街の風景 変わらないものと変わるもの

街の風景に気を留めてみることはありますか?

 

通勤や通学で毎日通っているところなど、普段全く気にも留めていたつもりのなかったものが、意外なほどに強く心にのこっていたりすることに、久しぶりにその場所を訪れて気づかされる経験は誰しもがもっているものではないでしょうか。

 

あれ、ここにあったベンチの形が変わっている、あ、あの店まだ元気に営業してたんだ、ここによく座って話したよなぁ、看板は違うけれど同じ駐車場、いつもの角を曲がったところにあった自動販売機…などなど、意外と細かなところを覚えているのは、体が覚えているから、なのかもしれません。

 

街の様子は、規模やスピードにそれぞれ違いはあっても、時と共に変わっていきます。毎日のなんでもない景色、長年通いなれたその場所を通るのが今日で最後だな、なんて日に、ふと懐かしく感じてしまうことなんてありませんか? たとえその日にはそう感じなくても、いつかきっとそう感じる日がくると思います。あぁ、もう飽き飽きした、と思うくらいの景色にかぎって、何だかんだ記憶にのこっていくものだと思うのです。デジタル化が進んだ今は、写真も残しやすいですよね。何気ない普段を、そっとのこしておいてみてください。忘れた頃に、忘れられないたくさんのものがそこにつまっていることに気がつくかもしれないですよ。

 

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終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。

大型アーケードゲーム エアホッケーで一汗かいて

ボーリング場や温泉ホテルなど、比較的スペースのある遊技場によく置かれていたエアホッケー。ゲームセンターなどでもまだ少し小型なものを見かけますが、懐かしいと感じる方の方がもう多くなってきている代物ではないでしょうか。

 

その誕生は1972年。アメリカのブランズウィック(Brunswick)社により開発、発売されたものですが、ボーリング場システムでも有名な同社が開発したこともあってか、ボーリング場で見かけたことがある、という方も結構いらっしゃるかもしれません。

 

100円玉を入れるとフゥワーッと風が盤面から吹き出し、風呂上りにちょうど気持ちよかったエアホッケー。あのプレイする時に手で持って、プラスチックの円盤(パック)を打ち合うものはマレットと呼ばれますが、しっかり握って全神経を集中させてプレイすると、結構いい運動になりますよね。それもそのはず、日本では遊技として定着してきましたが、海外ではスポーツジャンルとして確立されているそうです。

 

最近では、介護施設などにも設置され、リハビリの一環としても注目されているそうですが、親子で、兄弟で楽しく遊んだ記憶がそのまま再現されることが、体を動かすことにもまして効果的なのかもしれないですね。

 

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双六の時間とスマホ育児

スマホ育児に関するニュースを最近よく目にしますよね。メリット、デメリット、発育への影響懸念や育児への負担軽減の側面など、賛否両論です。

 

スマートフォンの便利さ、うまく活用することで子どもの教育ツールともなったり、ちょっと手が離せない時に子どもの相手をしてくれたりと、核家族化の影響などから家庭でも人手が足りない傾向のある現代社会において、もはや必要不可欠なデバイスのひとつと言えるでしょうか。

 

スマートフォンに限らず、社会全体のデジタル化の波は、一昔前のアナログアイテムをデジタル化することもまた進めるきっかけとなっているかと思います。居間にボードをひろげて家族や友達で回りを囲んで遊んだ、いわゆる双六タイプのゲームなども、デジタルで遊べるようになったもののひとつかと思います。デジタル化のお陰で、ひとりでも遊べるようになったり、またゲームの進行自体に一定の制御がかけられることで、なんと表現したらよいのでしょうか、カチカチと正確にプレイを進めやすくなった側面もあるかと思います。

 

でも、思い返してみると、昔は大きな子が小さな子にルールを教えながら楽しんだり、アナログゆえの曖昧さが、却ってゲームを円滑に進めるコツを学ぶ機会につながったりと、人と人とが同じゲーム盤を囲みながら、ゲームを通じてゲームそのもの以外のことも教えたり教えられたりがあったと思います。社会勉強といったら大袈裟でしょうか、でも、そんな縮図がそこには実際にあるのだと思います。

 

みんなで車座になってゆっくりとゲームを楽しむ―もしかしたらちょっと贅沢な時間の使い方と思われるかもしれませんが、楽しみながら触れ合いながら学べることって、意外と多いことに驚かされるかもしれませんよ。

 

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冬の海、冬の味覚と地方創生

地方創生政策の後押しもあってか、特に都心部の人にとって、国内各地のよさを再発見させられる、あるいは初めて知るという機会が増えているかと思います。地方のよさといっても様々ありますが、北風のつよい日、温かい冬の味覚はやはりその土地土地の豊かさを感じさせてくれる楽しみのひとつですよね。

 

鍋をみんなで囲んで楽しむ冬の海の幸、冬場の旬の味覚と言えば石狩鍋、あんこう鍋、蟹鍋、ぶりしゃぶ、てっちり、牡蠣鍋、たらちり、それに寄せ鍋やおでんにも冬の具材があふれ、数えきれないほどあるかと思います。

 

特に鮮度に左右されやすい冬の海の味覚は、やはりその土地土地で味わうことにまさるものはないでしょうが、輸送技術の進歩もあって都心部でも鮮度の高い魚介類を堪能することができるようになってきています。

そして、そのような昔から変わらぬ、体も心も温まる食卓の一部は、漁業に携わる人たちによって支えられているものですが、都市部の寒さに悲鳴をあげる人たちから見たら、冬の漁などもう想像もつかないくらい厳しいものだろうと思います。

 

そんな厳しい環境で働く人たちが抱える課題―東京一極集中を是正し、人口減や雇用減に苦しむ地方自治体の活性化を目ざし、日本全体の活力を上げることが目標とされる中、収入や将来性をどう確保していくのかということは、とりわけ一次産業全体での大きな課題となっています。

 

インフラ技術の進歩もまた、物理的な距離の短縮に一役買っています。地方創生政策が進む中で、東京一極集中の必要性をそもそも無くし、国内各地域・地方が、それぞれの特徴を活かして、魅力ある自立持続的な社会をふたたび形づくっていける様にしていくことで、季節毎の旬の味を親から子へと伝え、豊かな食文化をのこし伝えていける社会をも守っていきたいものです。

 

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オフラインになる権利と家族の時間

2017年1月1日に、フランスの労働者が勤務時間外のメールを見なくてもよいということが公式に認められたのは、記憶に新しいところだと思います。

 

これは、2016年5月に同国で成立した労働法改正の中身のひとつですが、いわゆる「オフラインになる権利」と呼ばれ、従業員が50人を超える企業では、会社が従業員の業務メール送受信を禁止する時間帯を明記した行動規範を策定することが義務化されたというものです。

 

携帯電話、メール、そしてそれに連なる通信技術の発達は、確かに緊急連絡を容易にしたり、コミュニケーションの手段を多様化したりという様々な恩恵をもたらしたことは間違いないでしょう。ですが、昔から過ぎたるは及ばざるが如し、と言われる様に、便利すぎる弊害というのもまた、もはや無視できないところに来ていることを改めて考える機会なのかもしれません。

 

勤務時間が終わっても、週末や休みの日でも、休暇でどこかに旅行に行っているときでも、年々電波のつながらないところというのは少なくなってきており、あいにく連絡が取れません、という理由はもはや成立しにくくなってきてしまっています。取引先からのメール、上司からのメールなど、受け取りには正直ちょっと一呼吸置きたいものですよね。休みなくそれらを受け取り続け、例え返信はすぐにしなくてよいと言われていたとしても、そのメールが来ているということだけで緊張状態の持続を招き、結果的にストレスを与え、やがて睡眠障害につながったり、家族関係の問題に発展したりしかねないとも言われています。

 

そんな経験がある、という方は驚くほど多いのではないでしょうか。特に勤勉で、公を優先させる気風のある日本人の場合、休みであっても自分だけ休めないと感じてしまったり、また業務の煩雑化に比して人員削減が進む実態の下、自分の代わりがいなくて事実上休めなかったりといった環境下に置かれている労働者の実質超過労働は、もはや全ての業種に共通する課題となって久しいものと言えるかと思います。タイトなスケジュールと厳しい予算管理の反面、100%を求め続けられる社会風土の下、「疲弊」の二文字が広く労働者にのしかかったままとなっている様に思われます。

 

もちろんそれだけが理由ではない部分も多分にあります。ただ、それでも、ひと昔前はわざわざ家庭に仕事は持ち込まなければ持ち込まずに済みましたが、今ではポケットにいつも入っているデバイスと一緒に勝手にやってきてしまうようになったのです。

 

それがなければ家族団らんの時間が持てる、という単純なものではもちろんないでしょう。ですが、実際問題として本当の意味での終業時間をなくしてしまうような実態に対しては、そこに何等かの線引きをしようという取り組み―、そこにはやはり何かしら学ぶべきものがあるのではないかと感じます。

 

メリハリが大事であること、分かっているつもりで忘れてしまってはいないでしょうか。古来、弓も普段から張ったままでは、いざ戦という時に結局使い物にならないという教えはありましたが、どんなにデジタル化が進もうと、当事者が人である限り、そこは結局何も変わらないのではないでしょうか。

 

送れば終わり、と思いがちなメールですが、送る前にちょっとだけ考えてみませんか? 相手が今何をしているだろうか? 友人や家族とのんびりしている時間じゃないだろうか? 先方はもしかしたら休業日じゃなかっただろうか? そして何より、これは本当に今直ぐ送らなければならないものなのだろうか、ということを。

 

少しだけ想像力を働かせて、相手のことを考えてみることを、もし本当に多くの人が行っていける社会になれば、きっと多くの家庭で、懐かしいとさえ言えるような、ホッとする時間というものを取り戻していくことができるのではないかと思います。

そしてそんな少しの、けれど本当の「休み時間」がひとりひとりにもたらす心の健康こそが、次の生産性向上につながっていくのであろうと思います。

 

 

 

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誰かの補助輪になりたい

何か新しいことに挑戦する時、最初だけ必要なものっていろいろありますが、自転車の補助輪もその代表格ですよね。子どもの頃、あんな縦に車輪がふたつ並んだだけの乗り物に、どうして倒れずに乗ることができるんだろう、と、どうしても子どもの理解できる範囲の力学的なものをベースに考えてしまうので、それは不思議に思ったのを今でも覚えています。そんなわけで初めての自転車にくっついてきた補助輪は、あぁ、これなら横に倒れないなぁ、と、子ども心にも納得して安心できる、とても頼もしい部品でした。

 

ところが慣れてきても、補助輪への依存は自然にはなくなりません。ある程度以上傾くと自然に接地して支えてくれるものですから、段々早くこげるようになってきても、半ば当たり前のように頼ってしまうことでそこが踊り場のようになってしまいます。けれど、次のステージに向かうためには、補助輪を外しての練習をしなければなりません。

 

不安はもちろんです。けれども、それまで補助輪と一緒に走り続けてきた体には、もう次のステージへと進む準備がきっと出来ています。ペダルもはずして前を見て進む練習から始めて、やがて後ろから支えてもらう手を離れ、初めて自分だけの力でこぎ進めた時の達成感は、誰しもが長く持ち続けている記憶のひとつではないでしょうか。

 

補助輪なしで最初から器用に乗りこなしてしまう子ももちろんいますが、人はいろいろな初めてにおいて、最初はどうしてもちょっとした助けが必要な場合が多くあると思います。たとえそれはやがて必要なくなると分かっていても、最初にひとりで進めることを確かめるために必要な、ちょっとしたひと押しは、たった一言の言葉、特別なメッセージのつまった贈り物や手紙、懐かしい写真、あるいは最初だけ一緒に進むことなど、ひとりひとりの初めての数だけあるかもしれません。

 

いろいろな「ちょっとしたひと押し」が人生の様々な場面にあると思いますが、それは全ての人が、全ての人に対してできることなのだと思います。自分に何ができるか、どんなひと押しができるか、ぜひ考えてみてください。それを必要とする人は意外と近くにいるかもしれません。そしてそれは、きっと長く相手の心にのこる記憶となるものだと思います。

 

誰かの補助輪になりたい、そんな風に思う気持ちを大切にしたいと思いました。

 

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デジタル世代の会話と言葉を交わすことの大切さ

社会に出て働くようになり、隣の席の人から、自分が席に座っているのにもかかわらず普通にメールで連絡が来ることに驚いたり、違和感を覚えたりすることがあるのは、個々の差はあるにしても世代間で大きく感覚の違うことのひとつではないでしょうか。

 

デジタル化の促進は、人と人とのコミュニケーションにいろいろなオプションを与えてくれました。日々の遣り取りの中では、確かにいちいち直接話さなくても済むことや、簡単な記録とすることでよいもの、また一斉に伝達だけをすることで効率化できるような内容や、証跡を簡易に残すことが重視されるものも多々あります。しかし、それらはあくまで連絡方法のオプションでしかなく、人と人とのコミュニケーションそのものが単純に変わってしまったということではないと思うのです。

 

もう何年も前ですが、知人に、社員から退職届がメールで来て困ったという話を聞き、その感覚にはさすがに驚いたものです。ただ、おそらく送った当人にしてみればそれほど違和感のあることではなかったのかもしれません。

 

総務省「全国消費実態調査」における30歳未満の単身勤労者世帯の食費内訳の変化からは、特に男性のアルコール離れが指摘されています。飲みニケーションでガス抜きをする、なんてこともまた組織の中では必要なことかとも思いますが、そのあたりは一昔前の方がもしかしたらシンプルであったのかもしれません。何れにしても、メールで退職届を送りつける前に、少なくとも話をしてみようと思える場や雰囲気があれば、違ったのではないかな、とは考えてしまうのです。尤も、趣味趣向の多様化が進む現代、お酒の強要は容易にアルコールハラスメントにつながり、不満のガス抜きどころか、不満を蓄積させてしまうことにもつながってしまいますが、別にお茶でも他の何かでも、何だっていいのです。話しやすい場をつくることの大切さを忘れないように心がけたいものですね。

 

たとえ日々煩雑であっても、いや、煩雑であればあるほど、会って話すことで結果的に早く分かり合えることや、電話一本かけることでメールを何回もやり取りするより話が早く進むということもあります。人との遣り取りの方法に様々な方法が増え、迅速に、確実な遣り取りができるようになってきていますが、人と人との遣り取りであるということ自体は、昔から何も変わってはいないのです。どうやったらしっかりと分かり合えるだろうか、それを心に留めてコミュニケーションの方法を選んでみると、案外物事がスムーズに進むことも多いかもしれません。

ちょっと話そうよ、といつでも言える関係を築くことの大切さを、伝えていければと感じます。

 

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旅の記憶と風の匂い

秋の行楽シーズン、お休みを利用して紅葉狩りや温泉、それに美味しいものを求めて、日常から少し離れたところへと足をのばすことが楽しみな季節真っ盛りですね。

 

日本政府観光局(JNTO)の発表によれば、訪日外国人の数は、今年10月推計値で、これまでで最高であった2015年からさらに16.8%増の213万6千人、しかも今年1月~10月合計地でも初の2,000万人突破とのことで、アジア圏を中心とした対外的要因に加え、海路空路での路線拡大や増便、各種イベント開催や各業界連携しての訪日・インバウンド施策が成果として表れてきているためと考えられています。

 

少し涼しいくらいで過ごしやすく、目で楽しむもの、食べて楽しむもの、体験して楽しむものなど、五感で日本を満喫できる秋は、やはり国内外の旅行客を惹きつけずにはいない様です。

 

とりわけ人気の観光地であれば当然開発も進みますし、久しぶりに訪れてみるとガラリと雰囲気が変わっていて驚いたことがある、なんてよくある話かとも思います。懐かしいお店がなくなってしまっていたり、新しい魅力を発信しているところができていたりと、変わりゆく姿に寂しさと楽しさが混ざり合ったような気持ちになることもしばしばでしょうか。ただ、その土地土地の良さを活かしつつ、少しずつ変わっていくこともまたあるべき姿なのかもしれません。

 

それでも、見た目が変わってしまっていても、その場所に降り立った時に感じる風の匂いというものは、意外といつまでも変わらずにいるものだと感じることがあります。深く呼吸をひとつしてみて、あぁ、また帰ってきたな、と匂いが感じさせてくれる、そんな記憶は、山であれば少しずつ成長を積み重ねる森の木々が、海であれば潮の流れが、私たちひとりひとりに届けてくれるものなのかもしれません。

 

新しい姿を楽しみつつも、変わらない記憶もいつまでも大切にできる様であれば―ただそのように感じられることをひとりひとりが心に留めおくことができれば、やがてそれが次の世代へ受け継いでいく記憶となるのではないかと思います。

 

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歴史をふりかえることと『明治の日』

まだ少し先の話でもありますが、2020年の東京オリンピックよりは2年前、と聞くと、急にすぐ先のことのように感じられることがあります。それは、明治維新より150年―、2018年はそのような節目の年となりますが、特にゆかりの深い国内各地を中心に、様々なイベントが企画される中、「明治の日」の制定求めた国会議員による集会についてのニュースも耳に新しいかと思います。

 

11月3日は現在、文化の日という国民の祝日のひとつですが、これがかつて明治天皇誕生日であったことをご存知の方は、だんだん少なくなってきているのではないでしょうか。

 

時代をさかのぼること凡そ1世紀、1912年(明治45年/大正元年)に公布・施行されたの「休日ニ関スル件」により、日本では今上天皇の誕生日、及び先帝の崩御日をそれぞれ国民の休日とすることが定められましたが、当時、今上天皇誕生日は『天長節』、先帝崩御の日は『先帝祭』と呼ばれていました。今上天皇誕生日を基準とする国民の休日ですので、当然天皇崩御、天皇践祚のタイミングで休日は変わることになりますが、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇崩御ならびに昭和天皇践祚に伴い、同年3月4日に改正された「休日ニ関スル件」により、今上天皇である昭和天皇から数えて先々帝にあたる明治天皇の誕生日が、近代日本の礎を築いた功績を偲ぶという形で『明治節』という休日とされました。

 

 

その後、1948年(昭和23年)に現行の休日法「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が施行、同時に「休日ニ関スル件」が廃止され、天長節は天皇誕生日として今も国民の休日となっているので、学校や会社がお休みとなる方も多く、今日は何でお休みなのかということに思い至りやすいかと思います。ただ、戦後の様々な思惑が絡み合う中、『明治節』は、昭和23年に公布・施行された祝日法によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」であると定義される『文化の日』という形で、現在も国民の祝日としてのこされています。

 

いつの時代も、どんな国でも、大きく変わろうとする時にはさまざまな試行錯誤がなされ、改革とは痛みを伴う前進の努力と言い換えることができるかもしれません。当然うまくいくこともあれば、失敗もまたあります。明治という時代もまた、そのような歴史の大転換期のひとつでありましたが、少なくとも先人たちの近代化に向けた努力の過程で立憲制度を達成したことや、全国一律の教育制度が必要との認識に立ち義務教育が開始されたことなど、今日の私たちの当たり前が、大変な苦労の末につくられた時代であったことに改めて思い致すということには、大切なふりかえりの意味があるのではないかと思うのです。

 

歴史は繰り返す、とよく言われますが、歴史には国の歴史もあれば、個人の歴史もありますし、そこには成功の記録もあれば、失敗の記憶もまたあります。そして人はそこから学ぶことで、成功をより大きなものとできたり、また同じ過ちを犯さずにすんだりすむことが多くあるはずです。時代の移り変わりが激しくなり、その速度が今までとは比較にならない早さであることを日々感じさせられる現代社会ではありますが、それでもそこが人の暮らす世界であることには変わりがなく、そこにはやはり何かしらヒントとなる『歴史の繰り返し』が存在することもまた事実ではないでしょうか。誇れる自分も、本当はあまり伝えたくない自分の姿も含めて、自分の歴史をのこしつたえていくことが、思わぬところで次の世代の役にたつこともきっとあるかと思います。

 

当サイト『のこす記憶.com』では、皆さまに自由にお使いいただける自分史記録機能をご提供しております。くわしくはこちら(自分史のページ)をご覧ください。

 

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『神社仏閣』と『寺社仏閣』 美しい日本語をのこすということ

前回に引き続いて言葉絡みですが、常々気になってしまう日本語の使い方について少し触れてみようかと思います。

 

神社と寺院の両方を含めての呼び方として、『神社仏閣』という言葉が使われますが、『寺社仏閣』という言い方をかなりの頻度で目にしたり、耳にしたりすることがあります。あれ、どっちが正しいの?どちらでも同じじゃない?と思われる方も少なくないのではないでしょうか。実際、書店で販売されている書籍のタイトルにも双方見られることがありますし、テレビ番組内でも双方混在していることがあるくらいですので、おそらく最も疑問符がついてしまう言葉のひとつかと思います。

 

このような場合には、折角、漢字一文字一文字に意味があるのですから、分解して考えてみると案外分かり易いことがあります。『神社仏閣』を改めて分解してみますと、神(かみ)の社(やしろ)と仏(ほとけ)の閣(たかどの)と分けて読むことができます。社は、祠(ほこら)の意でもあり、また閣(たかどの)は、いわゆる立派な御殿を指す言葉ですので、要するに両方とも建物の意味であることがわかります。つまり、神社仏閣とは、神様を祀っている建物と仏様を祀っている建物、と分解して読むことができ、最初の二文字で神道(神社)を、続く二文字で仏教(寺院)を表し、神社及び寺院を総称する際に使われている言葉、と導いて考えることができるかと思います。

 

では、『寺社仏閣』と言った場合にはどうなるのでしょうか。まず頭の二文字『寺社』ですが、歴史に詳しい方はお気付きのように、この二文字だけで既に神社と寺院の両方を表しています。これだけで長い話になってしまいますので、興味を持たれた方はこの機会にぜひいろいろと調べてみていただきたいと思いますが、外来語をカタカナで日本語化してしまう様に、外から入ってきたものを比較的柔軟に自分たちの文化の中に取り込んでいくことに長けていた日本人は、新しい知識、技術と共に大陸よりもたらされた仏教というものを、移り変わる時代の中で、時に統治側の政策的理由なども含む形で柔軟に取り入れてきました。例えば時代によりさらに細分化されていた時期もありますが、宗教行政機関として『寺社奉行』という、寺院と神社全てを管轄する機関が置かれていたことも、その様子を具体的に現している一つの例と言えるでしょうか。

 

そう考えた時に、『寺社仏閣』を分解して考えるとどうなりますでしょうか?寺社仏閣では、寺院、神社、寺院、寺院と言っているのと同じことになってしまいますので、合わせて寺院×3、神社×1のバランスが悪い言葉の組み合わせなのではないかな、と導いて考えることができるかと思います。

 

 

言葉は生き物とよく言われますし、ゆえに姿を少しずつ変えていくことのあるものであることには変わりありません。ただ、言葉には意味というものがあり、それは何故そうであるのか、という本質を示す大切なものです。確かこんな響きの言葉だったよなぁ、という印象だけで伝えるのではなく、言葉をその意味するところも含めて正しく次の世代にのこし伝えていくことができれば、と思います。

 

 

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