかもしれず、義教の頭の中には、こうあるべき、という絵が描かれていたのかもしれませぬ。ただ、それでは六代様からそれを伝える声は発せられていたのでしょうか。義教が子飼いとした大名衆は何かそのような声を聞いていたのでしょうか。今となっては知る由もございませんが、少なくともそのような義教の声は、届いていなかったか、もしくは発せられてすらいなかったのかもしれませぬ。苛烈さだけが伝わり、その先に目指すものについて伝える声なくしては、人は怖れ、離れ、やがては己が身を守るため反旗すら翻すもの。
義教亡き後、室町幕府は義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決するも、幼少の義勝には幕府重臣の支えが欠かせず、且つ義勝が在任わずか八ヶ月、齢十の若さで亡くなると、弟の足利 義政へと将軍の座は継承されていくも、二代続けて幼少の将軍が続いたことにより幕府の政は再び有力守護大名により進められる形へと戻り、これ以降室町幕府において将軍が将軍たる権力を持つことはなく戦国期にその終焉を迎えてしまうのでございました。
聡明であった義教が、もし人との和を重んじ、その声を己の目指すもの、描く国の姿を伝えることができていたとしたら、室町幕府の体制は大きく変わり、歴史に刻まれている戦乱の世を迎えることはなかったのかもしれませぬ。ひとりで成し遂げられることには限りがあります。それを知り、思いを伝える声を持ちえて初めて、成せることがあるのは、今も昔もあまり違いはしないのではないかと、六代様の政を振り返り、感ずるものでございます。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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将軍の器 ~籤引き将軍 足利義教~
此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、室町幕府六代将軍、足利義教公のお話につなげつつ、少し時代を遡りまして、そもそも将軍の器とは何ぞや、ということにふれるお話でございます。
さて、六代様と敬われ、いや寧ろ恐れられたと申しました方がより真に近しいかもしれぬ室町幕府第六代将軍、足利義教。何故籤引き将軍などと呼ばれるのか、と言えば、それは後継を定めぬまま死去した四代将軍、足利義持の意向を受けた幕府重臣が協議を重ねた末、将軍を義持の四人の弟たちの内から籤で選ぶこととしたことによるものでございます。
ところで、何ゆえ四代将軍義持の没後、選ばれたのが六代将軍かと申しますれば、若くして五代将軍の座を義持より引き継ぐこととなりました足利義量が世継ぎをのこさぬまま早世し、義持は義量の他に男子に恵まれなかったため、前将軍である義持がふたたび幕政を執る事態がつづいていたためでございます。
義量に将軍職を譲った後も幕政の実権は義持を中心に、義持と有力守護が握ったままであったこともあり、幸いにも政が大きく滞るようなことはございませんでした。歴史が示すように、後代までふくめて実に二十八年間、室町幕府歴代の中で最も長く将軍であった義持でしたが、その義持にも病に斃れる日が訪れます。応永三十五年(西暦1428年)湯殿で、尻にできた腫れ物を掻き破った義持は発熱し、尻の雑熱(腫れ物)が痛み座ることもできぬほどとなってしまいました。僅か数日の間に尻の雑熱はさらに腫れあがり、やがては傷口が腐りだしたと伝えられております。
そしていよいよ義持が重篤な状態となり、慌てた幕府重臣(管領 畠山満家および、斯波義淳、細川持元、畠山満慶ら)は、醍醐寺の僧 満済の下に集まり、義持の後を誰が継ぐのかについて協議をするのでございました。その上で、満済が義持に後継の意向を問うも、自ら後継者を定めることを否としたのでございます。さりながら天下の重大事、重ねて問うた満済に義持が伝えたことは、重臣たちでこれを決すべしということでございました。それをうけて重臣たちは血筋から義持の後を継ぐことができる人物の名を挙げ、評議を行います。さて、義持の父、三代将軍足利義満と申さば、皆さまご存知のテレビアニメ『一休さん』に登場する将軍さまとしてもお馴染み、治世の後半には鹿苑寺金閣で政を執りおこなった室町幕府将軍でございましたが、室町幕府成立の流れより我が国が抱えた大なる懸念でございました南北朝問題に合一を果たすことで終止符を打ち、そして有力守護の力もおさえることで幕府権力を確立させる偉業を成し遂げた、まさに大器の将軍でございました。そして事ここに及んでは、幸いなことに子宝にも恵まれた義満、この時、義持には僧籍にある四人の弟がおりました。後継を選ぶ方法として義持の承諾も得た上で、神籤により選ばれたのは、青蓮院門跡であった義円、還俗し足利義宣となった、後の足利義教でございました。
ここで少し時を遡りまして、武家政権(武家独自政権)の始まりを思い起こしてみたく存じまする。幕府という形で、京の朝廷にやがて成り代わるほどの支配体制の基を創り出しましたのは、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝でございました。その血筋は源氏二十一流の内、清和天皇から分かれた氏族が清和源氏でございますが、中でも第六皇子である貞純親王の子・経基王(臣籍降下し源経基)の子孫が軍事貴族化し、摂関家に仕えて勢力を拡大、その流れを汲み主流となる河内源氏が東国の武士団を支配下におくことで台頭した一族に辿りつきます。平治の乱以前は、まだ幼ささえのこる頃、東国に下向しそこで育った源義朝(頼朝、義経らの父)が、主要武士団をまとめ、時には在地豪族の争いに介入し、また時には在地豪族の娘を娶るなどしながら二十代の早いころには広く東国武士団を支配下におさめることに成功し、その力は中央で凋落の憂き目にあっていた源氏の力を盛り変えず基となり、且つ東国は義朝の存在が重しともなりまして平穏さの中にございました。さりながらやがて西国に基盤の中心を持つ平氏政権の世となり、院政の下で武士集団が、もはや欠くことのできないものとなった軍事警察権を軸として政権に参画していきます中で、これも無視しえない新興の力となっておりました地方武士団を政権の力としては取り込めないまま、東国武士団も複合的支配体制下におかれ、乱れていったのでございました。ただ必死に己の領地を守ることに力を尽くす数多の東国武士団、無論武士団にも領地の大小はございましたし、それはそのまま領主としての力の大小でございましたが、己が目で見ることのできる限り、とでも申しましょうか、あくまで何らそれを超えるまでのものではございませんでした。日々土にまみれ、時に守るべきものを守るために武力を使う、そんな土地に根差すつわものたちを、武家の棟梁という名目をもって、ひとつところに向かわせるだけの何が頼朝にあったのでございましょうか。頼朝が誰よりも豪傑であったのか、否。頼朝の血筋にそこまでの無理を武士たちにさせるまでのものがあったのか、否。頼朝が大規模な私兵や財力を持っていたのか、申すまでもなく否。それでは何か武士たち自身が待ち望んでいたものをもたらしたのか、これもある境を過ぎたところでは否、と言わざるを得ないかと思います。彼らは先祖伝来の土地を守り、そこで己の暮らしを守り続けていけることが望みであり、遙か彼方のその目に見えもしない何かまでを求めていたわけではなかったのであろうと思われるのでございます。
さりながら、日の本をその眼下に捉えるとしたならば、そこに力を及ぼすにはより大きな力が必要となりますし、たとえ目には見えぬところであれども、馬ですぐには行けずのところであっても、そこにも手をさし伸ばせるようでなければなりません。これは決して武家の棟梁に限られたことではありませぬが、広く世を見る目、成し遂げんとする固き決意と強き意思、そして、そのために周りを巻き込む声があって、初めて全国を治めるということが成し得るのでございましょうか。戦においては武に長じた者を、政においては仕組みを作り上げられる者を、そして裏方として仕組みの中で国を支え動かすことに長けた者たちを、上に立つ者として広く見たままに、強く思う意思のままに動かせる声なくしては、成り立たぬものではないかと思われます。頼朝は時にわがままなくらいであったとも伝わりますが、それはおそらく多くの者たちがまだ見ぬものを創らんとする中での強き意思が、時にそのように噴き出ためかもしれません。力でただ押し付けられているだけの者たちは、やがてその力が弱まれば跳ねのけようとするでしょう。過去の恩義を感じることはあっても、それにいつまでも応え続ける者は多くはないかと思われます。利害の合致で合力したものたちは、利害の合致がなくなれば去ってゆくでしょう。ただ、例え強く押し付けられた力であったとしても、その重石となるであろう声に幾許かの得心がゆく何かがあれば、武士たちをして目指す一つところに向かわせることができるのかもしれませぬ。
時は下り室町幕府三代、足利義満は如何な様でございましたでしょうか。非常に刻限に厳しいところのあった義満は、遅れた者を厳しく罰することしばしばであったとか。また、己や周り者たちの装束にも口うるさく、厳格な様子が伺われるところがございます。しかしながら、政においては、同じことでも相手の力の大小で敢えて処罰を分け、強き者に配慮をするといった独特の匙加減を見せるところもあれば、女人に関しては、他者の妻妾と通じることも頻繁であるなど、およそ厳格さとは程遠い側面もまた併せ持っていた様でございます。将軍といえば聖人君子とは言い難いところも元来あるものと思われまするが、引き締めるべきは引き締め、手綱をほどよく緩ませるところもありながら、周りが折り合いをつけていかざるをえないような中に巻き込み、義満が遠く見る大事を進めていくことのできる声を持っていたのではないかと思うのでございます。
次いで二十八年の長きにわたり室町幕府将軍であった義持は、四代将軍として、整いつつある仕組みの中で物事を円滑に進めていくことが求められ、そのためか温厚な将軍であったと思われている節もあるようでございますが、伝わるところによれば、癇癪持ちなところがあり、鎌倉府との対立に連なる諸々の中でも、管領からの報告を聞くやいなや激怒する場面も見せておりまする。最期の後継選定のことを除けば、寧ろ強い意思で事にあたっていたのではないかと覗い知れるところがございますが、文化人であり、また医療への深い関心も持ち、幕政を安定させ、世を豊かにするために強い意思をもって人々を導いていた様子が伺われまする。
示された道があり、やるべきことが定められていれば、人はそれに従う質もたしかにもちあわせているでしょう。それは、ある種楽な生き方でもあるからでございます。されど、唯々諾々とそれに従うだけではない者たちもいれば、歩みが遅れてくる者たちもいることでございましょう。それもまた人の性、そしてそれらを動かし続けることは並大抵の意思で続けられることではなく、そのために届かせる声には、強さや厳しさとともに、何らか得心させるものが重ねられておらねば、示された道の途上で、人は上に立つ者の意には則さない方へと向かい始めてしまうものなのかもしれませぬ。歴史を紐解くに、そのような例えは数知れず、でございます。
義持が亡くなると、籤引き将軍の時代へと突入いたしますが、さて六代様の政とは如何なるものであったのでございましょうか。次の回にてお伝えいたしたくぞんじます。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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婆沙羅大名・佐々木道誉
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで三回に亘り、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏について、そして尼子氏が室町幕府四職家の一家に数えられる、宇多源氏近江佐々木氏の流れを汲む京極氏の一族であることお話してまいりました。
平安後期には、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地としてすでに軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏、頼朝挙兵直後から四兄弟が駆け付け、鎌倉幕府創設の功臣でもございました。やがて鎌倉に武家政権が形作られていく中、事の成行きとしてその形がよく頼朝を支え、輪の如く回ることはなかったものの、一時は源氏一族たる「門葉」に対し、清和源氏の棟梁としての確固たる優位性を示す傍らで、彼らをまた将軍家の藩屏として遇することもしてまいりました頼朝でしたが、それとは裏腹に鎌倉殿として、征夷大将軍としてその権力基盤を固める中で多くの同族や兄弟を滅ぼすこととなり、結果頼朝直系が潰えてしまいました後には源氏一族の柱石たる人物ものこっておらず、幕府は頼朝の遠縁にあたる九条家から公家将軍を傀儡に迎え、その実権は執権として北条得宗家が掌握、佐々木氏もまたその幕府体制を支える御家人として仕える身となるのでございました。
尤も、御家人の中にも下野国足利荘を領した、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国が次男、源義康を祖とする足利氏が、源氏嫡流に近い御家人として在り、足利宗家二代当主である足利 義兼は、頼朝挙兵より従い、おそらくはその一族ではあっても遠からず近すぎずの距離感もあってのことでございましょうか、頼朝にも重んじられ、北条家とも縁を結ぶなどして、幕府御家人の中でも足利家は厚く遇される家として続いていくのでございました。しかしながら北条得宗家としても、源氏嫡流将軍断絶の後、戦においては源氏門葉として軍勢を率い、幕府に奉仕する家柄であり、幕府有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされる足利氏を、警戒もしまた頼みともし、縁戚関係を続け官位昇進などで得宗家に次ぎ厚く遇する傍ら、造営事業などでは多くの負担を強いるなど、手綱を握らんと苦慮する様子もうかがえまする。
時は流れ永仁四年(西暦1296年)、佐々木氏の分家である京極の家に、後の室町幕府の立役者とまで語られるようになる京極高氏(佐々木高氏)が誕生いたしまする。佐々木高氏は当初、執権・北条高時に仕え、高時が正中三年(西暦1326年)、病のため24歳の若さで執権職を辞して出家すると、高氏も共に出家し導誉と号したのでございます。同じく鎌倉幕府に使える御家人であった足利尊氏とは、後に尊氏が後醍醐帝の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受けるまで、名が同じ『高氏』同士、各々執権北条高時より偏諱を受けてのことではあるものの、何かしら気の通ずるものがあったとも伝えられております。
さて、時は鎌倉時代も末、幕府の大きな力は京の朝廷にも大きく力を及ぼすようになりまして久しく、それはひとえに武力という力にのみ依存したものではなく、日の本全てを統治するほどの政の仕組みが京の朝廷より離れたところにも作り上げられ、人のいとなみに枠をかたちづくり、支えてきた所以でございました。政の中枢は、紆余曲折ありながらも大きくは平安期に藤原氏による摂関政治から、やがて上皇による院政という形に移ってまいりました。その後、平氏政権の時代を迎え、これまで地下人とよばれ、頭を抑えつけられてきた武家が力を持ち、初期武家政権を形作りはじめましたものの、こと政においては朝廷の政の中で一族の力を伸ばしていくというものであり、さながら武家が摂関政治の主役に成り代わらんとする様なところもございました。
それが、稀代の政治家、源頼朝により幕府というものがはじめて京から遠く離れた鎌倉の地につくられ、頼朝亡きあと、承久の乱を経て幕府は朝廷に対しても大きく影響力をおよぼすまでになりましてございます。後鳥羽上皇による院政もこの時事実上崩れ去り、幕府は以後、皇位継承もその意向に従わせていくほどの力を持つことになりましてございます。
しかしながら、院政そのものは承久の乱の後も続き、公家政権の中枢として機能しつづけ、脈々と受け継がれていったのでございます。ただ、後に、たとえその院政が実質幕府統制下にあったものとは言え、治天の君を定めぬまま文永九年(西暦1272年)後嵯峨上皇(後嵯峨法皇)が崩御したことは、その後鎌倉期を通じて後嵯峨帝の第三皇子、後深草天皇の子孫である持明院統と、第四皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで両統迭立がおこなわれるきっかけとなってしまいました。
時は下りまして文保二年(西暦1318年)践祚した後醍醐天皇は、大覚寺統の天皇でしたが、この両統迭立のために自らの実子たる皇子に譲位することができず、故に譲位して上皇として院政を行うこともまかりならない状況にございました。そのすべてを打破し、政をふたたび自らが中心となる朝廷でおこなうために討幕を志す帝は、二度の挙兵を経て討幕を果たすのでございました。幕府御家人に厭戦の機運も高まり始める中、その流れを大きく変えたのは、後醍醐天皇の綸旨を受け足利尊氏が討幕側に加わったことであり、佐々木道誉もまたこの動きに従い、後醍醐天皇方として幕府側と戦うのでございました。しかし、討幕を果たしたのも束の間、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏と共に戦い、足利政権の確立、室町幕府の設立に力を尽くしていくのでございました。室町幕府において若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護職、そして財政と領地に関する訴訟を掌る政所の執事を務め、さらには公家との交渉事も新たに誕生した室町幕府方として広く引き受けておりました道誉は、軍事貴族化し栄えてきた一族であると同時に、類まれなる政の才にも恵まれた人でございました。
佐々木道誉について事細かに書かれたものは多く存在いたしますので、ここで事細かに書き記すことはいたしませぬが、ただその人となりを伝えるものとして欠かすことのできないものといいますれば、南北朝時代から室町時代初期にかけて見られました、権威を嘲笑し、奢侈で派手な振る舞いをすることや、粋で華美な服装を好む美意識、それら思想や文化的流行、社会風潮をあらわした『ばさら』という言葉が挙げられますでしょうか。語源は、梵語(サンスクリット語)で「vajra (伐折羅、バジャラ)= 金剛石(ダイヤモンド)」を意味すると伝えられ、何かしら頑なに固まってしまった伝統といったようなものを、金剛石のような硬さで砕き割るというような思いがこめられたものとも言われているようでございます。そのばさらを地で行くような生き方をした佐々木道誉は、婆沙羅大名と呼ばれ、奇抜で派手な装いは、後の『傾奇者』につながったとも言われておりまする。連歌・田楽・猿楽・茶道・香道・立花などに通じ、文化人としての顔も持ちあわせる道誉をして公家とのつながりもよく保つことができたのではないでしょうか。
尊氏亡き後、二代将軍義詮時代の政権において政所執事を務め、幕府内における守護大名の抗争を調停するなど、文字どおり様々な場面で足利政権の立役者でございました佐々木道誉、隠居の後、文中二年/応安六年(西暦1373年)、甲良荘勝楽寺にてその生涯を終えましてございます。
佐々木道誉が室町幕府創成期にこのように軍事、政治のあらゆるところで広く関わったことは、まぎれもなく近江源氏佐々木氏の力を盛り立てることにつながり、京極家が佐々木宗家六角氏をも凌ぐ力を幕府内で手に入れる結果を生むこととなったのでございました。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、尼子氏の歴史をすこしさかのぼりまする。
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで二回に亘りまして、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏についてお話してまいりました。それでは、そもそも尼子氏はどこから来たものか、室町幕府中枢から見た時に、どのような一族であったのか、について少しお話できればと思いまする。
尼子氏の主家が京極氏であり、その領地のひとつである出雲の守護代を勤めていた家柄であることには触れましたが、尼子氏もまた京極氏の一門であり、京極家と申さば、室町幕府にあって四職(ししき)の家に数えられる名門でござりました。足利将軍家を頂点とする室町幕府においては、三管四職と呼ばれる七家が重要な役割を担っておりました。三管とはすなわち幕政において将軍を補佐し幕政を統括する幕府管領職に就くことのできる三家のことで、斯波家、細川家、畠山家の三家の何れかからのみ、その必要がある時に任じられた役目でござりました。将軍親政でない場合には、文字通り将軍に成り代わって幕政を執り行う強大な権力を持ちうるものでありますゆえ、限られたものにのみ許された立場でござりました。そして幕府においてその次に大きな力と申しても過言ではないのが、幕府の軍事警察権を司る侍所でありました。そしてその長、侍所頭人(所司)に任じられる資格を有していたのが、京極家、山名家、赤松家、一色家の四家でござりました。誠に余談ながら、筆者が学生の折、日本史の教諭より、四職家の覚え方として紅葉の時期の京を思い浮かべ『京の山は赤一色』と覚えればよいと教わった記憶がございます。そのように室町幕府にあっては中心的な立場を占める名門京極氏の一門ではありましたが、近江源氏の流れを汲む京極氏の西国の領地、出雲の守護代であった尼子氏、主家から見ればあくまで地方領地の経営を任されただけであり、決して恵まれた立場から始まったわけではなかったことは、先に触れました通りでございます。ただ、主家の勢いが衰えてきますと、あとは他にとられるか、内からとられるか、でございますが、内から取って代わられる下克上が尼子氏台頭のお話でござりました。
では、そもそも京極氏は何故幕府においてそのような力を持ちえたのでござりましょうか。時をすこし行き来しつつ遡りながらお伝えできればと思いまする。
京極氏は近江源氏の流れを汲む一族で、基は第五十九代宇多天皇の皇子らの臣籍降下によりまする宇多源氏であり、その中で武家としての頭角を現し、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地として軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏にまでたどりつきまする。
平安後期、すでに有力武士に数えられる勢力を保持していたと思われる佐々木秀義は、河内源氏棟梁たる源為義(八幡太郎源義家の孫であり、源頼朝の祖父)の娘を妻とし、保元元年(西暦1156年)崇徳上皇と後白河天皇とが争うにいたりました保元の乱においては源義朝(源頼朝の父)に従い後白河天皇方として戦に臨み勝を収めるも、続く平治元年(西暦1159年)に起こりました平治の乱では、おなじく義朝方として共に戦うも敗れ、東国へと落ち延びていくこととなるのでございました。
時は流れ平清盛率いる平氏政権の世、治承四年(西暦1180年)伊豆国に配流の身となっていた義朝の遺児、頼朝の挙兵に際し、相模国の平家方である大庭景親らによる頼朝討伐の動きを知り得た秀義は、子の定綱を走らせ頼朝に危急を知らせるとともに、定綱、経高、盛綱、高綱ら息子たちに頼朝挙兵を扶けさせ、佐々木四兄弟は源平の戦において軍事貴族としての力を示し、後に西国を中心に御家人として大きく勢力を伸ばしていくことになるのでございました。佐々木秀義もまた元暦元年(西暦1184年)の三日平氏の乱にて、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、伊賀・伊勢の平家方残党と戦い、実に九十余人を討ち取るも、自らも討死を遂げたと伝えられております。享年七十三歳、まさに老いて尚盛んな武門の人であったのでございましょう。
そうして鎌倉期に勢力を拡大させていきました佐々木氏は、承久の乱においては官軍と鎌倉幕府軍とに別れて争うこととなってしまいますものの、幕府軍にあって宇治川の戦での戦功大でありました佐々木 信綱は、本貫地のある近江国でさらに複数の地頭職を得るのでございました。近江国領は後に信綱の四人の息子に分割して与えられ、その子孫が大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となっていったのでございます。この内、室町時代から戦国時代にかけてまで名を残していくのは京極家と六角家と申してよいかと存じますが、京極家は、北近江にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡、そして京の京極高辻館を受け継いだ信綱の四男の佐々木氏信の一族がやがて京極氏と呼ばれるように、そして、近江領の多く南近江一帯を受け継ぎ支配していた信綱の三男、佐々木泰綱が、京・六角東洞院に屋敷があったことから、やがて六角氏を名乗る様になったと伝えられております。佐々木宗家は六角氏がそれにあたりますが、では何故室町時代に入り、宗家である六角家をしのぎ、別家である京極家が幕府四職家に数えられるほどの地位を築き得たのでござりましょうか。
そこには、京極家に生を受け、後の室町幕府初代将軍、足利尊氏と共に時代を生き、盟友として共に戦い、あらたな政の基礎を築き上げ、足利政権の立役者とも言われる佐々木道誉(佐々木高氏)の存在なくしては語り得ないものがございます。
婆沙羅大名と呼ばれ、その華美で奇抜な行動でも知られる佐々木道誉のお話、次の回にてお伝えいたしたくぞんじます。
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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出雲の戦国大名尼子氏 其の二
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、戦国大名尼子氏のお話の続きにございます。
尼子経久は天文六年(西暦1537年)に家督を嫡孫の詮久(後の尼子晴久)に譲ったのでございますが、それは若くして優れた将器を見せ、父、経久の覇業を支える立場でございました経久の嫡男、尼子政久が、永正十五年(西暦1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れ、反旗を翻した桜井宗的の討伐に総大将として出陣いたしましたものの、敵の矢に当たって命を落としてしまっていたためでございました。智勇に優れていただけではなく、笛の名手でもございました政久が、長期戦の様相を呈し厭戦気分が流れ始めた陣中で、得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞しては敵方の磨石城を激しく攻め立てておりましたところ、城兵側がその笛の音が聞こえる方を目がけて矢を放ち、それが喉に当たったためと伝えられております。
尼子宗家を継いだ尼子晴久(元服後の初名は詮久)は永正十一年(西暦1514年)生まれ、家督相続時は齢二十三の若き武士(もののふ)でございました。家督を継いだ翌年の天文七年(西暦1538年)には、大内領であった石見銀山を攻略、東に軍を返して因幡国を平定した勢いで播磨国まで兵を進め、石見・因幡・播磨の守護、赤松晴政に大勝、天文八年(西暦1539年)には、東の勢力圏を播磨国にまで広げたのでございました。尤も、これは当時、室町幕府が石山本願寺と対立関係にあり、大内氏・尼子氏等の勢力に対して本願寺に抗するべく上洛が促されていたことが背景にございまして、尼子家はこれを機に近隣諸国に武威を示すとともに、国人衆の統制を強めることを目指したものでございました。そのようなこともあり、晴久は一度出雲に戻っておりますものの、やがて強大化した尼子氏の力が播磨にまで着実に及んでしまうことを懸念した将軍・足利義晴が大内氏に尼子牽制を命じたことを機に、少なくとも表向きは和睦状態にあった大内氏との関係は破綻を見ることとなるのでございました。
尼子氏は、天文九年(西暦1540年)には大内氏(当主:大内義隆)側であった安芸の有力国人、毛利元就に対し兵を向けておりまする。この時隠居の身であった祖父経久は、まだ小さな勢力ながら元就の器量も知り、出兵には異を唱えたものの晴久は血気にはやり兵を起こしたと『陰徳太平記』に記されてございます。尤も、確かに毛利攻めに先立って石見国の小笠原氏や福屋氏、安芸国の吉川氏や安芸武田氏、そして備後国の三吉氏など、多くの周辺有力国人衆を味方につけており、状勢は尼子氏に有利でございました。そして戦が始まりましてからも、安芸武田氏の奮戦により大内氏の援軍は足止めされ、さらには大内勢と毛利勢との合流を遮るべく本陣を移して牽制をかけるなど晴久は着実に戦を進めていったのでございました。しかしながら最終的には毛利元就の粘り強い籠城先方の前に兵力差を活かして潰しきることもができないまま、陶隆房(後の陶晴賢)率いる大内勢に大敗を喫し、大叔父の尼子久幸までを失い、尼子勢は敗れてしまうのでございました。(吉田郡山城の戦い)
さて、経久の時代に力を大きく強めたものの、尼子宗家の潜在的支配体制の弱点を見据えていた晴久は、東西への武力行使による勢力拡大とともに、時には一族の粛清すらも行いながら尼子宗家に実効支配力を集中させることを続けました。大内氏と並ぶ西国の雄とも言い得るほど強大な戦国大名家となった尼子宗家は、新旧様々の家臣団に支えられておりました。宇山氏(宇山久兼)、佐世氏(佐世清宗)、牛尾氏(牛尾幸清)らが晴久とその前後時代の御家老衆筆頭として知られておりまするが、その中でも筆頭格たる宇山久兼の家は、元々宇多源氏佐々木氏の一族であり、佐々木六角氏から分かれた一族とされており、尼子氏とは祖を同じくする同族でございました。また他に、晴久の時代よりも、その後の活躍で知られる尼子家臣としては、山中鹿之助幸盛の名こそ挙げられるべきでございましょうか。諸説あり定かならぬものの、山中氏は出雲東部での勢力を強めてきた尼子清定(経久の父)の子、尼子久幸を祖とすると伝えられております。尼子晴久から見れば、祖父経久の兄弟(弟)にて、大叔父にあたる人でございます。
経久時代からの考えを引き継ぎ、尼子宗家への支配力の集中を着実に強め、厳島の戦いで大内氏を滅亡へと追いやった毛利元就が西で急速に勢力を拡大する中、西の毛利の侵攻をよく防ぎながら、尼子氏の版図を拡大し、中国地方十一カ国中、八カ国の守護を兼任する西国の大大名家へと尼子氏を成長させた晴久。天文十年(西暦1541年)に祖父経久が亡くなるも、なお尼子の力を示し続けた主としての姿は、祖父経久と比べられれば謀将というよりも、時に血気に逸る嫌いがあるかに見えたかもしれませぬが、出雲国を中心に、戦国時代の難しい両国経営をよくこなし、尼子氏最大版図時代を築き上げたその力量は、決して凡将の能くするところではなかったと言い得るのではないかと思います。天文二十三年(西暦1554年)晴久は家中の統制を図る目的で、叔父、尼子国久率いる尼子氏家中の精鋭軍事集団として知られた新宮党を粛清するのでございます。如何に精鋭であっても、家中にあって傲慢に振舞い、半ば独立勢力の様ですらあり、他の重臣や宗家の晴久との間にも確執を生じせしめてしまう尼子国久、誠正父子は、もはや一枚岩たらんとする家中の統制を乱す存在でしかなくなってしまい、ひいては尼子分裂の基ともなりかねないものとなります。この粛清により、新宮党の勢力基盤であった東出雲能義郡吉田荘、元の塩冶氏領出雲平野西部は晴久のもとに直轄化され、尼子宗家の支配体制強化につながったのでございます。
月山富田城に連歌師・宗養を招いて連歌会を行うなど文化の隆盛にもつとめ、また独自に朝鮮や明との貿易にも力を入れた様子も見られており、戦国時代、文字通り群雄割拠する苛烈な時代にあって当主として能く尼子氏を導いた晴久でしたが、永禄三年(西暦1561年)居城、月山富田城にて急逝してしまうのでございます。享年四十七でございました。
既に経久亡く、晴久も急逝した尼子家は、晴久の嫡男・尼子義久が継ぐことになりますが、尼子宗家への支配力集中を歴代進めてはきたものの、未だ全きを得た状態にはなく、世は苛烈極まる戦国の時代、晴久の急逝により尼子宗家の当主となった義久に、その途上の歪は容赦なく押しかかってくるのでございました。就中、強敵毛利元就とは石見銀山をめぐる争いが続いている中であり、新宮党粛清は同時に、尼子方の精鋭軍事力が失われた状態であることにもまた変わりなく、国人衆とてまた全て尼子氏の家臣化をしているわけでもない中で突然の宗家継承、そこに隙を生じさせないのは、如何にしても困難といわざるを得ないことでした。
永禄九年(西暦1566年)、毛利勢に囲まれた月山富田城は開城、ここに大名家としての尼子氏は滅び去ることとなるのでございました。
後日譚ではございますが、尼子氏滅亡の後、先の山中鹿之助幸盛は、永禄十一年(西暦1568年)、京の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ、各地に散った尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがったのでございます。三日月の前立てに鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた姿で知られ、尼子十勇士の筆頭であった幸盛は、勇力優れ、才智にも長けた将であり、その生涯を尼子家再興のために尽くし、各地で戦いを続けていくのでございました。山陰の麒麟児と呼ばれ、やがて戦国の世にその名を響かせていくことになる幸盛は、三日月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と唱えたとされております。
さて、このように守護代から戦国大名へと下克上のお手本が如き姿変わりを見せ、一時は西国最大勢力とまでなった尼子氏。ではその一族は、室町幕府において、元はどのような家に属し、その辿る先は何処から-。次のお話にてそのあたりに触れていきたく存じます。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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出雲の戦国大名尼子氏 其の一
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏に連なるお話でございます。
尼子氏といえば、長禄二年(西暦1458年)に生まれ、主家である京極氏の出雲守護代としての立場から、着々と在地で独自の権力基盤を築き、尼子氏を戦国大名へと伸し上がらせしめました尼子経久がまず思い浮かぶところでございましょうか。権謀術数に長け、同時代中国地方で同じく謀将としても名高い毛利元就、宇喜多直家と並び中国地方の三大謀将とも称されております。ただ、弱体化しつつあったとは言え未だ中央から全国の政を執りおこなっていた室町幕府や主家の命をはねのけつつ、取分け主家の京極氏が守護代を派しながらその下部組織たる小守護代や郡奉行といったものたちが存在せず、他国とは少し異なる、守護代による独自の統治支配が長らく行われてきた出雲国では、言わずもがな国人衆(南北朝から室町期、その土地に実行支配力を持っていた地方豪族)はじめ寺社勢力、たたら製鉄場といった在地勢力の力も強く、これら勢力との結びつきを強めていきながら自身の権力基盤を確立させていくことは並大抵のことではござりませんでした。尼子氏の戦国大名としての基礎固めは経久の力量を以てしてはじめて成しえた一大下克上事業とでも申すべきものでございましょうか。中でも、時代が進みやがて各地で守護大名、戦国大名の被官として家臣団に組み込まれていく国人衆ですが、この時期にはまだ大小様々な在地独立勢力としての毛色が強く、それをどう味方とし、味方とし続けられるかは常に勝敗を大きく左右するものでございました。よく言えば気を見るに敏、悪く言えば日和見主義的なところもある彼ら国人衆もまた、その判断は生存に関わる重大事、致し方のないことでもございまして、結果として、旗色次第でまとめて寝返ってしまうということしばしばでございました。経久の勢力拡大策は、その拡大の途上で当然の如く、時に国人衆や他の支配勢力との対立を生むことにもなり、中でも西出雲の塩冶氏と対立は、後に尼子宗家による支配体制を見直さざるを得ない結果を見せつけるものとなったのでございます。塩冶氏と言えば、元をたどれば尼子氏とは同族、出雲国西部で大きな勢力を誇る一族で、鎌倉期には出雲守護を務めていた名族でもございました。
さて、周りをすこし広く見まわしますれば、西に西国一の勢力を誇る大大名、大内氏有り。周防国山口を本拠に東は石見、安芸、西は北九州の筑前、豊前にまでその支配力を及ぼした西国の大大名家にして、その影響力を度々中央にまで及ぼすほどの力を持っておりました。永正八年(西暦1511年)大内義興上洛の折には尼子経久もその軍勢に従ったと伝えられておりますが、後の尼子氏の勢力拡大はやがて利害の不一致による争いへとつながり、時に争い、また時には敢えて触れず、の関係がつづくのでございました。
勢力拡大のため、縁戚関係による結びつき、養子縁組による他家の取り込みも巧みに行い、旗色を見て靡いてしまう程度の国人衆とのゆるい結びつきを、尼子宗家の意向で動かせる勢力へと変えていくことにも経久は力を尽くしたのでございます。そして先の塩谷氏に対しては自身の子、三男の興久を養子にいれることで取り込むことを図りましてございます。こうして塩谷氏を継いだ塩谷興久は、父、尼子経久の意思を汲み、幕府御料を直轄地化したり、古志氏など在地氏族を尼子勢力配下に組み入れたりするなど力を尽くしましたが、同時に塩谷氏独自の権益もまた守らなければならない立場でもあり、その故に反尼子勢力との結びつきもまた深めていくこととなり、興久率いる塩谷氏の同盟勢力範囲は出雲西部・出雲南部、そして備後北部にまで至るほどとなっていったのでございます。やがて立場の違いは、互いの中に異なる事情を生み、享禄三年(西暦1530年)塩谷興久は、反尼子の旗手を鮮明にしたのでございました。父、尼子経久との争いに際し、出雲大社、鰐淵寺、三沢氏、多賀氏、それに備後の山内氏等の諸勢力を味方とし、規模の大きなものであったことが窺えると共に、尼子宗家の影響力が出雲西部に浸透していなかったことを如実に物語ることでもあったのでございます。また、両者とも大内氏に援軍を求めておりますが、大内氏側では、両者共倒れを狙ったこともあってか、最終的にはやや消極的ながら経久側に立つということを決しております。激しい戦いの後、乱は鎮められ、興久の領地の多くは、次兄である尼子国久へと引き継がれていきました。
政戦両略を駆使し、時に後退することはありつつも、尼子氏の勢力基盤を着実に強化させた尼子経久、外からは謀将としての顔で知られますが、それが内に対しては細やかな気遣いとなって表れる人物であったとも伝えられております。家臣が経久の持ち物を褒めようものなら、たいそう喜ぶだけではなく、どんなものでもすぐにその者に与えてしまうため、家臣たちも却って気を遣い経久の持ち物を褒めずにただ眺めているだけにしたと言われております。ある時、家臣のひとりが、さすがに庭の松の木なら大丈夫であろうとその松の枝ぶりを称賛したところ、経久はすぐにその松を掘り起こして与えようとしたため、周囲の者が慌てて止めたものの経久は諦めず、とうとう切って薪にして与えてしまったそうでございます。また冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えてしまい、ついには自身は薄綿の小袖一枚で過ごしていたとも言われ、欲なく家中を思い遣る主としての姿が伝えられております。
さて、このように守護代から戦国大名へと、まさに下克上の典型とも言える変化を遂げてきた尼子氏ですが、世はこれからさらに乱れ、混沌の中で力が新たな秩序をつくり、戦乱の中で変革を重ねていく時へと向かっていきます。歴代国の力を積み重ねてきた大国でさえただ一度の戦に敗れ滅び去ってしまう時代、尼子氏はどのように舵を取りすすみゆくのでございましょうか。次回、其の二にてお話できればと存じます。
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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前編では、藤原氏のルーツについてお話してまいりました。後編では、まさに時代の大きな流れの狭間に生き、語り継がれるべき藤原頼長卿のお話となりまする。
さて、このように興り朝廷の政を長きにわたり主導してきた藤原北家でございますが、悪左府と呼ばれた藤原頼長もまたこの藤原北家に生を受けた公卿のひとりでございました。保安元年(西暦1120年)、時の摂政関白太政大臣、藤原忠実の三男として生まれた頼長は、幼名を菖蒲若(あやわか)といい、『台記』(藤原頼長の日記)によれば、少年時代には父・忠実の命にも従わずよく馬にまたがって山野を駆け巡ったものの、落馬して一命を失いかねないほどの目に遭い、その後は心を入れ替えて学問に励むようになったと伝えられております。そして膨大な和漢の書を読み、やがては誰もが認める博識となったと言われております。元服し、着実な昇進を遂げ、保延二年(西暦1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねるまでになっておりました。
一方、氏長者として一族を束ねる立場にあった兄・忠通は後を継ぐ子宝に恵まれなかったため、天治二年(西暦1125年)にはまだ幼い弟である頼長を養子に迎えていたのでございました。しかし康治二年(西暦1143年)に実子・基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望むようになった忠通は、父・忠実、また頼長と対立していくようになるのでございました。そのような中、久安三年(西暦1147年)、朝廷に左大臣、右大臣が空席である中、内大臣であった頼長が一ノ上卿(最上位公卿)として朝廷政務を掌握、摂政たる忠通を事実上凌ぐ勢いとなるのでございました。そして久安五年(西暦1149年)、頼長は名実共に最高位である左大臣へと進むのでございます。
時を少し遡りまして、世は白河上皇の院政時代、親政を目指す院の思惑により摂関家の力が弱められていく中で逼塞を余儀なくされてていた摂関家は、やがて鳥羽院政時代になり、頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后(異例中の異例として皇后宮に冊立された)となることで息を吹き返してくることとなるのでございました。
生後程なく祖父である白河法皇の下に引き取られて養育され、生後七ヵ月で立太子、後、父である堀河天皇の死後、わずか五歳で即位することとなりました鳥羽天皇、その治世は、幼帝の後見という形で、太上天皇たる白河上皇の院政が布かれた中での始まりでございました。
尤も、白河上皇が院政を布くに至った契機は、摂関家当主の師実、その嫡男・師通が相次いで亡くなったことで、まだ若年の忠実(頼長の父)が跡を継がざるを得なかったこと、さらには堀河天皇の早世により摂関家が天皇の外戚の座を失ってしまったことが重なり、権力が半ば然るべく集まってきたことによるとの見方が正鵠を射たものと言い得るかもしれませぬ。
永久五年年(西暦1117年)には、鳥羽帝のもとに白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、鳥羽天皇の中宮とし、保安四年(西暦1123年)には、第一皇子に譲位させ崇徳天皇として即位させておりまする。これにより鳥羽天皇も鳥羽上皇となられたことになりますが、院政の実権は依然白河法皇(嘉保三年(西暦1096年)に出家のため)が握っており、実に四十三年間の長きにわたり院政を布き、政治的実権を掌握しつづけたのでございました。
白河法皇崩御の後、大治四年(西暦1129年)より、鳥羽上皇による院政が布かれることとなります。幼少の頃より白河院政の駒のようにされ、長きに亘り耐えてきた重石のようでもあった白河法皇の崩御後は、あたかも白河院政時代になされた決定をまるで巻き戻すかのようなことが行われているように見えるところがあるかと存じます。それは否定ゆえか、または策有りてのことか、はかり知り得るものではござりませぬが、少なからず否と言い、巻き戻せることを巻き戻すことで、その思いを現実のものとしたかったというところは無きにしも非ず、と申せますでしょうか。そのひとつが、白河法皇の勅勘を受け宇治に蟄居の身となっておりました前関白・藤原忠実(頼長の父)を呼び戻したことであり、その娘、すなわち上述の頼長の異母姉・泰子を入内させたことでございました。また、白河法皇の側近を遠ざけ、院の要には自己の側近を据えるなどは、いつの世も行われることではございますが、伊勢平氏の平忠盛(平清盛の父)に内昇殿までをゆるし、政権に近づけることも行われたそうでございます。かつて地下人(じげびと)と呼ばれ、公卿の命で戦いをする役割であった武士が、その看過しえぬ実力をもって朝政にも影響を及ぼし始める大きな区切りのひとつでございました。尤も、その素地となる北面の武士(院御所の北側の部屋に詰め、上皇の身辺警護や供奉を司った武士)は、白河法皇が創り調えたもので、既に時代の変化により必要とされるものとなっていたのかもしれませぬ。また寵愛は、白河法皇の後ろ盾を失った藤原璋子(待賢門院)から、藤原得子(美福門院)へと移っていきました。尤も、中宮・藤原璋子(待賢門院)は、幼き頃より白河院の養女となって溺愛されておりまして『古事談』によれば、鳥羽院は、第一皇子である崇徳天皇のことを「叔父子」(祖父・すなわち自身の子ではなく白河院の子)と呼んでいたとされておりますこともあり、白河法皇という重石がなくなった時に、寵がうつるのもまた致し方ないところであったのかとも思われまする。
何はともあれ、鳥羽院政下において、摂関家も、内にまとまりを欠いたままではあったにせよ総じて力を盛り返してくることができたのでございまする。しかしながら崇徳天皇に譲位させ、齢三で即位した近衛天皇の元服(久安六年(西暦1150年))に合わせ頼長の養女・多子が入内すると、兄・忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に摂関家の娘でなくば立后できない旨を奏上、もはや忠実・頼長と忠通との亀裂は如何にしても繕い得るものではなくなってしまったのでございました。事実、これに立腹した忠実は、摂関家の財を忠通より接収し、また氏長者の地位をも剥奪しこれを頼長に与え、忠通を義絶してしまうのでございました。
鳥羽法皇はこれら一連に敢えてあまり深く関与はせず、曖昧とも言える立場でしたが、何にせよ左大臣であり、氏長者ともなった頼長は、政に意欲高く取り組み、取分け学術の再興と綱紀粛正を目指したと伝えられております。後に悪左府と呼ばれることになるのは、その苛烈で妥協を許さない性格からのものであり、『悪』という語が、元は剽悍さ力強さをも表す言葉として使われてきたことに由来するものと考えられております。しかしながら、実際の慣例や個々の事情などよりも、律令や儒教の論理をはるかに重視し、苛烈に事にあたっていく頼長の政は周りに理解者を減らし、院近臣である中・下級貴族からの反発を招き孤立を深めていくこととなってしまうのでございました。そしてその苛烈さゆえに周囲との衝突を繰り返す頼長は、綱紀粛正の動きの中で結果的に寺社勢力との対立も深めてしまい、政の有り方を正そうとする思惑に基づく行動は、却って頼長の対立者を生み出してしまうことの方に、よりつながってしまうのでございました。
久寿二年(西暦1155年)近衛天皇の崩御に伴い、皇位継承者を決める王者議定が開かれることになりましたが、この時期、頼長は妻の服喪のため出仕できておらず、また王者議定とは申しましても、その実は権大納言 三条公教が主導し、鳥羽法皇、関白 藤原忠通、久我雅定ら少数と密かにはかり、後継を定めてしまうというものでございました。当初、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が後継と見られ、父である上皇もそれを望んでおりましたが、崇徳上皇が藤原頼長と結んで先の近衛天皇を呪殺せしめたとの噂がまことしやかに宮廷内でささやかれ、それが鳥羽法皇の逆鱗に触れ、重仁親王は皇位継承の道から遠く退けられてしまうのでございました。代わって、生母が出産の後に急死したことで、祖父にあたる鳥羽法皇が引き取り、その后たる美福門院に養育され、僧侶となるため九歳で覚性法親王のいる仁和寺に入っていた孫王に目が向けられることとなりました。これがやがて皇位を継ぐことになる守仁親王(後の二条天皇)でございますが、如何にしても幼少であったこともあり、且つ実父も存命であるものを、それを飛び越えての即位はさすがに如何なものかとの声も無視できず、守人親王即位までの中継ぎという形で、その父、雅仁親王が立太子もせぬまま即位することとなったのでございます。それこそが第七十七代天皇、後白河天皇でございました。尤も、この突如として雅仁親王を擁立する運びとなった裏には、雅仁親王の乳母の夫であった信西の策動があったと言われておりますが、定かなところは知る由もなきことにございまする。しかしながら、ここに権力をめぐり激しき政略戦が繰り広げられ、その中で内覧としての立場も奪われた頼長は失脚に等しい状態とされていたのでございます。
その翌年、保元元年(西暦1156年)二十八年の長きにわたり院政を布いた鳥羽法皇の崩御を機に、それまで薄氷の下を流れていた水が亀裂からほとばしるかの如く事態は動き始めるのでございました。世に言う保元の乱でございます。保元の乱につきましては、他に事細かく述べられているものも多く存じますので、ここではそのあらましに触れるのみといたしまするが、「(崇徳)上皇と左府(藤原頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞により謀反人の烙印を押され、嵌められた形ではあれど対せねばならぬ状況へと頼長は追い込まれていくのでございました。平氏源氏の武士を動員し、武力の上で優位にたつ後白河天皇陣営は、形の上でも官軍であり、それに対して事ここに至りては挙兵するより外ない頼長は、挙兵の大義として崇徳上皇をいただいて臨むこととせざるをえなかったとも言えましょうか。摂関家の私兵がほとんどを占める中、武士で上皇方に参じていた源為朝が夜襲を献策するも、頼長はそれを退けたと伝えられております。興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待ち、夜が明けてから相対するということに軍議は決した様でございますが、悲しいかな頼長は政の知見は豊かでも、軍の駆け引きに通じた人ではなかった様でございます。このような常ならざる時、人は平時の儀礼や日頃のあるべき姿といったものを敢えて忘れ、敵を退けることをこそ考えねばならぬものかと存じますが、頼長にはそこまで割り切ってしまうことはできなかった様でございます。時を同じくして、後白河天皇陣営でも夜襲が献策され、逡巡する藤原忠通(頼長の兄)を信西、源義朝(源頼朝の父)らに押し切られ、夜のうちに攻めかかることで決したのでございます。平清盛率いる三百余騎、源義朝率いる二百余騎、そして源義康(足利氏の祖)率いる百余騎が京の大路をそれぞれ進み寅の刻(午前四時)に上皇方との戦が始まったと伝えられております。一進一退の攻防が続くも、やがて放たれた火が白河北殿にも燃え移り、上皇方は総崩れとなってしまうのでございました。
落ち延びる際、源重貞の放った矢を頸部に受けた頼長は、出血による衰弱に苦しみながらも逃亡を続け、末期の望みとして奈良に逃れていた父、忠実に今際の対面を望むも拒まれ、失意のなかで絶命したと言われております。
時代の流れではございましょうが、朝廷での権力争いが、武士の力をも巻き込んでこのような形でひとつの結末を迎えました保元の乱、やがて世は着実に武士が力を持つ時代へと移り変わっていくのでございました。
頼長の死後、長男の師長、次男兼長、三男隆長、四男範長は、乱を起こした父頼長と連座させられる形で、いずれもが官位剥奪の上配流とされてしまいました。長子の師長は、後に許されて京に戻り、内大臣にまでのぼり、やがては従一位・太政大臣にまで昇っておりますが、他の三人は、そこから戻り返り咲くことはできませんでした。頼長は、生前、彼らに、学問を決して疎かにせざることを諭してきたと言われております。家風として、学問を重んじ、それによって得た知見を政の中で活かし、国を支えることの意を教え伝えていたのではないでしょうか。
世が移り、再び藤原摂関家が日の本の政全てを動かす時が再び来ることはなくなれども、続いて到来する長きにわたる武家支配の世にあっても、藤原北家流に連なる摂関家は、五つの家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)即ち五摂家に分かれて、脈々と続いていくのでございます。
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尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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悪左府 藤原頼長 保元の乱と武家政権の基
さて、前回、左大臣の登場により血筋によってのみ与えられた権威を振りかざす一条三位も、ぐうの音もでなくなってしまった場面をお話いたしましたが、律令制下の朝廷において最高行政機関たる太政官の最高位が左大臣でありましたことはお伝えしたとおりでございます。今回は、そんな左大臣を任じられた方々の中でも、悪左府と呼ばれた平安末期の左大臣・藤原頼長卿について少しお話できればと存じます。
因みに『左府』とは、左大臣の唐名のことでございますが、府にはもともと古代中国において官物や財貨を収蔵した蔵という意味がありました様で、やがてその蔵が立ち並んだ場所が重要拠点として政を執り行う場となり、延いてはその長を言い表す言葉となっていったためではないかと考えられます。
左大臣 藤原頼長についてお話する前に、皆さまご存知の藤原氏について、時代を遡ってみたいと思います。
藤原一族の中でもよく知られた方と言えば、平安中期に、その権勢並びなきと言われた藤原道長が挙げられますでしょうか。天皇外戚となり、摂政として政の実権を掌握、祝宴の席での即興の歌『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば』はその権勢並びなきことを後世につたえるものとしてよく知られたものでございます。
悪左府、藤原頼長も大きな流れとしては、その道長と同じ藤原北家の流れを汲む貴族でございました。
ではそんな藤原一族はそもそもどこからやってきたのか、と申しますれば、さらに時を遡りまして飛鳥時代、大化の改新にて中大兄皇子(後の天智天皇)を支え、政権の中心的立場として、それまでの豪族中心の政から、唐の律令制に倣い、天皇中心の中央集権国家体制をつくり上げる基を築いた、藤原鎌足まで行きつくことになります。その始まりは、皇極天皇四年(西暦645年)のことでございました。大化の改新以降、天皇という呼称が正式なものとなったと伝えられておりますが、各地に豪族が濫立し、広大な私有地に対して公に支配力を持つ中では大王(おおきみ)を中心としつつも、実質的なところはおろか、形式的にもまだまだ諸勢力の集合体であるところに留まったままであり、統一国家としてより大きな力を示すことは事実難しいことでございました。申すまでもなく、それまでの伝統に基づく氏族制をいきなり廃してしまうことによる混乱は避けなければならず、ゆえに少しずつ、我が国の在り様を鑑みながらも律令制を採り入れていき、真に天皇を中心とした中央集権国家へと制度を整え始めたというところでは、国が国として成るための大きな変革のはじまりであったと申せますでしょうか。
早くから中国の史書に高い関心を持ち、遣唐使として留学していた南淵請安に学び、国家の有り方というものを改革の旗手として進めていきました鎌足ですが、最初から藤原であったわけではなく、神事を司る中臣氏でありました。中臣鎌足として改革を進め、天智天皇の信任も厚かった鎌足は、落馬して療養する中、天智天皇が見舞い、その際に大織冠の位と、藤原の氏を賜り、その翌日に身罷ったと伝えられております。鎌足五十六年の生涯でございました。大織冠の位は大化三年(西暦647年)に制定された七色十三階冠の制における最高位であり、史上、大織冠となったのは藤原鎌足の他にはおりませんでした。また、この時賜った藤原の氏は、鎌足が大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)の生まれであることによるとも言われております。家々が氏を単位として結合し、氏族として朝廷を支える支配階級の構成単位でもございました。そのことからも新たに氏が作られるということは、どれだけ大きな意味を持つものであったかを伺い知ることができるかと存じます。
こうして天智天皇の治世、国家の功臣として大きな力を持つにいたった鎌足の一族ですが、鎌足亡き後は、一転不遇の時期を迎えることになります。鎌足の子、不比等(史)は、幼くして父を亡くし、鎌足の死後中臣氏の中心的存在であった右大臣 中臣 金が、天智天皇の後継争いである壬申の乱において、天智天皇の子、大友皇子方として敗れ処刑されるに至り、勝者たる天智帝の弟、大海人皇子、すなわち天武天皇の治世には、乱とは無関係であった鎌足流も不遇の時代を迎えることとなったのでございます。金をはじめとする中臣氏の有力者が近江朝(大友皇子)方として処断され、朝廷の中枢から一掃されてしまった天武天皇の御代、天皇親政の下、時代は大きく変化を続け、官制もまた大きく改革されます。広く優秀な人材に官途をひらくべく、宮廷に仕える者をまず大舎人とし、その後才能を見極め官職につける制度となりました。世を鑑み、一から始めることも厭わぬ史(不比等)は官途に就くべくこの新制度下で歩み始めるも、後ろ盾を持たない不比等にはいつまでたっても道が拓かれないどころか、ただ鎌足の子として視られ退けられたまま時が過ぎていくのでした。しかしながら、不比等はこの時を無為には過ごさず、勉学に勤しみ、来るべき律令制国家時代において必要とされる知識を誰よりも多く身につけていくのでございました。また、ただ待つだけではなく、伝手と人脈づくりにも腐心した不比等は、天武帝の治世後期には、従兄弟の中臣大嶋と共に草壁皇子(天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子)に仕えていたと伝えられております。
忍耐強く、慎重に着実に動いた不比等に、やがて次の持統天皇(天武天皇皇后)の時代、転機が訪れるのでございます。天武天皇薨去に際し、後事を託された皇子と皇后でしたが、皇子の年なども鑑み、皇后自らが天皇の位につくこととなるのでした。草壁皇子に仕えながら、その立場に加え、政をはじめとする幅広い知見を以て持統帝の信頼を得ていく不比等でしたが、生まれつき病弱でもあったと伝わる草壁皇子は、その後皇位につくことなく持統天皇三年(西暦689年)二十七歳の若さで薨御されてしまうのでございました。当時、皇位継承に関して直系継承などの定まり事は未だなく、皇族の中からその出自、地位や力により次の天皇が選出されておりました。おそらくは母の身分の高さをはじめ幾つかの条件が揃ったことですでに立太子されていた草壁皇子でしたが、それが即ち、皇太孫にあたる皇子の子、軽皇子の皇位継承を何ら確かなものとすることにはつながらなかったのでございます。しかしながら我が子であり、やがて皇位を継がせるべく慈しみ、時と場を整えてきた草壁皇子を亡くした持統天皇の想いは、草壁皇子の子、己が孫にあたる軽皇子へと自然注がれることになり、何とか軽皇子に皇位を継承させたいと願うようになっていったのは、何ら不思議なことではなかったかと思われます。ここで持ち前の優れた観察眼と智慧を活かし、軽皇子(後の文武天皇)の擁立に尽力した功績は大きく、また卓越した政の知識を以て大宝律令編纂においても中心的な役割を担うこととなった不比等は、その影響力を政治の表舞台へと及ぼしていくのでございました。さらに、軽皇子の母たる阿閉皇女(後の元明天皇)に仕えその信任厚く、細やかな心配りだけではなく、政治的な視点においても優れたものを持っていた女官と伝わる県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)との関係と力添えは、不比等が皇室との関係を深めていく上で大きなものとなるのでございました。尤も、力をつけてきたことで皇族たちの目もまた彼らから見て危ういものとして不比等に向けられることになります。一つ段を踏み誤ればすべてが崩れてしまうような中、慎重さを重ねても重ねすぎることはないくらいに、地歩を固めていったのではないかと思われるのでございます。さて次に不比等は、やがて皇位を継承する軽皇子と自身の娘との距離を近づけていくことに心を砕くのでございますが、後に、天皇の外戚となることで実権を握る摂関政治の基は、不比等がこのような思いの中で築き始めたものでございました。しかしながら、この時代には、皇后、妃となることができるのは皇族出でなければならず、たとえ如何に信頼を得、位を得たとしてもなお、不比等にできるとすれば、己が娘を皇后、妃より位の劣る天皇の夫人とさせることまででした。即ち、側室にはなれても正室にはなれない、ということとなりますが、では天皇の位についた文武天皇(軽皇子)が、皇族の中から妃を迎えず、夫人しか迎えなかったとしたらどうなりますでしょうか。その時には、夫人が皇子を生めば、その皇子が皇位を継ぐことになります。皇位を他の皇族ではなく天皇の子が継承していくものという流れを形づくってきたことがここで意味をもつのでありますが、いにしえのことにて、定かなことは推しはかるより外はございませぬものの、時の流れが味方をしたものか、不比等が遠大な思いの中でこのような流れをつくり上げていったものなのか、誰にとって最も益のあることであったのか、ということから伺い知るばかりとなりますでしょうか。
果たして不比等の娘、藤原宮子は即位した文武天皇(軽皇子)の夫人となり、文武天皇には他にそれより位の劣る嬪はいても、皇后、妃を迎えたという記録はなく、文武天皇と宮子の間に生まれた首皇子が、やがて聖武天皇として即位することとなるのでございました。
さらに不比等は橘三千代(県犬養三千代)との間にもうけた娘、安宿媛(光明子)を首皇子に嫁がせます。養老四年(西暦720年)不比等は六十二年の生涯を閉じることとなりますが、光明子は不比等の死後、力を合わせた不比等の息子たち藤原四兄弟により光明皇后となり、皇族ではない立場からの立后の先例を開いたとされております。
藤原氏を新しい律令制国家の政の中枢へと導き、神事を司る中臣氏とは一線を画す立場に位置付けんとした不比等の意思により、藤原氏は不比等とその子孫にのみ許され、他の一族は再び中臣氏たることとされたのでございますが、政を律令制という、制度として動くものへと進めていくこと、それは、政を前時代的な神権政治から脱却させ、次の形へと変えていくことの必然性と、それに欠くべからざる学問を重んじた不比等の姿勢なくしては得られぬものであったかと思われるものでございます。
不比等亡き後、武智麻呂(むちまろ・藤原南家開祖)、房前(ふささき・藤原北家開祖)、宇合(うまかい・藤原式家開祖)、麻呂(まろ・藤原京家開祖)の四兄弟がその遺志を継いていくのでございますが、その道のりは決して平坦なものではなく、幾多の政敵との争い、また時には一族内での争いの歴史でございます。時は流れ、嵯峨天皇の時代に、帝の信を得た当主冬嗣が朝廷内での力を伸ばし、冬嗣より三代続けて北家嫡流が外戚の地位を保ち続けることができたことにより確固たる地位を築きあげ、先述の藤原道長、そして頼道の時代の全盛期へとつながっていったのでござりまする。
次回後編では、悪左府 藤原頼長の時代のお話へとつづきまする。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら
水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま
皆さまご存知の人気時代劇『水戸黄門』。越後のちりめん問屋のご隠居という世を忍ぶ仮の姿で日の本全国を旅してまわり、各地で権力を傘に悪事を働き、民百姓を苦しめる悪党を見つけては厳しく仕置きするのは、徳川御三家の一家、水戸徳川家(但し当初は水戸松平家で、駿河徳川家断絶後に徳川を賜姓される。)常陸水戸藩の第二代藩主、徳川光圀(水戸光圀)でございました。
どこからともなく現れて、いままで甘い汁を吸い放題だったところに賢しげに説教する旅の一行。悪事を働く者たちにとって、それはさぞかし不愉快不機嫌極まりないものに違いありません。せっかく悪事で潤い築き上げた今の立場を手放そうとするはずもなく、たかが旅の商人の一行くらい後でなんとでもなると、お約束で皆殺しを手下に命じます。
ところが、葵紋の印籠を見せつけられて相手が実は徳川光圀(水戸光圀)であると告げられるものだからさぁ大慌て。世は徳川宗家を頂点とする江戸幕府が治める江戸時代、そして水戸光圀と言えばその徳川宗家に近い一族の先代当主です。目の前にいるただの老いぼれと見下していた相手が、実は大変な権力者であったわけですから、何はともあれひれ伏してしまいます。露見した悪事を誇らしげに語り、思いっきり開き直ってしまったわけですから、手下に始末させてキレイさっぱりとの目論見が一転、自分たちが始末(処断)されてしまいそうなことになってしまったとなれば、それはもうびっくり仰天です。
さて、当時、財力の基となるものはご承知のように基本的には土地でした。水戸黄門のご一行が旅をしていた土地というものは、実際にはもっとずっと細かく分かれますが、きわめてざっくりと分けてしまえば、天領か大名領かの何れかでございました。天領は幕府直轄地で、幕府が直接治める地であり、ここにいるのはいわゆる幕府が任じた代官です。一方で大名領地は、徳川家との関係、幕府への貢献度合などから幕府に領地を治めることを許された大名家が治める土地でした。幕府に近しい順に親藩、譜代、外様となっておりますが、いずれもそれぞれ大名家がやはり代官をあちこちに配して治めておりました。日の本全土の実行的支配権を徳川宗家の江戸幕府が握っている時代、例えどこのどんなに小さな村であっても、水戸黄門のご威光というものは、それは強いものでありました。なぜなら、天領であった場合には言うに及ばず、大名領地であったとしても、その大名たちの中で徳川幕府に逆らえる者など存在しない程の力の差があり、幕府に従属している関係でしたので、詰まるところ権力を傘に着て悪事を働く者たちの拠り所となるその権力が、すなわち最終的には徳川江戸幕府の力であり、ゆえにご老公の身分を表す印籠は全国何処でも効果覿面なのでございました。
ところが、ごく稀に印籠を見ても全く意に介さない悪しき権力者が登場します。取り分け江戸初期における武家主導の実行支配体制を鑑みるに、上の者と言えば将軍家に、他の御三家当主たちと数えるほどの徳川光圀ですが、確かにそれだけの考えの枠には嵌らない高位者が存在しました。それらの代表的存在が、天皇と、天皇を中心とする公家です。そもそも、如何に実行支配力を持っていたとしても、徳川宗家とて我が国においては天皇の臣下であり、水戸光圀とてまた例外ではありませんでした。徳川宗家が戦国の世を経て覇者となるよりもはるか昔より、我が国は朝廷により治められてきておりましたし、鎌倉時代以降、長きにわたり武家の政治的独立に伴う複雑な二元政治的流れを形作りながらも、少なくとも形式の上では変わるものではなかったためです。
このような印籠に屈しない悪しき権力者の例は数回あった様なのですが、その中のひとりに、一条三位という公家がおりました。印籠を見せられても屈するどころか薄笑いを浮かべ、『麻呂は帝の臣であり、徳川の家来ではおじゃらん!』と光圀たちに言い放ちます。
さてこの一条三位、曰く中納言を務めたとのことですが、分解してみますと一条家の一族であり(分家ではないと仮定)、位は三位(正三位もしくは従三位の何れか)、また官(官職)として中納言を務めたことがある、ということになります。公家には家格というものがあり、その家格毎に位や官に上限が定められておりましたが、一条家と言えば藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする藤原北家の流れを汲み、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流として公家の最高位に数えられる藤原嫡流五家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)の一家、まさに名門中の名門、摂政・関白の位に就ける唯一の家格でした。とはいえ一条家といっても大きな家ですので、少なくとも一条宗家や中心的な人物ではなかったとは思われますが、名門ゆえに相応の官位に恵まれていた存在と考えてよいと思います。因みに、中納言に限らないことと言えますが、南北朝時代以降は中納言の正官は任命されなくなり、もっぱら権官(「権」は「仮」の意で、主に正規の官職員数を越えて任命する場合に使われた。実権を伴わぬ名誉職的な側面も。)のみが置かれたそうですので、一条三位もまた、権中納言であった可能性が高いと考えられます。
ではその一条三位中納言に対して、同じく帝の臣たる徳川光圀ですが、寛永十七年(西暦1640年)従三位の位に叙せられ、官は右近衛権中将、参議などを経て隠居後の元禄三年(西暦1690年)権中納言となっておりました。皆さまよくご存知の通り、水戸黄門の『黄門』は、中納言を中国の官職名諷に言ったもので『黄門侍郎』から来ております。
官と位はほぼ相当するものであり、中納言の位は従三位とされておりましたので、一条三位も途中で何らかの特別な御沙汰など無き場合、正三位への昇叙はなく従三位のままであった可能性が高くなります。
その場合には、どちらも位は従三位、どちらも官職は権中納言となり全くの同格同列です。そんな一条三位が徳川一門の印籠に対して平伏する理由は確かにありませんが、帝の臣であるのは光圀もまた同じですね。
事の裏側を知った光圀は、そのような一条三位の反応は予想済で、目には目を、公家には公家を、と、一条三位が頭の上がらない良識人に事情を説明し助力を頼んでおりました。光圀を罵る一条三位の前に登場したのは朝廷の左大臣、これにはさすがの一条三位も仰天です。律令制において司法・行政・立法を司る、いわば最高行政機関たる太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言、そして後に中納言・参議が加わり、議政官として政務の重要な案件を審議する場であり、且つ太政大臣は常設の地位ではなかったため、事実上左大臣がいわば太政官における最高責任者でありました。そして菊亭と名乗った左大臣、菊亭家といえば今出川家のことであり、公家の家格としては、最上位の摂家につぐ清華家(時代により異なるが、主に三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・今出川の七家を指す。)の家格、太政大臣まで就任できる家格でしたので、左大臣として一条三位を叱責する立場での登場となったのであろうと考えられるかと思います。
武家官位ではあるものの、やはり高位の水戸光圀、それに全く物怖じしない相手としては、それ相応の公家が必要であったのでしょう。五摂家の家格の公家まで登場させますが、最後には光圀の仕込みに屈することに。その相手として清華家家格の左大臣を配するあたり、やはりよく考えられていますね。
至極簡単ではありますが、少しだけ幅を広げて名シーンを回想してみました。いつもの定番シーンに、こんな一波乱がこれまで幾度かあった様ですが、何せ有名な場面ですので既に情報も出揃っているかとは思います。ただ、ほんのすこしだけ深堀してみることで、また新たな疑問が湧いてはこないでしょうか?
回を重ねて、いろいろなちょっとした歴史の深堀におつきあいいただければ幸いです。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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