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土佐一条氏 ~中村御所の公家大名③~

大永二年(西暦1522年)一条房冬の嫡男として誕生した一条房基。享禄三年(西暦1530年)にわずか齢九つで従五位下に叙爵、そして享禄五年(西暦1532年)には右近衛中将に任官と、まだ幼き頃より官位を進めていったのでございました。中央とのつながりも重んじ、外交に長けた父、房冬の働きかけによるものであったと、想像に難くないことではございますが、その後も位階を進め、天文九年(西暦1540年)には、従三位に叙せられ公卿に列することとなるのでございました。官は既に就いておりました右近衛中将でしたので、一条三位中将となったのでございまする。 
 
翌天文十年(西暦1541年)には阿波権守の官も兼ねることになりますが、その年の霜月(11月)には父、房冬が薨去、房基は若くして土佐一条家の家督を継ぐこととなるのでございました。 
土佐一条家は、初代房家亡き後、わずか二年で二代房冬が世を去り、その結果まだ若い房基が三代目を継いだばかりでは、家中も必ずしも静穏ではなかったかもしれず、また乱れ乱される隙もどうしても目につきやすい時期ではなかったかと考えられます。しかしながら、房基はよく家中をまとめ、土佐東部や南伊予へ兵を進めております。尤も、結果的に一条家の勢力圏を拡げることにつながったとは雖も、降りかかる火の粉を払いのけるためであったり、縁戚関係にある豊後大友家の求めに応じての出兵であったりと、此方から仕掛ける類の戦ではなかったのでございまする。当主が相次いで代わることを余儀なくされた土佐一条家でしたが、これまでに打ってきた布石は功を奏し、房基の動きを扶けることにもつながったのでございます。 
 
よく家中をまとめあげ、兵を動かし、土佐一条家の勢力圏拡大に努めるなど武に優れた観のある房基でしたが、摂関一条家当主であり、叔父にあたる一条房通に一条家秘蔵の有職故実書である『桃華蘂葉』の写本手配を願い、また、初代房家が三条西実隆に書写を願い出て土佐一条家に伝わった『伊勢物語天福本』の奥書に房基の花押があり、親しく触れていたことも伺い知られ、文芸にもまた親しむ、文武に秀でた当主であったことが伺い知れまする。 
 
こうして房基の治世が続き、勢いを増すやに思われた土佐一条家。なれどそれが続くことはなく、天文十八年(西暦1549年)房基は突如として自ら命を絶ったと伝えられております。享年二十八、その真偽のほどは杳として知れず。世は戦乱の時、桜の花見頃を過ぎようという頃でございましょうか、土佐一条家を率いる若き当主が世を去り、混乱の足音が聞こえてくることを否とは言い切れぬ、卯月の土佐中村でございました。 

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 
 
<筆者紹介>  
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。 
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
 
 
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら

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土佐一条氏 ~中村御所の公家大名②~

此度は、土佐一条家のお話の続きでござりまする。 
 
明応七年(西暦1498年)一条房家の嫡男として誕生した房冬は、永正七年(西暦1510年)に元服いたしますと、従五位上・侍従に叙任、その後も官位を進め、大永元年(西暦1521年)には従三位に叙せられて公卿に列したのでございまする。 
 
土佐に在国したままの土佐一条家、代が変われば次第に一条宗家との関係もやはり少しずつ遠いものにはなってしまうもの。一条家が土佐にあって有力であり得たのは、決して単独で大きな武力をもっていたからではなく、京から離れてもなおその家格に見合う高い位を維持し、巧みな政の才をもって国人領主たちの盟主たる立場を築けていたことに起因するところが多くございます。そしてその有力な立場を以て、近隣の大勢力とも結んでいくという、外交政略に依るところ大でございました。
機を見るに敏で、政の才に長けていた房冬は、前関白一条教房の子でありながら、京におらず土佐在国ということ故に官位を進めることに時を要した父、房家の例を慮り、その溝を少しでも埋めるべく、自らは一条宗家、摂関一条家の当主であった一条冬良の猶子となったのでございまする。そしてさらに京とのつながりを深めることとして、房冬が公卿に列せられた大永元年(西暦1521年)には、房冬の正室にと内々定められておりました伏見宮邦高親王の王女・玉姫宮が降嫁のため土佐国に下向するのでございました。これには先代房家の頃からの働きかけが功を奏したであろうことは想像に難くないが、房冬が一条宗家当主たる一条冬良の猶子であったことも事が運ぶ大きな助けとなったのではないかと思われまする。尤も、如何に摂関家猶子とはいえ、名門皇族の姫宮が、京にはおらず、在国の公家へと降嫁するのはさすがに前例のないことと、眉を顰める者も少なからずであった様でございまする。 
 
こうして、土佐一条家は『皇族の姻戚』という地位も手に入れ、ますます強まった中央とのつながりは、周辺大名家をして土佐一条家の存在を再認識させるものともなるのでございました。世は乱世に向かって実なる力が問われる様に移り変わりつつある時、権威だけでは覚束ないところも鑑みねばなりませぬ。大国の後ろ盾を得るべく、房冬は周防の大内義興の娘を側室に迎えるのでございますが、大内家にとっても、摂関家猶子たる房冬との縁組は、中央へのつながりを太くすることにつながり、相互の利害が一致するものでございました。 
 
祖父教房の頃よりつながりのあった堺商人や山科本願寺との関係をより強固なものとすることにも心を砕いた房冬。明国との貿易を通じて利を上げ、堺商人や山科本願寺とのつながりも深かった大内氏とも姻戚関係となり、経済的恩恵も受けられる枠組みの中に土佐一条家を導いていったのでございます。 
 
天文四年(西暦1535年)には、左近衛大将に任じられる房冬。しかしながら、左近衛大将と申さば京の帝が住まう御所の警護を司る近衛府の長、時の後奈良天皇もさすがに土佐在国の房冬を左近衛大将へということは当初肯んじられませんでした。しかし房冬は任官を諦めるどころか、人脈を使い、銭も惜しまず手を尽くして徐々に外堀を埋めていき、任官へといたるのでございました。 
 
世の動きを見定め、つながりを広げる労を惜しまず、決して容易くはない舵取りが求められる時代に土佐一条家の主であった房冬。惜しむらくは父、房家亡き後、わずか二年で病没したと伝えられておりまする。享年四十四歳。天文十年(西暦1541年)霜月のことでございました。 
房冬が病に斃れることなくば、歴史は大きく変わっていたのかもしれませぬ。 

 

 
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 
 
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伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。 
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
 
 
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土佐一条氏 ~中村御所の公家大名①~

一条氏と申さば、藤原氏嫡流たる五摂家、すなわち近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の一家であり、公家の中でも最も高き家格、摂政・関白・太政大臣への昇任が許される限られた名門でございました。 
 
応永三十年(西暦1423年)に生まれ、永享十年(西暦1438年)に元服した一条教房。世は室町幕府六代将軍、足利義教の時代、一条家歴代当主としては初めて足利将軍家からの偏諱を受け教房と名乗ることとなったのでありますが、時の室町の武家政権の勢いのほどが覗える話でございます。 
 
さは言え名門一条家の当主、翌永享十一年(西暦1439年)には正三位・権中納言に叙任され公卿に列し、内大臣、左大臣を経て、長禄二年(西暦1458年)には関白となり、氏長者となるのでございます。 
 
寛正四年(西暦1463年)には関白氏長者を辞しておりましたものの、応仁元年(西暦1467年)応仁の乱となりますと、京にいられるものでもなく、戦火をのがれ、やがて一条家領のございました土佐国幡多荘に下向、四万十川下流の中村の館に移り住むことになるのでございました。尤も、この下向そのものは、京での戦火を逃れた後に、鎌倉期より続く荘園経営の強化のためであったと言われております。そのような背景からこの時、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に共に下向したために、京の文化もまた土佐中村の地に移入することにつながり、彼の地の繁栄の基が築かれたと伝えられております。 
 
教房亡き後、嫡男政房は既に応仁の乱の中で没しており、一条家の家督は年の離れた実弟の冬良が継ぐ一方で、亡き政房の弟、房家は土佐に土着、これが土佐一条氏のはじまりとなったのでございます。 
 
文明七年(西暦1475年)誕生と伝わる、関白・一条教房の次男、一条房家は、教房下向のために土佐で生まれ育ちましてございます。四万十川の河口から上流へ二里半ほど(約10km弱)進んだところに開けた地があり、そこには国人たちとも良好な関係を築くことができた教房が拠点として置いた中村館を中心として繁栄の基礎がつくられ、土佐中村の地で生まれ育った房家は、長じてそのまま土佐中村を拠点として彼の地を繁栄させていく道を選んだのでございました。いわば地方に「在国」しつつも、公家として高い官位は有し、京の一条宗家とのつながりも保ちながら土佐の国人領主たちの盟主といった立場を築き上げていくことに成功したのは、当時の大名家としても稀有な形であり、公家大名などとも呼びならわされる所以かもしれませぬ。 
文化と文明が合い携えて伝わっていくことが常でございました時代、京とのつながりの深さはそのまま新しき様々を土佐中村の地にもたらすことにつながり、中村御所とよばれるようになりました一条氏の拠点を中心として、さながら小京都とでも言えるような発展を遂げていくのでございました。四万十川の流れが作り出す自然の美しさに、京の雅が重ねられた土佐中村の有様は、国人衆にとっても大きな変化を目の当たりにすることとなったに違いありませぬ。 
 
永正十三年(西暦1516年)上洛して、権大納言となった房家は、広範に周りを見渡し婚姻戦略なども通じて権威権勢を巧みに保ちつつ、幕府細川管領家の後退から、土佐七雄と呼ばれる七国人が割拠する状態となっていた土佐国において、それら国人領主の盟主的立場を確立させておりました。遡ること永正五年(西暦1508年)には、七国人同士の争いで、長宗我部兼序(後に四国統一を成し遂げる長宗我部元親の祖父)が同じ七国人の本山氏らに討たれた折、房家はその遺児の千雄丸(後の長宗我部国親)を保護、長宗我部家の再興を助けたとされておりまする。このような国人領主間の争いにも、ただ上からではなき形で介入し、巧みに土佐一条氏の勢力を保つことにつなげられた政の手腕もまた、房家をして国人衆の盟主たり得ることを支えたものであったのかと思われまする。 
 
こうして築かれた土佐一条氏初代、房家の治世は、土佐一条氏最盛期とも言われまするが、次回は二代目となる一条房冬のお話からでございまする。 

 

 
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尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 
 
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伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。 
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
 
 
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佐野昌綱と桐生助綱 ~戦国北関東のある物語②~

此度は続きの話にて、近隣の桐生氏のお話でござりまする。 
 
佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、下野国唐沢山城を本拠として平安の末より栄えた佐野氏についてお話いたしましたが、そこから北西に十二里(約48km)ほどのところにござりました柄杓山城(桐生城)を中心とした上野国の東部、山田郡桐生地方は、代々桐生氏の治める地でござりました。佐野氏と同じく、藤姓足利氏に連なる桐生氏は、佐野氏より分かれ出て、柄杓山城を築き拠点とし南北朝時代より戦国時代にかけて彼の地に勢力を持ったと伝えられております。 
 
既に奈良時代には朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されていることもあり、桐生の地は古くから養蚕業・絹織物業で栄え、後年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣の折、急遽西進して石田三成を討伐することを決するも、軍旗が足りないという事態であった。その際、不足している軍旗を僅かの間に桐生の村々で揃えたことから、桐生の絹はさらに名を高めることになったと伝えられておりまする。 
 
永正九年(西暦1512年)に桐生真綱の子として生まれた桐生助綱は、長じて桐生氏の家督を継ぎ、桐生氏の全盛期を築くこととなるのでございます。天文元年(西暦1531年)には仁田山赤萩地方を桐生氏の勢力下におくことに成功、本拠である柄杓山城の支城とも言える拠点になる仁田山城、またそれと一体となってひとつの山城を形成する赤萩の砦を守りの要衝とするのでございますが、その守りを、無位無官の浪人から取り立てた里見勝広に任せるのでございました。里見勝広は、安房里見氏の一族ながら故あって安房の国を追われ、既に結城合戦にて嫡流は途絶えてはいたものの、仁田山の地に同族である上野里見氏を頼ってこの地に流れてきていたところを、桐生助綱に見いだされた様でございまする。
やがて天文十三年(西暦1544年)には領を接する細川氏、善氏を破り、勢力圏を拡大させ、桐生氏は最盛期を迎えるのでございました。 
 
永禄三年(西暦1560年)の越後上杉勢による関東侵攻においては、北関東の諸家と同じくこれに従い、桐生助綱は関白 近衛前嗣、また上杉憲政の警固を任され、後日京に戻った近衛前嗣から丁重な謝辞を贈られておりまする。しかしながら、その後の武田・北条勢による巻き返しは、本拠から遠く離れた越後勢を徐々に劣勢へと追いやっていくのでございました。永禄九年(西暦1566年)頃には、近隣の新田金山城主・由良成繁の勧めもあり、小田原北条氏(形としては北条氏康の傀儡である古河公方・足利義氏方)に旗を転じることとなるのでございました。 
 
こうして桐生氏の勢力拡大に成功した助綱でございますが、永禄十三年(西暦1570年)に亡くなり、桐生氏は同族である佐野昌綱の子が、養父助綱亡き後の家督を継ぐのでございました。
こうして桐生氏当主となった桐生親綱は、凡そ穏やかとは程遠い勢いで、桐生家古参の家臣たちをあからさまに遠ざけ、実家である佐野氏から後見役として付き従ってきた家臣たちにのみ諸々の仕置きを委ね、さらにはこれまでの法も廃した上で暴政を重ねていったため、将士民心が離れていくのは当然の結果でございました。 
 
桐生氏の行く末を案じた里見勝広らの諫言も聞かぬばかりか、自害に追い込む始末で、全盛期を築き上げた桐生氏はその勢力を弱めていくばかりであったが、当主には何も見えておりませんでした。
元亀三年(西暦1572年)由良氏家臣・藤生善久に柄杓山城を攻められ城は陥落、親綱は這う這うの体で実家の佐野に逃亡し、ここに桐生氏は滅亡してしまうのでございました。 

 

 
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尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
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佐野昌綱と桐生助綱 ~戦国北関東のある物語①~

平安の末より、下野の国を中心に栄えた佐野氏は、平将門を討ったことで名高い藤原秀郷にまでその起こりを溯りまする。秀郷の後裔は下野国足利荘を本拠としたことから足利氏と呼ばれまするが、後に室町幕府将軍家となる源氏足利氏との混同をせぬよう、藤姓足利氏とも呼ばれまする。 
 
後に北関東を中心に多くの有力武家の基となる藤姓足利氏でございますが、中でも下野国の唐沢山城を本拠とした佐野氏は、唐沢山城が延長五年(西暦927年)、下野国押領使となり関東に下向した藤原秀郷により築かれたものと伝えられておりますことから、藤姓足利氏の流れを汲む一族の中でも有力な家であったと考えられておりまする。 唐沢山城は、佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、唐沢山山頂を本丸として一帯に曲輪を配した山城、関東の城には珍しく高い石垣が築かれており、戦国時代には佐野氏第十五代当主・佐野昌綱が活躍した唐沢山城の戦いでも知られるとおり、上杉謙信の十度にもわたる侵攻を度々退け、謙信を悩ませるほどであったと伝えられておりまする。 
 
さて、代々古河公方足利氏に従ってきた佐野氏でござりまするが、永禄二年(西暦1559年)に家督を継いだ昌綱もそれを踏襲、足利晴氏に仕えておりました。戦上手と謳われた佐野昌綱は、戦場での戦のみならず、大勢力に囲まれた境界に位置する地にあって駆け引きにも長じていた様であり、やがて古河公方の力が衰退し小田原北条氏の勢力拡大に合わせて北条氏康と結ぶなどしておりまする。しかしながら、越後の龍、上杉謙信が関東侵攻を始めるやこれに呼応し小田原城攻囲にも参戦するが、関東各地で武田軍・北条軍に相次いで攻められ、永禄四年(西暦1561年)に、それまで武田軍の上野国侵攻を抑えてきた箕輪城主・長野業正が病に斃れると、いよいよ上杉軍は劣勢を強いられていくこととなりまする。佐野氏の唐沢山城は、それに先立つ永禄三年(西暦1560年)北条勢三万に攻められるも、昌綱は徹底抗戦し、上杉勢の援軍が間に合いこれを退けておりまする。ただ、全ての戦線での上杉勢の劣勢を覆すには至らず、小田原城攻囲が失敗に終わりますると、程なくして佐野氏は再び北条方へとつくのでございました。 
 
戦国の世、節を曲げなければならぬ時もまたあり、時には戦で退け、また時には大局を読み味方する側を選びながら、少なくとも唐沢山城が落城することはなく、乱世において強大な勢力に囲まれた地で佐野氏の命脈を保ち続けることこそ、本来果たすべき主の役割であり、それを成し遂げてきた佐野昌綱の胆力と力量とは、語り継がれていくべきものであったということではないでしょうか。家が代々守り続けてきたものを盲目的に通し続けることに必ずしも拘らず、己が真に守るべきは何かを然と見極め断を下すことは、自由であるという側面と守られないという厳しい側面がございますが、時代が大きく動く時には、このような生き方が求められてくるのでしょうか。今の世にもどこかしら通じるものを感ぜずにはいられぬところがございます。 

 
さて次回は、近隣の桐生氏のお話へと続きまする。

 

 
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尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
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史の綴りもの 010 摂家将軍誕生 後鳥羽上皇と九条家の人々 ~朝廷から見た承久の乱~

此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、近衛家と並ぶ五摂家の双璧とされた九条家の起こりとともに、武家がもはや公家の意のままに動く軍事貴族から一段上の存在へと昇ってきた時代における摂関家の姿を見つめてみたいと思いまする。 
 
時は、後に鎌倉時代とよばれることになる時に入りましてからしばらく後、鎌倉に幕府を作り武家政権を樹立した源頼朝が世を去り、三代将軍となった頼朝の次男、源実朝が兄、頼家の忘れ形見である僧・公暁の手で弑され、混乱の中でさて次の鎌倉殿を誰にするかと思惑が入り乱れている時でございます。 
 
京では、後白河院も既に崩御、建仁二年(西暦1202年)には失脚した前の関白九条兼実は出家し、源通親(土御門通親・正二位、追贈 従一位)は薨逝、いよいよ名実共に治天の君として院政を布き、朝政を主導する後鳥羽院でございましたが、鎌倉を本拠とし坂東武士の武力があつまり、その上に統治体制が整いつつあった鎌倉幕府は、どうにか手駒にしたいところでございました。元は源氏に率いられた軍事貴族集団、実の態はさておき源氏は天皇家から別れ出た氏族でありましたが、混乱期にある今の鎌倉を取り仕切るのは執権北条家、朝廷から見れば縁もゆかりもない陪臣にすぎず、面白くないことこの上ありませぬ。 
 
さて、『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけではなく、狩猟を好み武芸にも通じるところのございました後鳥羽院は、白河法皇の御代に形作られたとされる上皇の身辺警衛や御幸に供奉した武士であり、いわば院の直属軍としての性質を持っていた北面武士に加えて、新たに西面武士を設置し、軍事力の増強を図られたのでございました。北面武士と申しますれば、創設期の構成は近習や寵童といった院と個人的な関係の深い者が中心でございましたが、後に源氏平氏といった、それぞれがある程度の武士団を従えております、いわゆる軍事貴族が加わるようになり、名実共に院の直属軍としての性質を帯びたものとなってきたのでございます。平正盛(清盛祖父)、平忠盛(清盛父)、源義朝(頼朝、義経父)等もみな北面武士でございました。新たに設立された西面武士は、主に西日本の有力御家人から成っており、元々は院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め所があった北面武士に対して、院御所の西面に詰め所などがあったことから、このように呼ばれるようになったそうでございます。そして西面武士成立の背景には、やはりこの時期まだ西国に対する幕府の支配力も限られたものであり、未だ成立して間もない幕府と朝廷との、事実上の二元政治体制ゆえの混乱がございましたことは否めない理となりますでしょうか。 
 
そのような中で起こりました承久元年(西暦1219年)一月の源実朝暗殺による源氏将軍断絶は、将軍継嗣問題を可及的速やかに決さねばならないものとして、政を司る人々の上に押し付けることになったのでございます。幕府という力をこのまま北条の手に委ねたくないのは朝廷側としては一致した意思たるものの、では誰を、というところでは思惑は少しずつ異なるものがございました。鎌倉を意のままにするのであれば、然るべき身分の者を将軍として送り込む必要があり、且つまた源氏色が強い者よりも京に近しい者が適任であることは申すまでもありません。この時考えられた皇族将軍の実現は結果として見送られることとなりましたが、折衷案的に採用されたのは、摂関家の者をあらたな将軍として送る、というものでございました。 
 
ここで少し時を遡りまして、この『史の綴りもの ~歴史の木戸口~ 』で以前にも触れました悪左府藤原頼長卿のお話から連なる、摂家将軍を出すこととなる九条家について触れておきたく存じます。 
 
久寿二年(西暦1155年)のこと、元々皇位継承とは無縁であり気楽に暮らしておりました雅人親王(後の後白河天皇)でしたが、皇位を継ぐこととなった子、守仁親王(後の二条天皇)が如何にしても幼少であり、且つまた実父(雅人親王)も存命であるものを、それを飛び越えての即位はさすがに如何なものかとの声も無視できず、守人親王即位までの中継ぎという形で、その父である雅仁親王が立太子もせぬまま即位することとなりましたのでございます。運命の悪戯ともいえるような流れから第七十七代天皇、後白河天皇の御世ははじまりました。尤も、この突如として雅仁親王を擁立する運びとなった裏には、雅仁親王の乳母の夫であった信西の策動があったと言われておりますが、定かなところは知る由もなきことにございまする。しかしながら、ここに権力をめぐり激しき政略戦が繰り広げられ、その中で内覧としての立場も奪われた藤原頼長は失脚に等しい状態とされていたのでございます。 
 
その翌年、保元元年(西暦1156年)二十八年の長きにわたり院政を布いた鳥羽法皇の崩御を機に、それまで薄氷の下を流れていた水が亀裂からほとばしるかの如く事態は動き始めるのでございました。世に言う保元の乱でございます。保元の乱につきましては、他に事細かく述べられているものも多く存じますので、ここで詳述はいたしませぬが、朝廷内の権力争いに平氏源氏の武士が動員され、大きな役割を果たさせたことが武士の政への参画への糸口となり、平氏政権時代への遷移とともに摂関家もかつての権力を維持できなくなり、実に四世紀もの長きに亘りました日の本の支配体制が大きく動いたのでございました。 
 
謀反人の烙印を押され、挙兵せざるを得ない立場に置かれ、その正当性を示すために崇徳上皇を上にいただくも結果敗死することになる頼長。乱後、摂関家の力はすでに往事のものとは程遠いとは申せども、依然朝廷において重きをなす藤原摂関家は、悪左府頼長の兄、藤原忠通の手に戻ってくるのでございました。早世してしまうなど長らく後継となるべき男子に恵まれず、年の離れた弟、頼長を養子としていた忠通でしたが、齢四十を過ぎてから再び男子に恵まれ、四男の基実が後の五摂家である近衛家の祖となり、六男の兼実が同じく五摂家の一家となる九条家の祖となったのでございました。五摂家の一条家、二条家は後に九条家から枝分かれした家であることから、この三家をして九条流とも呼ばれておりまする。 
 
こうして激しい権力争いの時を経て、悪左府藤原頼長の兄、藤原忠通の子から五摂家の基が始まっていくのでございますが、九条家の祖、九条兼実は、保元の乱でその勢力を大きく後退させることとなった摂関家の生き残り方として、故実先例の集積により儀礼政治の執り行いに精通することにより、己の立ち位置を確立せんとしたのでございます。学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として朝廷内で昇進を遂げていく様は、やはり藤原一門らしさともうすべきでございましょうか。後白河法皇に仕え、紆余曲折ありながらも摂政・氏長者を宣下された兼実は、政に精力的に取り組んでいきます。鎌倉との結びつきを強めていったのも、時流を感ずる術に長けていたが故に、と申せますでしょうか。ただ、後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇は、その兼実の厳格な姿勢に不満を抱くところも多く、やがて兼実は失脚してしまうのでございました。しかしながら、兼実の弟、天台宗の僧・慈円が後鳥羽上皇に仕えており、九条家の者が姿を変え、立場を変え、朝廷の中で治天の君の傍に座すという形が保たれていたのでございます。 
 
建久三年(西暦1192年)、三十八歳で天台座主となりました慈円僧正でしたが、後鳥羽上皇の傍にありて、様々政の助言を行うなど、知の力で朝廷を支える立場にありましたが、源氏将軍三代目の実朝が暗殺されたことによる混乱の中で、一時は皇子をとも考えられるも上皇に躊躇の心も見える中、源頼朝の遠縁にもあたることが鎌倉側にとっても受け入れやすいことにつながるとし九条一門の中から、三代当主九条道家の三男にあたる三寅(後の九条頼経)を四代目将軍として送り込むことをなしております。承久の乱を経て、すでに鎌倉に送られていた三寅はやがて元服、ここに朝廷と幕府の思惑に挟まれた摂家将軍の時代がはじまり、そこには九条家のものがいるという形を作る事を成しえたのでございました。尤も、承久の乱を経て鎌倉と京との力関係は大きく変わり、専ら鎌倉の執権北条家にとっての都合のよさで考えられていくことにはなりますが、後鳥羽上皇の挙兵を諫め、今ある形をつつがなく続けられるようにと願ったであろう慈円僧正の心は、しかしながら慈円僧正もまた九条の家に連なる者であることから、手駒選びへの関与とみられてしまうのでございました。 

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 009 将軍の器 ~籤引き将軍 足利義教②~

将軍の器 ~籤引き将軍 足利義教~ 
 

度の歴史の木戸口 史の綴りものは、前回から続きまして、いよいよ室町幕府六代将軍、足利義教の時代へと進みたく存じます。三代将軍足利義満の子にして、兄である四代将軍義持の跡を継ぎ、神籤によって六代将軍となることが決まった足利義教、その将軍としての器はいかに。 
 
後継争いを避けるため、応永十年(西暦1403年)青蓮院に入室し僧籍に身を置くこととなった義教でしたが、程なく青蓮院門跡であった尊道法親王が逝去、義教の長兄にあたる尊満が先に精錬院に入室しており門跡を継ぐはずではあったものの、何らかの理由で青蓮院を追われてしまうのでございます。生母の加賀局の身分が相応でなかったことによるものか、僧籍に入る前からも長男としての扱いは受けられておらず、さりながら青蓮院からこの時期に追われてしまったのが門跡を継ぐことを妨げる意思によるものかどうかは、知り得ぬところでございます。やがて、後の義教は応永十五年(西暦1408年)に得度して門跡となり、義円と名を改めるのでございますが、これは同時に三代将軍義満の後継争いから正式に外れたことを意味するものでございました。 
 
ここで青蓮院について少し触れておきたく存じます。 
主には不要な後継争いを避けるべく皇族や摂関家の子弟が入寺し、取分け皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶が法親王・入道親王として門主となるのが門跡寺院でございますが、伝教大師最澄による開山の青蓮院は、天台宗三門跡に数えられます。比叡山上に最澄が建立した青蓮坊がその起源であり、平安時代も末の頃、久安六年(西暦1150年)に鳥羽上皇と皇后美福門院が青蓮坊第十二代、行玄大僧正に帰依し青蓮坊を祈願所としました。このことにより寺格が上がり始めまして、さらに鳥羽上皇が第七皇子の覚快法親王を行玄の弟子として入寺させ、以降、青蓮院は皇族や摂家の子弟が門主を務める格式を持つ寺院となっていったのでございます。そしてそれに伴い、青蓮坊は院の御所に準じ都に殿舎を造営し、青蓮院と称されることとなったのでございます。ただ、山上には青蓮坊がそのまま残されており、やがて廃絶する室町時代まで寺籍は保たれていたそうでございます。
青蓮院となって後、第二世門主となっていた覚快法親王の薨去後、養和二年(西暦1182年)になりまして紆余曲折を経ながらもその後を継いだのが、歴史書『愚管抄』を記したと伝えられる慈円でした。天台座主として法会や伽藍の整備、また政においては実兄である九条兼実の孫・九条道家の後見人を務め助言を惜しまず、その道家の子・頼経が公家将軍という形で鎌倉に下向することにも期待を寄せ、公武の協調をこそ理想としたと伝えられております。それだけに、後鳥羽上皇の挙兵の動きに対しては反対を唱えましたものの、ついに聞き入れられず、世に言う承久の乱へと時は進んでしまうのでございました。 
『徒然草』によれば、何らか一芸ある者であれば身分に関わりなく召しかかえてかわいがったとあり、その真摯で芯が強く、時の流れの中で生み出されたあるがままを受け入れ融和させていこうという心の広さが伺い知れますが、後に浄土真宗の宗祖となる親鸞も、慈円に教えを授けされたひとりであり、治承五年(西暦1181年)9歳の折、慈円について得度を受けております。 
 

そのように格式ある青蓮院に入室し義円と名を改めた後の六代様足利義教でしたが、応永二十六年(西暦1419年)11月には第百五十三代天台座主ともなり、「天台開闢以来の逸材」とまで呼ばれるほどの才を示したと伝わっておりまする。しかしながらその義円が次の将軍に選ばれたのはその才ゆえではなく、神籤によるものでございました。申すまでもなく人知の及ばぬ存在が義円を選んだ、という考えが成立する傍らで、この時代でさえ、やはり籤による選び方というのは異例であり、人々の心の底には、どこかで『くじ引きで偶然選ばれた』という思いが横たわっていたのもまた否とは言い切れぬものであったのかもしれませぬ。そしてそれは、当の義円、足利義教自身の心の中にもまた同じく横たわっていたものと言い得るものではなかったのでございましょうか。 
 
いずれにいたしましても、兎にも角にも次の将軍が定まったのでございますので幕府重臣たちとしては、将軍不在という権力の空白期間を一日でも短くすべく働きかけを急ぎますものの、元服前に出家していた義円は、俗人としてはいまだ子供という扱いになってしまい、無位無官のままでございました。尚且つ、法体である身の者が還俗し将軍となった先例もなかったことから武家伝奏の万里小路時房は強く反対し、まず義円の髪が伸び、元服できるようになるまで待ち、その上で次第次第に昇任させてゆくべきであるとした。公卿の多くも同意であり、武家の力が強大なものとなってまいりましたこの時代ではありながら、幕府と雖もそれを跳ねのけて無理を通すほどの力はまだなく、二月ほどが過ぎ、漸く義円は還俗、名を義宣と改め従五位下左馬頭に叙任されたのでございまする。そして正長二年(西暦1429年)には、義教と名を改め参議近衛中将に昇った上、ついに征夷大将軍となるのでございました。改名は「義宣」(よしのぶ)が「世忍ぶ」に通じるという俗難を不快に思ったためだそうでございますが、それではと公家が協議の上で新たな名として「義敏」となすことを決めておりましたものの、「敏」よりも「教」の方が優れていてよい、と摂政・二条持基を通じてこれを正させるなど、六代将軍、意思の非常に強いところがすでに垣間見えるのでございます。 
 
こうして六代将軍、足利義教の治世が始まったのでございますが、その目指すところは、未だ盤石とは言い得ぬ幕府権威、そして幕府そのものの力を三代義満の治世を手本としつつ取り戻し、高めていくこと、そしてそれを将軍親政という形で成し遂げていくことにあった様でございます。 
 
かつて天台座主となり「「天台開闢以来の逸材」とまで呼ばれるほどの才を持ち、体に流れる血は足利家と幕府の力を高め南北朝合一を成し遂げた三代将軍義満を父とするもの、そして自らの力で幕府の力を高めていくことを志す者が、名実共に室町殿となったのでございます。将軍親政を目指す政の手始めとして、義教は諸々の決定を将軍主宰で行われる御前沙汰にて行う、また管領を通して行われてきた諸大名への諮問を将軍直接諮問とするなど、幕府管領の権限抑制策を打ち出していきました。また、体制として有力守護に実質依存していた軍事政策を改め、将軍直轄の奉公衆を強化再編し、幕府直轄軍事力の強化を進めていこうといたしました。
寺社勢力に対し積極介入を繰り返したことも知られ、取分け自身が天台座主であったことから、還俗後すぐ弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図るも、延暦寺の弾劾訴訟からはじまる争いはやがて泥沼化の様相を呈し、義教の苛烈な対処は、事態を収束とは逆へと向かわせてしまうことしばしばでございました。また幕府を支える斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏、今川氏など有力守護大名家に対して将軍の支配力を強めるべく家督継承に強く干渉するようになり、意に反した守護大名、一色義貫や土岐持頼は大和出陣中に誅殺されるほどでありました。そして誅殺された彼らの所領は義教の近習に与えられるなど、苛烈で強硬な政策を推し進めることは、結果守護大名たちに大きな不安を与えることにつながったのでございます。また、義教の苛烈さは些細なことにおいてもあらわれ、繰り返される厳しい処断は義教の治世を万人恐怖と言わしめるものとなってしまったのでございます。 
 
そのようなことから畏怖された、と申しますよりは恐れられた六代様と申した方が当を得ていると思われる将軍義教でしたが、幕府最長老格ともなっていた四職の一家である赤松家当主、赤松満祐は将軍親政を進める義教に疎まれる様になっており、永享九年(西暦1437年)頃には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れておりましたが、永享十二年(西暦1440年)、義教は赤松満祐の弟・赤松義雅の所領を没収の後、その一部を義教自身が重用する赤松氏分家の赤松貞村に与えたのでございます。 
 
嘉吉元年(西暦1441年)六月二十四日、満祐の子の赤松教康は、関東の結城合戦での祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称し西洞院二条にある邸へ将軍義教の「御成」を招請したのでございます。将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う御成は重要な政治儀式であり、義教は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村と、いずれも義教の介入により家督相続を成しえた、いわば義教子飼いの大名衆でございました。 
 
赤松邸にて猿楽を観賞していた折、突如屋敷に馬が放たれ門が一斉に閉じられた音がしたのでございます。異変を感じた義教は「何事であるか」と叫ぶも、傍らに座していた正親町三条実雅が「雷鳴でありましょう」と答えたと伝えられております。したがその直後、周りの障子が一斉に開け放たれ、甲冑姿の武者たちが宴の座敷に乱入、義教は赤松家随一の武勇を誇る安積行秀に討ち取られてしまうのでございました。 
 
不安定であった幕府権力を強め、中央集権化を図ろうとした将軍義教の政そのものは、国としては理に適ったものであったかと思われまする。幕府財政強化のため明との貿易も再開させた義教には、海の向こうすら見据えていたのかもしれず、義教の頭の中には、こうあるべき、という絵が描かれていたのかもしれませぬ。ただ、それでは六代様からそれを伝える声は発せられていたのでしょうか。義教が子飼いとした大名衆は何かそのような声を聞いていたのでしょうか。今となっては知る由もございませんが、少なくともそのような義教の声は、届いていなかったか、もしくは発せられてすらいなかったのかもしれませぬ。苛烈さだけが伝わり、その先に目指すものについて伝える声なくしては、人は怖れ、離れ、やがては己が身を守るため反旗すら翻すもの。 
 
義教亡き後、室町幕府は義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決するも、幼少の義勝には幕府重臣の支えが欠かせず、且つ義勝が在任わずか八ヶ月、齢十の若さで亡くなると、弟の足利 義政へと将軍の座は継承されていくも、二代続けて幼少の将軍が続いたことにより幕府の政は再び有力守護大名により進められる形へと戻り、これ以降室町幕府において将軍が将軍たる権力を持つことはなく戦国期にその終焉を迎えてしまうのでございました。 
 
聡明であった義教が、もし人との和を重んじ、その声を己の目指すもの、描く国の姿を伝えることができていたとしたら、室町幕府の体制は大きく変わり、歴史に刻まれている戦乱の世を迎えることはなかったのかもしれませぬ。ひとりで成し遂げられることには限りがあります。それを知り、思いを伝える声を持ちえて初めて、成せることがあるのは、今も昔もあまり違いはしないのではないかと、六代様の政を振り返り、感ずるものでございます。 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 008 将軍の器 ~籤引き将軍 足利義教①~

将軍の器 ~籤引き将軍 足利義教~ 
 

此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、室町幕府六代将軍、足利義教公のお話につなげつつ、少し時代を遡りまして、そもそも将軍の器とは何ぞや、ということにふれるお話でございます。 
 
さて、六代様と敬われ、いや寧ろ恐れられたと申しました方がより真に近しいかもしれぬ室町幕府第六代将軍、足利義教。何故籤引き将軍などと呼ばれるのか、と言えば、それは後継を定めぬまま死去した四代将軍、足利義持の意向を受けた幕府重臣が協議を重ねた末、将軍を義持の四人の弟たちの内から籤で選ぶこととしたことによるものでございます。 

ところで、何ゆえ四代将軍義持の没後、選ばれたのが六代将軍かと申しますれば、若くして五代将軍の座を義持より引き継ぐこととなりました足利義量が世継ぎをのこさぬまま早世し、義持は義量の他に男子に恵まれなかったため、前将軍である義持がふたたび幕政を執る事態がつづいていたためでございます。 
 
義量に将軍職を譲った後も幕政の実権は義持を中心に、義持と有力守護が握ったままであったこともあり、幸いにも政が大きく滞るようなことはございませんでした。歴史が示すように、後代までふくめて実に二十八年間、室町幕府歴代の中で最も長く将軍であった義持でしたが、その義持にも病に斃れる日が訪れます。応永三十五年(西暦1428年)湯殿で、尻にできた腫れ物を掻き破った義持は発熱し、尻の雑熱(腫れ物)が痛み座ることもできぬほどとなってしまいました。僅か数日の間に尻の雑熱はさらに腫れあがり、やがては傷口が腐りだしたと伝えられております。
そしていよいよ義持が重篤な状態となり、慌てた幕府重臣(管領 畠山満家および、斯波義淳、細川持元、畠山満慶ら)は、醍醐寺の僧 満済の下に集まり、義持の後を誰が継ぐのかについて協議をするのでございました。その上で、満済が義持に後継の意向を問うも、自ら後継者を定めることを否としたのでございます。さりながら天下の重大事、重ねて問うた満済に義持が伝えたことは、重臣たちでこれを決すべしということでございました。それをうけて重臣たちは血筋から義持の後を継ぐことができる人物の名を挙げ、評議を行います。さて、義持の父、三代将軍足利義満と申さば、皆さまご存知のテレビアニメ『一休さん』に登場する将軍さまとしてもお馴染み、治世の後半には鹿苑寺金閣で政を執りおこなった室町幕府将軍でございましたが、室町幕府成立の流れより我が国が抱えた大なる懸念でございました南北朝問題に合一を果たすことで終止符を打ち、そして有力守護の力もおさえることで幕府権力を確立させる偉業を成し遂げた、まさに大器の将軍でございました。そして事ここに及んでは、幸いなことに子宝にも恵まれた義満、この時、義持には僧籍にある四人の弟がおりました。後継を選ぶ方法として義持の承諾も得た上で、神籤により選ばれたのは、青蓮院門跡であった義円、還俗し足利義宣となった、後の足利義教でございました。 
 
ここで少し時を遡りまして、武家政権(武家独自政権)の始まりを思い起こしてみたく存じまする。幕府という形で、京の朝廷にやがて成り代わるほどの支配体制の基を創り出しましたのは、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝でございました。その血筋は源氏二十一流の内、清和天皇から分かれた氏族が清和源氏でございますが、中でも第六皇子である貞純親王の子・経基王(臣籍降下し源経基)の子孫が軍事貴族化し、摂関家に仕えて勢力を拡大、その流れを汲み主流となる河内源氏が東国の武士団を支配下におくことで台頭した一族に辿りつきます。平治の乱以前は、まだ幼ささえのこる頃、東国に下向しそこで育った源義朝(頼朝、義経らの父)が、主要武士団をまとめ、時には在地豪族の争いに介入し、また時には在地豪族の娘を娶るなどしながら二十代の早いころには広く東国武士団を支配下におさめることに成功し、その力は中央で凋落の憂き目にあっていた源氏の力を盛り変えず基となり、且つ東国は義朝の存在が重しともなりまして平穏さの中にございました。さりながらやがて西国に基盤の中心を持つ平氏政権の世となり、院政の下で武士集団が、もはや欠くことのできないものとなった軍事警察権を軸として政権に参画していきます中で、これも無視しえない新興の力となっておりました地方武士団を政権の力としては取り込めないまま、東国武士団も複合的支配体制下におかれ、乱れていったのでございました。ただ必死に己の領地を守ることに力を尽くす数多の東国武士団、無論武士団にも領地の大小はございましたし、それはそのまま領主としての力の大小でございましたが、己が目で見ることのできる限り、とでも申しましょうか、あくまで何らそれを超えるまでのものではございませんでした。日々土にまみれ、時に守るべきものを守るために武力を使う、そんな土地に根差すつわものたちを、武家の棟梁という名目をもって、ひとつところに向かわせるだけの何が頼朝にあったのでございましょうか。頼朝が誰よりも豪傑であったのか、否。頼朝の血筋にそこまでの無理を武士たちにさせるまでのものがあったのか、否。頼朝が大規模な私兵や財力を持っていたのか、申すまでもなく否。それでは何か武士たち自身が待ち望んでいたものをもたらしたのか、これもある境を過ぎたところでは否、と言わざるを得ないかと思います。彼らは先祖伝来の土地を守り、そこで己の暮らしを守り続けていけることが望みであり、遙か彼方のその目に見えもしない何かまでを求めていたわけではなかったのであろうと思われるのでございます。 
 
さりながら、日の本をその眼下に捉えるとしたならば、そこに力を及ぼすにはより大きな力が必要となりますし、たとえ目には見えぬところであれども、馬ですぐには行けずのところであっても、そこにも手をさし伸ばせるようでなければなりません。これは決して武家の棟梁に限られたことではありませぬが、広く世を見る目、成し遂げんとする固き決意と強き意思、そして、そのために周りを巻き込む声があって、初めて全国を治めるということが成し得るのでございましょうか。戦においては武に長じた者を、政においては仕組みを作り上げられる者を、そして裏方として仕組みの中で国を支え動かすことに長けた者たちを、上に立つ者として広く見たままに、強く思う意思のままに動かせる声なくしては、成り立たぬものではないかと思われます。頼朝は時にわがままなくらいであったとも伝わりますが、それはおそらく多くの者たちがまだ見ぬものを創らんとする中での強き意思が、時にそのように噴き出ためかもしれません。力でただ押し付けられているだけの者たちは、やがてその力が弱まれば跳ねのけようとするでしょう。過去の恩義を感じることはあっても、それにいつまでも応え続ける者は多くはないかと思われます。利害の合致で合力したものたちは、利害の合致がなくなれば去ってゆくでしょう。ただ、例え強く押し付けられた力であったとしても、その重石となるであろう声に幾許かの得心がゆく何かがあれば、武士たちをして目指す一つところに向かわせることができるのかもしれませぬ。 
 
時は下り室町幕府三代、足利義満は如何な様でございましたでしょうか。非常に刻限に厳しいところのあった義満は、遅れた者を厳しく罰することしばしばであったとか。また、己や周り者たちの装束にも口うるさく、厳格な様子が伺われるところがございます。しかしながら、政においては、同じことでも相手の力の大小で敢えて処罰を分け、強き者に配慮をするといった独特の匙加減を見せるところもあれば、女人に関しては、他者の妻妾と通じることも頻繁であるなど、およそ厳格さとは程遠い側面もまた併せ持っていた様でございます。将軍といえば聖人君子とは言い難いところも元来あるものと思われまするが、引き締めるべきは引き締め、手綱をほどよく緩ませるところもありながら、周りが折り合いをつけていかざるをえないような中に巻き込み、義満が遠く見る大事を進めていくことのできる声を持っていたのではないかと思うのでございます。 
 
次いで二十八年の長きにわたり室町幕府将軍であった義持は、四代将軍として、整いつつある仕組みの中で物事を円滑に進めていくことが求められ、そのためか温厚な将軍であったと思われている節もあるようでございますが、伝わるところによれば、癇癪持ちなところがあり、鎌倉府との対立に連なる諸々の中でも、管領からの報告を聞くやいなや激怒する場面も見せておりまする。最期の後継選定のことを除けば、寧ろ強い意思で事にあたっていたのではないかと覗い知れるところがございますが、文化人であり、また医療への深い関心も持ち、幕政を安定させ、世を豊かにするために強い意思をもって人々を導いていた様子が伺われまする。 
示された道があり、やるべきことが定められていれば、人はそれに従う質もたしかにもちあわせているでしょう。それは、ある種楽な生き方でもあるからでございます。されど、唯々諾々とそれに従うだけではない者たちもいれば、歩みが遅れてくる者たちもいることでございましょう。それもまた人の性、そしてそれらを動かし続けることは並大抵の意思で続けられることではなく、そのために届かせる声には、強さや厳しさとともに、何らか得心させるものが重ねられておらねば、示された道の途上で、人は上に立つ者の意には則さない方へと向かい始めてしまうものなのかもしれませぬ。歴史を紐解くに、そのような例えは数知れず、でございます。 
 
義持が亡くなると、籤引き将軍の時代へと突入いたしますが、さて六代様の政とは如何なるものであったのでございましょうか。次の回にてお伝えいたしたくぞんじます。 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 007 尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 

婆沙羅大名・佐々木道誉 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで三回に亘り、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏について、そして尼子氏が室町幕府四職家の一家に数えられる、宇多源氏近江佐々木氏の流れを汲む京極氏の一族であることお話してまいりました。 
 
平安後期には、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地としてすでに軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏、頼朝挙兵直後から四兄弟が駆け付け、鎌倉幕府創設の功臣でもございました。やがて鎌倉に武家政権が形作られていく中、事の成行きとしてその形がよく頼朝を支え、輪の如く回ることはなかったものの、一時は源氏一族たる「門葉」に対し、清和源氏の棟梁としての確固たる優位性を示す傍らで、彼らをまた将軍家の藩屏として遇することもしてまいりました頼朝でしたが、それとは裏腹に鎌倉殿として、征夷大将軍としてその権力基盤を固める中で多くの同族や兄弟を滅ぼすこととなり、結果頼朝直系が潰えてしまいました後には源氏一族の柱石たる人物ものこっておらず、幕府は頼朝の遠縁にあたる九条家から公家将軍を傀儡に迎え、その実権は執権として北条得宗家が掌握、佐々木氏もまたその幕府体制を支える御家人として仕える身となるのでございました。
尤も、御家人の中にも下野国足利荘を領した、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国が次男、源義康を祖とする足利氏が、源氏嫡流に近い御家人として在り、足利宗家二代当主である足利 義兼は、頼朝挙兵より従い、おそらくはその一族ではあっても遠からず近すぎずの距離感もあってのことでございましょうか、頼朝にも重んじられ、北条家とも縁を結ぶなどして、幕府御家人の中でも足利家は厚く遇される家として続いていくのでございました。しかしながら北条得宗家としても、源氏嫡流将軍断絶の後、戦においては源氏門葉として軍勢を率い、幕府に奉仕する家柄であり、幕府有力御家人にして源氏の有力な一流とみなされる足利氏を、警戒もしまた頼みともし、縁戚関係を続け官位昇進などで得宗家に次ぎ厚く遇する傍ら、造営事業などでは多くの負担を強いるなど、手綱を握らんと苦慮する様子もうかがえまする。 
 
時は流れ永仁四年(西暦1296年)、佐々木氏の分家である京極の家に、後の室町幕府の立役者とまで語られるようになる京極高氏(佐々木高氏)が誕生いたしまする。佐々木高氏は当初、執権・北条高時に仕え、高時が正中三年(西暦1326年)、病のため24歳の若さで執権職を辞して出家すると、高氏も共に出家し導誉と号したのでございます。同じく鎌倉幕府に使える御家人であった足利尊氏とは、後に尊氏が後醍醐帝の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受けるまで、名が同じ『高氏』同士、各々執権北条高時より偏諱を受けてのことではあるものの、何かしら気の通ずるものがあったとも伝えられております。 
 
 
さて、時は鎌倉時代も末、幕府の大きな力は京の朝廷にも大きく力を及ぼすようになりまして久しく、それはひとえに武力という力にのみ依存したものではなく、日の本全てを統治するほどの政の仕組みが京の朝廷より離れたところにも作り上げられ、人のいとなみに枠をかたちづくり、支えてきた所以でございました。政の中枢は、紆余曲折ありながらも大きくは平安期に藤原氏による摂関政治から、やがて上皇による院政という形に移ってまいりました。その後、平氏政権の時代を迎え、これまで地下人とよばれ、頭を抑えつけられてきた武家が力を持ち、初期武家政権を形作りはじめましたものの、こと政においては朝廷の政の中で一族の力を伸ばしていくというものであり、さながら武家が摂関政治の主役に成り代わらんとする様なところもございました。 
 
それが、稀代の政治家、源頼朝により幕府というものがはじめて京から遠く離れた鎌倉の地につくられ、頼朝亡きあと、承久の乱を経て幕府は朝廷に対しても大きく影響力をおよぼすまでになりましてございます。後鳥羽上皇による院政もこの時事実上崩れ去り、幕府は以後、皇位継承もその意向に従わせていくほどの力を持つことになりましてございます。 
 
しかしながら、院政そのものは承久の乱の後も続き、公家政権の中枢として機能しつづけ、脈々と受け継がれていったのでございます。ただ、後に、たとえその院政が実質幕府統制下にあったものとは言え、治天の君を定めぬまま文永九年(西暦1272年)後嵯峨上皇(後嵯峨法皇)が崩御したことは、その後鎌倉期を通じて後嵯峨帝の第三皇子、後深草天皇の子孫である持明院統と、第四皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで両統迭立がおこなわれるきっかけとなってしまいました。 
 
時は下りまして文保二年(西暦1318年)践祚した後醍醐天皇は、大覚寺統の天皇でしたが、この両統迭立のために自らの実子たる皇子に譲位することができず、故に譲位して上皇として院政を行うこともまかりならない状況にございました。そのすべてを打破し、政をふたたび自らが中心となる朝廷でおこなうために討幕を志す帝は、二度の挙兵を経て討幕を果たすのでございました。幕府御家人に厭戦の機運も高まり始める中、その流れを大きく変えたのは、後醍醐天皇の綸旨を受け足利尊氏が討幕側に加わったことであり、佐々木道誉もまたこの動きに従い、後醍醐天皇方として幕府側と戦うのでございました。しかし、討幕を果たしたのも束の間、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏と共に戦い、足利政権の確立、室町幕府の設立に力を尽くしていくのでございました。室町幕府において若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護職、そして財政と領地に関する訴訟を掌る政所の執事を務め、さらには公家との交渉事も新たに誕生した室町幕府方として広く引き受けておりました道誉は、軍事貴族化し栄えてきた一族であると同時に、類まれなる政の才にも恵まれた人でございました。 
 
佐々木道誉について事細かに書かれたものは多く存在いたしますので、ここで事細かに書き記すことはいたしませぬが、ただその人となりを伝えるものとして欠かすことのできないものといいますれば、南北朝時代から室町時代初期にかけて見られました、権威を嘲笑し、奢侈で派手な振る舞いをすることや、粋で華美な服装を好む美意識、それら思想や文化的流行、社会風潮をあらわした『ばさら』という言葉が挙げられますでしょうか。語源は、梵語(サンスクリット語)で「vajra (伐折羅、バジャラ)= 金剛石(ダイヤモンド)」を意味すると伝えられ、何かしら頑なに固まってしまった伝統といったようなものを、金剛石のような硬さで砕き割るというような思いがこめられたものとも言われているようでございます。そのばさらを地で行くような生き方をした佐々木道誉は、婆沙羅大名と呼ばれ、奇抜で派手な装いは、後の『傾奇者』につながったとも言われておりまする。連歌・田楽・猿楽・茶道・香道・立花などに通じ、文化人としての顔も持ちあわせる道誉をして公家とのつながりもよく保つことができたのではないでしょうか。 
 
尊氏亡き後、二代将軍義詮時代の政権において政所執事を務め、幕府内における守護大名の抗争を調停するなど、文字どおり様々な場面で足利政権の立役者でございました佐々木道誉、隠居の後、文中二年/応安六年(西暦1373年)、甲良荘勝楽寺にてその生涯を終えましてございます。 
 
佐々木道誉が室町幕府創成期にこのように軍事、政治のあらゆるところで広く関わったことは、まぎれもなく近江源氏佐々木氏の力を盛り立てることにつながり、京極家が佐々木宗家六角氏をも凌ぐ力を幕府内で手に入れる結果を生むこととなったのでございました。 
 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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史の綴りもの 006 尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 

尼子氏への流れ・京極氏、婆沙羅大名佐々木道誉まで 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、今回は、尼子氏の歴史をすこしさかのぼりまする。 
 
 
歴史の木戸口 史の綴りもの、これまで二回に亘りまして、戦国時代半ばに一時は山陰山陽十一か国の内、八か国の守護となり、中国地方に並びなき勢力を誇るまでに至った尼子(あまご)氏についてお話してまいりました。それでは、そもそも尼子氏はどこから来たものか、室町幕府中枢から見た時に、どのような一族であったのか、について少しお話できればと思いまする。 
 
尼子氏の主家が京極氏であり、その領地のひとつである出雲の守護代を勤めていた家柄であることには触れましたが、尼子氏もまた京極氏の一門であり、京極家と申さば、室町幕府にあって四職(ししき)の家に数えられる名門でござりました。足利将軍家を頂点とする室町幕府においては、三管四職と呼ばれる七家が重要な役割を担っておりました。三管とはすなわち幕政において将軍を補佐し幕政を統括する幕府管領職に就くことのできる三家のことで、斯波家、細川家、畠山家の三家の何れかからのみ、その必要がある時に任じられた役目でござりました。将軍親政でない場合には、文字通り将軍に成り代わって幕政を執り行う強大な権力を持ちうるものでありますゆえ、限られたものにのみ許された立場でござりました。そして幕府においてその次に大きな力と申しても過言ではないのが、幕府の軍事警察権を司る侍所でありました。そしてその長、侍所頭人(所司)に任じられる資格を有していたのが、京極家、山名家、赤松家、一色家の四家でござりました。誠に余談ながら、筆者が学生の折、日本史の教諭より、四職家の覚え方として紅葉の時期の京を思い浮かべ『京の山は赤一色』と覚えればよいと教わった記憶がございます。そのように室町幕府にあっては中心的な立場を占める名門京極氏の一門ではありましたが、近江源氏の流れを汲む京極氏の西国の領地、出雲の守護代であった尼子氏、主家から見ればあくまで地方領地の経営を任されただけであり、決して恵まれた立場から始まったわけではなかったことは、先に触れました通りでございます。ただ、主家の勢いが衰えてきますと、あとは他にとられるか、内からとられるか、でございますが、内から取って代わられる下克上が尼子氏台頭のお話でござりました。 
 
では、そもそも京極氏は何故幕府においてそのような力を持ちえたのでござりましょうか。時をすこし行き来しつつ遡りながらお伝えできればと思いまする。 
 
京極氏は近江源氏の流れを汲む一族で、基は第五十九代宇多天皇の皇子らの臣籍降下によりまする宇多源氏であり、その中で武家としての頭角を現し、近江国蒲生郡佐々木荘を本貫地として軍事貴族化し栄えてきた近江源氏佐々木氏にまでたどりつきまする。 
平安後期、すでに有力武士に数えられる勢力を保持していたと思われる佐々木秀義は、河内源氏棟梁たる源為義(八幡太郎源義家の孫であり、源頼朝の祖父)の娘を妻とし、保元元年(西暦1156年)崇徳上皇と後白河天皇とが争うにいたりました保元の乱においては源義朝(源頼朝の父)に従い後白河天皇方として戦に臨み勝を収めるも、続く平治元年(西暦1159年)に起こりました平治の乱では、おなじく義朝方として共に戦うも敗れ、東国へと落ち延びていくこととなるのでございました。 
 
時は流れ平清盛率いる平氏政権の世、治承四年(西暦1180年)伊豆国に配流の身となっていた義朝の遺児、頼朝の挙兵に際し、相模国の平家方である大庭景親らによる頼朝討伐の動きを知り得た秀義は、子の定綱を走らせ頼朝に危急を知らせるとともに、定綱、経高、盛綱、高綱ら息子たちに頼朝挙兵を扶けさせ、佐々木四兄弟は源平の戦において軍事貴族としての力を示し、後に西国を中心に御家人として大きく勢力を伸ばしていくことになるのでございました。佐々木秀義もまた元暦元年(西暦1184年)の三日平氏の乱にて、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、伊賀・伊勢の平家方残党と戦い、実に九十余人を討ち取るも、自らも討死を遂げたと伝えられております。享年七十三歳、まさに老いて尚盛んな武門の人であったのでございましょう。 
 
そうして鎌倉期に勢力を拡大させていきました佐々木氏は、承久の乱においては官軍と鎌倉幕府軍とに別れて争うこととなってしまいますものの、幕府軍にあって宇治川の戦での戦功大でありました佐々木 信綱は、本貫地のある近江国でさらに複数の地頭職を得るのでございました。近江国領は後に信綱の四人の息子に分割して与えられ、その子孫が大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となっていったのでございます。この内、室町時代から戦国時代にかけてまで名を残していくのは京極家と六角家と申してよいかと存じますが、京極家は、北近江にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡、そして京の京極高辻館を受け継いだ信綱の四男の佐々木氏信の一族がやがて京極氏と呼ばれるように、そして、近江領の多く南近江一帯を受け継ぎ支配していた信綱の三男、佐々木泰綱が、京・六角東洞院に屋敷があったことから、やがて六角氏を名乗る様になったと伝えられております。佐々木宗家は六角氏がそれにあたりますが、では何故室町時代に入り、宗家である六角家をしのぎ、別家である京極家が幕府四職家に数えられるほどの地位を築き得たのでござりましょうか。
そこには、京極家に生を受け、後の室町幕府初代将軍、足利尊氏と共に時代を生き、盟友として共に戦い、あらたな政の基礎を築き上げ、足利政権の立役者とも言われる佐々木道誉(佐々木高氏)の存在なくしては語り得ないものがございます。 
婆沙羅大名と呼ばれ、その華美で奇抜な行動でも知られる佐々木道誉のお話、次の回にてお伝えいたしたくぞんじます。 
 

 
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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