衣替え

昔からよく、暑さ寒さも彼岸まで、と言いますが、昨今の温暖化の影響や、時として過剰なまでの冷暖房完備は、日本人から四季を感じることを少しずつ奪っている様に思えてなりません。暖かさと肌寒さの入り混じる春には、春らしさを取り入れつつもまだ冷たさの残る風に、羽織れるものを持ち合わせた着こなしを、木の葉が色づき始める頃には、おだやかに暖かな昼間と、秋の日は釣瓶落としと言われるように、日が落ちて急に肌寒くなる夕方の両方を考えた着こなしを、それぞれ楽しんできたと思います。その中間のような季節があればこそ、そこに合わせた文化が生まれ、必要性だけにとらわれない心の豊かさもまた育まれてきたのではないでしょうか。

 

衣替えは、もちろん気候の変化に合わせて必要に迫られて、という側面もありますが、それだけではなく、移り変わる周りの自然、四季の移ろいに我が身も合わせていく楽しさをやはり忘れたくはないものです。前の年の服を出してきて、あぁ、と懐かしく思い返される風景や、忘れていた記憶、目で見たもの、肌で感じたもの、また食べたくなる季節の味、服と一緒に蘇ってくる五感の記憶ってないでしょうか。

 

クリーニング店の業界団体による最近の調査では、「長期間放置品」があると回答した業者は実に87.4%にのぼったそうです。しかも何年も放置されたままのケースも多いとか。中には故意ではなく仕方のない理由(本人死去、引き取り人不明など)もある様ですが、気が付いていても忙しいし、片付けの時間もないからついつい、などだとしたら、まるで自分の大切な記憶をどこかへ置き忘れてしまっている様。

 

季節を感じて、大切な記憶を積み重ねていく暮らしを、大切にしたいものだと思います。

 

 

終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。

 

 

買い物難民と高齢者

内閣府による「2005年度高齢者の住宅と生活環境に関する意識調査」によれば、「日常の買い物」を現在住んでいる地域での不便な点として挙げたのは、60歳以上の高齢者の実に16・6%という数字でした。全国で推定700万人以上とも言われる『買い物難民』、2008年に出版された『買物難民-もうひとつの高齢者問題』(杉田聡 著)などにより、さらに広く認知される様になった『買い物難民』という言葉ですが、その状況の深刻化もまた文字通り全国規模で進んでいる現状があります。

 

従来型の商店街が衰退することで住宅地から徒歩圏で購入できた日用生活品が、遠くまで行かなければ買えなくなってしまう、そしてその商店街衰退の主たる原因のひとつであることが多い、進出してきた大規模店舗へも、個人の交通手段(自動車、バイク、自転車など)なしではなかなか行くことが難しく、またほんのちょっとした買い物だけのために混雑した広い店内を移動したり、長いレジの列に並んだりするのも、高齢者にとっては正直大変なことですし、足腰を痛めていたりすればなおさらのことです。

 

公共交通機関も充実しているとは言い難い地域では、それこそお豆腐一丁を買うためだけにタクシーで往復しなければならない場合もあり、しかもその非現実的なオプションでさえ、選択肢とできるところはまだましなくらいということになれば、これはもう日用品の買い物難民という言葉が、残念ながらしっくりきてしまう深刻さだと言えるかと思います。

 

首都圏のように、一見様々な規模の店舗が多くある様に思えるところでさえ、買い物難民化は起こり得てしまいます。健常な青壮年男性にとっては近くて便利な場所であっても、途中の道が交通量の激しい狭い道であったり、距離は短くても急な坂であったり、それこそ足腰が不自由であったり、血圧が高かったり、他様々な理由で1人での外出自体がそもそも困難な高齢者にとっては、結局行ける範囲にお店がない、ということになってしまうことが意外と多いのです。

 

インターネットで注文をすることなど選択肢とできない高齢者の多くは、頼んでいるヘルパーさんに買い物をお願いしたり、ここ数年展開が進んでいる移動スーパーや、あるいは食事をお弁当の宅配サービスなどに頼ったりすることが多いかと思いますが、やはりここで大切に考えなければならないのは、単に物が届く、ということではなく、自分で買い物をすること、その行為を通じてのコミュニケーションなのではないかと思うのです。(移動スーパーの成長はそのあたりのニーズに対応できていることが要因と考えられているかと思います。)

 

高齢になり、体力や健康にも問題がある中、独り暮らしとなり、買い物にいくことも難しければ、食事もいつも独りで済ませる現実-長年進んできた都市部への集中、核家族化の進行とも関連の深いことかと思いますが、人と触れ合うことが極端に少なくなれば、やはりそれは心身の不健康につながっていってしまうと思います。筆者にも少し離れたところで暮らす、高齢で独り暮らしとなってしまった伯母がおりますが、遊びに行き、一緒に買い物に行けば、自分のペースでゆっくりと、あぁ、あれが買いたい、これが食べたい、となりますし、食事をする時は『みんなで食べるとやっぱり美味しい』と言って、普段よりもよく食べてくれます。都度思うことですが、その一言にすべてが集約されている様に感じられてなりません。

 

自動化や効率化の波の中、それを重宝しつつも同時に、便利さ、っていったい何だろうと改めて疑問に思うこともしばしばです。馴染みのところでマイペースで買い物ができる環境、日々の何気ない会話、そして難しい場合が多いかもしれませんが、家族みんなで食卓を囲んで-少しでもその風景を次世代にも伝えていけたら、と思います。

 

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命とつながり

小さいころから顔は知っているけれど、朝、いつも道で挨拶をする程度の間柄、ちょっとしたご縁が元で、近所の買い物の時などにもよく挨拶はするようになったけれど、あまりよく知らない間柄-そういったふわりとした関係が幾重にも重なっていることが、都市部ではもはや珍しくなくなってきているかもしれない。例えば隣にどんな人が住んでいるのかさえ知らない、という人は実に6割とも、それ以上とも言われている。

 

無縁社会の進行などとも言われるが、それでも、そんなふわりとした関係は、長い間にまるで自分を取り巻く人の風景のようなものになっていく。特に何か、というわけではなくても、しばらく見かけないと、どうしているのだろうな、とふと気になってしまったり。。。

 

そしてある日、そんなふわりとした関係だった人が亡くなっていたことを知る。もう道ですれちがうこともないのだな…、駅や公園で会うことも、買い物途中に挨拶することもないのだな…、と。 そんな時、ふわりとした一枚一枚の記憶が、突然幾重にも重なって、いままで心の中にあった景色が一時、色濃いものになることがある。

 

何かの縁、という言葉があるが、何かしらそれを大切に思える気持ちを、まっすぐに伝えていける社会をのこしていきたい。

 

 

 

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交わす言葉と察しの文化

私は言いたいことは言う、言える-そういう人は、実のところそう多くはないと思います。理由は様々あるでしょう。例えば、直接言っては角が立つから、言って相手の気分を害してしまうのが気まずいから、言ってもちゃんと理解してもらうのに苦労するから、なかなか言い出しにくい雰囲気だから、聞いてもらえそうにないから、などなど、環境や相手との関係により理由は様々でしょうが、誰しも日々の生活の場面で経験のあることかと思います。

 

そしてこのようなことは、昨今、意外と近しい関係においてもよく発生している様です。毎日顔を合わせる間柄だから、であるとか、同じ環境で育ってきたし、同じ理解をしているはず-その想いがゆえに、却ってボタンの掛け違えを起こしてしまい、それをなかなか元に戻せない、などということも意外と多いかと思いますが、そこには『察しの文化』が影響している部分もまたあるのではないかと思うのです。

 

言わずとも察してほしいという日本の文化は、遠回しに言うこと、気が付いてもらうようにする工夫をするというコミュニケーションを育ててきました。それにより円滑な関係を保つという考えが根底にあるかと思うのですが、それは同時に手間のかかることでもあります。ただ、そんな手間のかかる人と人とのコミュニケーションの連鎖がそれを可能にしてきたのだと思うのです。

 

しかしながら、昨今、効率化の名のもとに少ない人数で変わらず物事を進めようとし、人ひとりが負う責任範囲も広くなってきている傾向が全体的に顕著に見られます。また効率化や利便化の名のもとに、人と人とのコミュニケーションも簡素なテキスト(文字)情報交換に依存することが増えてしまい、結果、情報交換や共有は効率的に行えても、本当の意味での意思疎通をむしろ阻害してしまっている側面が多い様にさえ思えます。

 

何気ない言葉を交わすことから得られる人と人との相互理解はやはり大きいですし、そこから汲み取ることができるものもまた多いと思います。相手が言えない言葉を察する、表になかなか出せない想いを汲み取る―機械的な情報交換をいくら積み重ねても、その基礎となる土壌は出来上がっていかないものなのではないでしょうか。

 

察して考えてほしい、行間を読んでほしい、という気持ちは誰しも持っているかと思いますが、それを可能にするには、やはりそれなりの何気ない交流の積み重ねもまた欠くことのできない大切なものなのではないでしょうか。友人や同僚からの相談、部下の悩み、子供がかかえる不安、あるいは親や上司からの相談だって時にはあるでしょう。そんな場面で、『今時、誰だって色々忙しいし、大変なものだ。』『自分もみんなも頑張っているのだから君もがんばって。』『それは私も過去に乗り越えてきた壁だから。』…そんな言葉をよく聞くことがあります。

 

言う方は何らかの励ましの気持ちや純粋な応援の気持ちから発しているだけかもしれません。けれど、考えてみてほしいのです。それらの言葉で何か汲み取ることができるのだろうか、何かを良い方向に向かわせることが本当にできるのだろうか、と。よく知っている間柄であればこそ、立ち止まって本当に相手を慮ることができているのだろうか、と考えてみる機会をどうか持ってみてください。

 

たとえ一見同じような境遇であっても、そこはやはり違うところの多い人と人、年齢や性別、立場や環境が違えばなおさらです。そんな時は、難しいことかもしれませんが、相手の背丈に合わせて、目線を同じくして、同じ早さで言葉を交わしてみることを試してほしいと思うのです。その時、それが、ここのところ私たちがいつの間にか無くしてしまっている、大切な『手間のかかるコミュニケーション』なのかも、と気が付けるかもしれません。

 

察しの文化をよく機能させる土壌作り、伝えていきたいものだと思います。

 

 

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アサガオの観察で学ぶこと―継続と忍耐―

アサガオを育てて観察することといえば、今も昔も変わらない小学校1年生の定番課題のひとつでしょうか。種を植えて、毎日水をやり、その成長を記録する―あぁ、自分も子供の頃にやったよ、と思い起こされる方も多いかと思います。

 

昔は理科、今は生活科という授業に含まれますが、このアサガオの観察、文部科学省による学習指導要領では“気付き”と表現されています。毎日休まず世話を続けることが求められるところも、教育上アサガオが選ばれる理由のひとつの様ですが、植物を育てていく中で、植物の成長と自分の成長とを照らし合わせるような指導により、その過程での気付きを生みやすいということが変わらず続けられている理由ではないでしょうか。

 

百聞は一見に如かずと言いますが、子供たちは、さて植物の成長の想定などを聞いても、やはり限られた子供の知識や経験の中では、なかなかピンとこないところも多いのだろうと思います。水をやった次の日に芽が出ていないと言い、それでも水をやり、次の日もまだ芽がでない…それでも続けていくと、やがて芽が出て初めて目に見える変化に気が付くのですが、分からないながらにも言われた通りに続けてみることで、どのくらいでどんな変化が起こるのか、そして次に何をどのくらい続ければ、どんな変化が起こるのか、ということを体験することで、継続と忍耐とを学んでいくのではないかと思います。

 

そしてそこで学んだ基本姿勢は、学年が上がっても、社会に出ても、取り組む課題の中身が複雑になってはいても通用する基本中の基本だと思うのです。

 

社会構造の変化の内容や、その速度も著しく、先が読めない時代と言われますが、ゆえに経験と情報分析から導き出した推論に基づいて行動し、しっかりと定点観測をし、そして必要に応じた進路修正をすることが求められてきているのだと思います。そして正解はひとつではないにしても、その場に適した行動を計画できる『観察力』がより一層求められる今、懐かしく思える小学校時代のアサガオの観察記録に立ち戻って、情報分析の元となる定点観察を思い出してみることで、もしかしたら見えていたつもりだけだったものが、はっきりと見える様になるかもしれません。

 

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街の風景 変わらないものと変わるもの

街の風景に気を留めてみることはありますか?

 

通勤や通学で毎日通っているところなど、普段全く気にも留めていたつもりのなかったものが、意外なほどに強く心にのこっていたりすることに、久しぶりにその場所を訪れて気づかされる経験は誰しもがもっているものではないでしょうか。

 

あれ、ここにあったベンチの形が変わっている、あ、あの店まだ元気に営業してたんだ、ここによく座って話したよなぁ、看板は違うけれど同じ駐車場、いつもの角を曲がったところにあった自動販売機…などなど、意外と細かなところを覚えているのは、体が覚えているから、なのかもしれません。

 

街の様子は、規模やスピードにそれぞれ違いはあっても、時と共に変わっていきます。毎日のなんでもない景色、長年通いなれたその場所を通るのが今日で最後だな、なんて日に、ふと懐かしく感じてしまうことなんてありませんか? たとえその日にはそう感じなくても、いつかきっとそう感じる日がくると思います。あぁ、もう飽き飽きした、と思うくらいの景色にかぎって、何だかんだ記憶にのこっていくものだと思うのです。デジタル化が進んだ今は、写真も残しやすいですよね。何気ない普段を、そっとのこしておいてみてください。忘れた頃に、忘れられないたくさんのものがそこにつまっていることに気がつくかもしれないですよ。

 

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大型アーケードゲーム エアホッケーで一汗かいて

ボーリング場や温泉ホテルなど、比較的スペースのある遊技場によく置かれていたエアホッケー。ゲームセンターなどでもまだ少し小型なものを見かけますが、懐かしいと感じる方の方がもう多くなってきている代物ではないでしょうか。

 

その誕生は1972年。アメリカのブランズウィック(Brunswick)社により開発、発売されたものですが、ボーリング場システムでも有名な同社が開発したこともあってか、ボーリング場で見かけたことがある、という方も結構いらっしゃるかもしれません。

 

100円玉を入れるとフゥワーッと風が盤面から吹き出し、風呂上りにちょうど気持ちよかったエアホッケー。あのプレイする時に手で持って、プラスチックの円盤(パック)を打ち合うものはマレットと呼ばれますが、しっかり握って全神経を集中させてプレイすると、結構いい運動になりますよね。それもそのはず、日本では遊技として定着してきましたが、海外ではスポーツジャンルとして確立されているそうです。

 

最近では、介護施設などにも設置され、リハビリの一環としても注目されているそうですが、親子で、兄弟で楽しく遊んだ記憶がそのまま再現されることが、体を動かすことにもまして効果的なのかもしれないですね。

 

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双六の時間とスマホ育児

スマホ育児に関するニュースを最近よく目にしますよね。メリット、デメリット、発育への影響懸念や育児への負担軽減の側面など、賛否両論です。

 

スマートフォンの便利さ、うまく活用することで子どもの教育ツールともなったり、ちょっと手が離せない時に子どもの相手をしてくれたりと、核家族化の影響などから家庭でも人手が足りない傾向のある現代社会において、もはや必要不可欠なデバイスのひとつと言えるでしょうか。

 

スマートフォンに限らず、社会全体のデジタル化の波は、一昔前のアナログアイテムをデジタル化することもまた進めるきっかけとなっているかと思います。居間にボードをひろげて家族や友達で回りを囲んで遊んだ、いわゆる双六タイプのゲームなども、デジタルで遊べるようになったもののひとつかと思います。デジタル化のお陰で、ひとりでも遊べるようになったり、またゲームの進行自体に一定の制御がかけられることで、なんと表現したらよいのでしょうか、カチカチと正確にプレイを進めやすくなった側面もあるかと思います。

 

でも、思い返してみると、昔は大きな子が小さな子にルールを教えながら楽しんだり、アナログゆえの曖昧さが、却ってゲームを円滑に進めるコツを学ぶ機会につながったりと、人と人とが同じゲーム盤を囲みながら、ゲームを通じてゲームそのもの以外のことも教えたり教えられたりがあったと思います。社会勉強といったら大袈裟でしょうか、でも、そんな縮図がそこには実際にあるのだと思います。

 

みんなで車座になってゆっくりとゲームを楽しむ―もしかしたらちょっと贅沢な時間の使い方と思われるかもしれませんが、楽しみながら触れ合いながら学べることって、意外と多いことに驚かされるかもしれませんよ。

 

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冬の海、冬の味覚と地方創生

地方創生政策の後押しもあってか、特に都心部の人にとって、国内各地のよさを再発見させられる、あるいは初めて知るという機会が増えているかと思います。地方のよさといっても様々ありますが、北風のつよい日、温かい冬の味覚はやはりその土地土地の豊かさを感じさせてくれる楽しみのひとつですよね。

 

鍋をみんなで囲んで楽しむ冬の海の幸、冬場の旬の味覚と言えば石狩鍋、あんこう鍋、蟹鍋、ぶりしゃぶ、てっちり、牡蠣鍋、たらちり、それに寄せ鍋やおでんにも冬の具材があふれ、数えきれないほどあるかと思います。

 

特に鮮度に左右されやすい冬の海の味覚は、やはりその土地土地で味わうことにまさるものはないでしょうが、輸送技術の進歩もあって都心部でも鮮度の高い魚介類を堪能することができるようになってきています。

そして、そのような昔から変わらぬ、体も心も温まる食卓の一部は、漁業に携わる人たちによって支えられているものですが、都市部の寒さに悲鳴をあげる人たちから見たら、冬の漁などもう想像もつかないくらい厳しいものだろうと思います。

 

そんな厳しい環境で働く人たちが抱える課題―東京一極集中を是正し、人口減や雇用減に苦しむ地方自治体の活性化を目ざし、日本全体の活力を上げることが目標とされる中、収入や将来性をどう確保していくのかということは、とりわけ一次産業全体での大きな課題となっています。

 

インフラ技術の進歩もまた、物理的な距離の短縮に一役買っています。地方創生政策が進む中で、東京一極集中の必要性をそもそも無くし、国内各地域・地方が、それぞれの特徴を活かして、魅力ある自立持続的な社会をふたたび形づくっていける様にしていくことで、季節毎の旬の味を親から子へと伝え、豊かな食文化をのこし伝えていける社会をも守っていきたいものです。

 

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オフラインになる権利と家族の時間

2017年1月1日に、フランスの労働者が勤務時間外のメールを見なくてもよいということが公式に認められたのは、記憶に新しいところだと思います。

 

これは、2016年5月に同国で成立した労働法改正の中身のひとつですが、いわゆる「オフラインになる権利」と呼ばれ、従業員が50人を超える企業では、会社が従業員の業務メール送受信を禁止する時間帯を明記した行動規範を策定することが義務化されたというものです。

 

携帯電話、メール、そしてそれに連なる通信技術の発達は、確かに緊急連絡を容易にしたり、コミュニケーションの手段を多様化したりという様々な恩恵をもたらしたことは間違いないでしょう。ですが、昔から過ぎたるは及ばざるが如し、と言われる様に、便利すぎる弊害というのもまた、もはや無視できないところに来ていることを改めて考える機会なのかもしれません。

 

勤務時間が終わっても、週末や休みの日でも、休暇でどこかに旅行に行っているときでも、年々電波のつながらないところというのは少なくなってきており、あいにく連絡が取れません、という理由はもはや成立しにくくなってきてしまっています。取引先からのメール、上司からのメールなど、受け取りには正直ちょっと一呼吸置きたいものですよね。休みなくそれらを受け取り続け、例え返信はすぐにしなくてよいと言われていたとしても、そのメールが来ているということだけで緊張状態の持続を招き、結果的にストレスを与え、やがて睡眠障害につながったり、家族関係の問題に発展したりしかねないとも言われています。

 

そんな経験がある、という方は驚くほど多いのではないでしょうか。特に勤勉で、公を優先させる気風のある日本人の場合、休みであっても自分だけ休めないと感じてしまったり、また業務の煩雑化に比して人員削減が進む実態の下、自分の代わりがいなくて事実上休めなかったりといった環境下に置かれている労働者の実質超過労働は、もはや全ての業種に共通する課題となって久しいものと言えるかと思います。タイトなスケジュールと厳しい予算管理の反面、100%を求め続けられる社会風土の下、「疲弊」の二文字が広く労働者にのしかかったままとなっている様に思われます。

 

もちろんそれだけが理由ではない部分も多分にあります。ただ、それでも、ひと昔前はわざわざ家庭に仕事は持ち込まなければ持ち込まずに済みましたが、今ではポケットにいつも入っているデバイスと一緒に勝手にやってきてしまうようになったのです。

 

それがなければ家族団らんの時間が持てる、という単純なものではもちろんないでしょう。ですが、実際問題として本当の意味での終業時間をなくしてしまうような実態に対しては、そこに何等かの線引きをしようという取り組み―、そこにはやはり何かしら学ぶべきものがあるのではないかと感じます。

 

メリハリが大事であること、分かっているつもりで忘れてしまってはいないでしょうか。古来、弓も普段から張ったままでは、いざ戦という時に結局使い物にならないという教えはありましたが、どんなにデジタル化が進もうと、当事者が人である限り、そこは結局何も変わらないのではないでしょうか。

 

送れば終わり、と思いがちなメールですが、送る前にちょっとだけ考えてみませんか? 相手が今何をしているだろうか? 友人や家族とのんびりしている時間じゃないだろうか? 先方はもしかしたら休業日じゃなかっただろうか? そして何より、これは本当に今直ぐ送らなければならないものなのだろうか、ということを。

 

少しだけ想像力を働かせて、相手のことを考えてみることを、もし本当に多くの人が行っていける社会になれば、きっと多くの家庭で、懐かしいとさえ言えるような、ホッとする時間というものを取り戻していくことができるのではないかと思います。

そしてそんな少しの、けれど本当の「休み時間」がひとりひとりにもたらす心の健康こそが、次の生産性向上につながっていくのであろうと思います。

 

 

 

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