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史の綴りもの 001 水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま

水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま 
 
 
皆さまご存知の人気時代劇『水戸黄門』。越後のちりめん問屋のご隠居という世を忍ぶ仮の姿で日の本全国を旅してまわり、各地で権力を傘に悪事を働き、民百姓を苦しめる悪党を見つけては厳しく仕置きするのは、徳川御三家の一家、水戸徳川家(但し当初は水戸松平家で、駿河徳川家断絶後に徳川を賜姓される。)常陸水戸藩の第二代藩主、徳川光圀(水戸光圀)でございました。 
どこからともなく現れて、いままで甘い汁を吸い放題だったところに賢しげに説教する旅の一行。悪事を働く者たちにとって、それはさぞかし不愉快不機嫌極まりないものに違いありません。せっかく悪事で潤い築き上げた今の立場を手放そうとするはずもなく、たかが旅の商人の一行くらい後でなんとでもなると、お約束で皆殺しを手下に命じます。 
ところが、葵紋の印籠を見せつけられて相手が実は徳川光圀(水戸光圀)であると告げられるものだからさぁ大慌て。世は徳川宗家を頂点とする江戸幕府が治める江戸時代、そして水戸光圀と言えばその徳川宗家に近い一族の先代当主です。目の前にいるただの老いぼれと見下していた相手が、実は大変な権力者であったわけですから、何はともあれひれ伏してしまいます。露見した悪事を誇らしげに語り、思いっきり開き直ってしまったわけですから、手下に始末させてキレイさっぱりとの目論見が一転、自分たちが始末(処断)されてしまいそうなことになってしまったとなれば、それはもうびっくり仰天です。 
 
さて、当時、財力の基となるものはご承知のように基本的には土地でした。水戸黄門のご一行が旅をしていた土地というものは、実際にはもっとずっと細かく分かれますが、きわめてざっくりと分けてしまえば、天領か大名領かの何れかでございました。天領は幕府直轄地で、幕府が直接治める地であり、ここにいるのはいわゆる幕府が任じた代官です。一方で大名領地は、徳川家との関係、幕府への貢献度合などから幕府に領地を治めることを許された大名家が治める土地でした。幕府に近しい順に親藩、譜代、外様となっておりますが、いずれもそれぞれ大名家がやはり代官をあちこちに配して治めておりました。日の本全土の実行的支配権を徳川宗家の江戸幕府が握っている時代、例えどこのどんなに小さな村であっても、水戸黄門のご威光というものは、それは強いものでありました。なぜなら、天領であった場合には言うに及ばず、大名領地であったとしても、その大名たちの中で徳川幕府に逆らえる者など存在しない程の力の差があり、幕府に従属している関係でしたので、詰まるところ権力を傘に着て悪事を働く者たちの拠り所となるその権力が、すなわち最終的には徳川江戸幕府の力であり、ゆえにご老公の身分を表す印籠は全国何処でも効果覿面なのでございました。 
 
ところが、ごく稀に印籠を見ても全く意に介さない悪しき権力者が登場します。取り分け江戸初期における武家主導の実行支配体制を鑑みるに、上の者と言えば将軍家に、他の御三家当主たちと数えるほどの徳川光圀ですが、確かにそれだけの考えの枠には嵌らない高位者が存在しました。それらの代表的存在が、天皇と、天皇を中心とする公家です。そもそも、如何に実行支配力を持っていたとしても、徳川宗家とて我が国においては天皇の臣下であり、水戸光圀とてまた例外ではありませんでした。徳川宗家が戦国の世を経て覇者となるよりもはるか昔より、我が国は朝廷により治められてきておりましたし、鎌倉時代以降、長きにわたり武家の政治的独立に伴う複雑な二元政治的流れを形作りながらも、少なくとも形式の上では変わるものではなかったためです。 
このような印籠に屈しない悪しき権力者の例は数回あった様なのですが、その中のひとりに、一条三位という公家がおりました。印籠を見せられても屈するどころか薄笑いを浮かべ、『麻呂は帝の臣であり、徳川の家来ではおじゃらん!』と光圀たちに言い放ちます。 
 
さてこの一条三位、曰く中納言を務めたとのことですが、分解してみますと一条家の一族であり(分家ではないと仮定)、位は三位(正三位もしくは従三位の何れか)、また官(官職)として中納言を務めたことがある、ということになります。公家には家格というものがあり、その家格毎に位や官に上限が定められておりましたが、一条家と言えば藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする藤原北家の流れを汲み、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流として公家の最高位に数えられる藤原嫡流五家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)の一家、まさに名門中の名門、摂政・関白の位に就ける唯一の家格でした。とはいえ一条家といっても大きな家ですので、少なくとも一条宗家や中心的な人物ではなかったとは思われますが、名門ゆえに相応の官位に恵まれていた存在と考えてよいと思います。因みに、中納言に限らないことと言えますが、南北朝時代以降は中納言の正官は任命されなくなり、もっぱら権官(「権」は「仮」の意で、主に正規の官職員数を越えて任命する場合に使われた。実権を伴わぬ名誉職的な側面も。)のみが置かれたそうですので、一条三位もまた、権中納言であった可能性が高いと考えられます。 
ではその一条三位中納言に対して、同じく帝の臣たる徳川光圀ですが、寛永十七年(西暦1640年)従三位の位に叙せられ、官は右近衛権中将、参議などを経て隠居後の元禄三年(西暦1690年)権中納言となっておりました。皆さまよくご存知の通り、水戸黄門の『黄門』は、中納言を中国の官職名諷に言ったもので『黄門侍郎』から来ております。
官と位はほぼ相当するものであり、中納言の位は従三位とされておりましたので、一条三位も途中で何らかの特別な御沙汰など無き場合、正三位への昇叙はなく従三位のままであった可能性が高くなります。 

その場合には、どちらも位は従三位、どちらも官職は権中納言となり全くの同格同列です。そんな一条三位が徳川一門の印籠に対して平伏する理由は確かにありませんが、帝の臣であるのは光圀もまた同じですね。 
 
事の裏側を知った光圀は、そのような一条三位の反応は予想済で、目には目を、公家には公家を、と、一条三位が頭の上がらない良識人に事情を説明し助力を頼んでおりました。光圀を罵る一条三位の前に登場したのは朝廷の左大臣、これにはさすがの一条三位も仰天です。律令制において司法・行政・立法を司る、いわば最高行政機関たる太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言、そして後に中納言・参議が加わり、議政官として政務の重要な案件を審議する場であり、且つ太政大臣は常設の地位ではなかったため、事実上左大臣がいわば太政官における最高責任者でありました。そして菊亭と名乗った左大臣、菊亭家といえば今出川家のことであり、公家の家格としては、最上位の摂家につぐ清華家(時代により異なるが、主に三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・今出川の七家を指す。)の家格、太政大臣まで就任できる家格でしたので、左大臣として一条三位を叱責する立場での登場となったのであろうと考えられるかと思います。 
 
武家官位ではあるものの、やはり高位の水戸光圀、それに全く物怖じしない相手としては、それ相応の公家が必要であったのでしょう。五摂家の家格の公家まで登場させますが、最後には光圀の仕込みに屈することに。その相手として清華家家格の左大臣を配するあたり、やはりよく考えられていますね。 
 
至極簡単ではありますが、少しだけ幅を広げて名シーンを回想してみました。いつもの定番シーンに、こんな一波乱がこれまで幾度かあった様ですが、何せ有名な場面ですので既に情報も出揃っているかとは思います。ただ、ほんのすこしだけ深堀してみることで、また新たな疑問が湧いてはこないでしょうか? 
 

回を重ねて、いろいろなちょっとした歴史の深堀におつきあいいただければ幸いです。 
 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら

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新コラム 史(ふひと)の綴りもの ~歴史の入口~ 連載開始のご案内

のこす記憶ドットコムコラムでは、この度、新たに歴史をテーマにしたものを連載開始いたします。 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。 
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 

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朝の音 ~新型コロナウイルス感染症拡大リスクの中で~

新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止を図るべく、緊急事態宣言が4月7日に発出されてから、3週間以上が過ぎました。2月末に様々な感染拡大防止策が追加、強化する形で講じられはじめてからだと、もう2か月以上が経ちます。この新型コロナウイルス感染症により亡くなられた方、また感染により今この時も苦しんでいる方が全国に多くいらっしゃる中、ただ一日も早い終息を願うばかりです。
 
感染リスクという見えない恐怖と否応なしに向き合わなければならない今、命を守るために様々な社会経済活動に著しい制限がかけられ、感染リスクによる生命の危険に加えて、先の見えない大きな不安を抱えていない人はいない状態が続いています。今日明日の暮らしさえ見えないという人が日々社会にあふれてきて、支え合いにもどうしても限りがあり、国や自治体による迅速な支えなしには、社会全体がより深手を負うことになってしまいます。
 
活動を停止させられてしまった今、いたるところで街明かりも早くに暗くなり、都心部でも週末とは思えないような静寂につつまれています。そして明け方には、澄んだ空気に包まれた、いつもよりしんと静まり返った世界が、まるで何もかもが無くなってしまったかのような印象さえ与えてきます。そんな中、耳に入ってきた、遠ざかっていく新聞配達のカブのエンジン音は、社会はそれでも動いているんだな、と感じさせてくれるものでした。
 
元のようには、同じようには戻らないところがきっとたくさんあることと思います。けれども、少なくとも人が人として暮らしていける社会、未来を見据えることができる社会を再び取り戻すために、できることを、できるだけ、ひとりひとりが今やっていければ、と思います。

 

 
終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。

エンディングノートの未来

少子高齢化が進む中、家族の形もまた形を変えてきました。核家族が家族形態の中心を占め、便利になったかに見える社会は、一方でその不規則さゆえに却って家族で共にすごす時間というものを失わせてしまっている側面があると言っても過言ではないでしょう。『個』の時代といわれる中、結局一方で、人とのつながりを様々な形で求め続けるのが私たち人間かもしれません。
 

そんな人とのつながりの基となっている家族の絆、そしてそれは誰しもが持っている自分のルーツです。日々の多忙さになかなか振り返ることができなかったルーツを、人生の終盤に振り返ってみる機会をエンディングノートの記録を通じて持たれる方も多い様です。
 
はじめは、単に最後を迎える時に迷惑をかけたくない、きちんと準備をしてサッと逝こう、という思いからペンを執る方も少なくないと思いますが、記録を綴っていく中で甦る様々な記憶、出会いはそのひとつひとつが自分の人生の1ページ、無かったとしたら違うストーリーになっていた、大切なものだと気づかされることもあるのではないでしょうか。あの人の忘れ得ぬ言葉、すべてが詰まった一枚の写真、そういったものを残して、自分史として伝えていくことの意味は大きいのではないでしょうか。
 

今は分かってもらえないかもしれないけれど、いつか孫が大きくなった時にしてやりたい話、もう二度と撮ることはできない、たった一枚の貴重な写真、自分が知りたいと思って調べることが大変だった先祖の話がもししっかり残っていたら…。少なくとも自分の歴史からはきちんと残すことが出来れば…。
 

ひとりひとりが人生の棚卸しをして、自分の生きた証を残していける、終わりではなく、未来へのつながり、それがエンディングノートの大切な役割となっていくのではないでしょうか。
 

 
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老後の暮らしとペット ~ペットと一緒にお墓に入るということ~

世帯、家族の形が様々変わる中で、人生の終盤を誰と過ごすのか、ということもまた当然変わってきました。子供がいて、一緒に暮らしていて、お墓に入っても家の墓として家族が墓守をしてくれる、という形は、家庭毎様々な事情からではあっても、年々その形を維持できなくなってしまうケースが増加傾向にあるという事実認識は、間違ったものではないでしょう。
 
高齢者の一人暮らし世帯も増え、そこに地域のつながりというものもあるわけではなく、いままでいろいろあった『つながり』を失くしてしまうことは、やがて活力を失っていくことにつながってしまいがちです。支え、支えられることで人として在ることができる-それは老若男女を問わず等しく言えることではないでしょうか。
 
つながりと言えば人と人とのつながりはもちろんですが、ペットとの触れ合いが認知症の予防につながるということも介護業界を中心に言われています。これは、ペットとの触れ合い、特に飼育とするという責任を伴う行動が、認知症予防において大切だと考えられている「記憶」「運動」そして「会話」を伴うからだそうです。飼い主として面倒をみる以上、食事や予防接種などなどきちんと把握、記憶しておかなければならないことはありまあすし、犬などであれば散歩が運動につながります。また、例え言葉でのコミュニケーションができないとしても、愛情をもって話しかける行為は、独りきりで言葉すら発しない日常と比べてどれほどよいことでしょうか。ペットは家族同様と思ったり、あるいはそれ以上の絆で結ばれたりする人もめずらしくはありません。それは、そこにしっかりとした『つながり』があるからではないでしょうか。
 
ただ、ペットを飼うということはもちろん責任を伴いますし、長年ペットを飼ってきた方であればあるほど、その責任感から、高齢となって、もし自分が先立ってしまったら、という不安からペットを飼うことをやめてしまう方も多くいらっしゃいます。確かにしっかりと考えておかなければならないことですが、予め里親を探しておくなどできることもまたあり、ペットを通じて新しく広がる人とのつながりもあるかもしれません。また逆にペットが先に亡くなってしまう悲しみ(ペットロス)も訪れ得ることではあります。
 
そしてそこまでのつながりで結ばれたペットとは、同じお墓に入りたい、という願いを持っていらっしゃる方も少なからずと思います。
のこす記憶.com パートナー寺院である善福寺(浄土真宗/神奈川県 小田原地域)には、全国でもめずらしい、ペットと一緒に入ることのできる墓地が境内の一角にございます。ペットと共に永眠できるところを、という方にはこちらで詳細をご案内いたしております。

 
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『お迎えご供養』のご紹介

のこす記憶ドットコム事務局では、寺院僧侶がご訪問、読経の上、ご遺骨を引き取り寺院境内での散骨を承る『お迎えご供養』をご紹介しております。

 

終活をきちんと終わらせてある、という方は実際まだまだ少数派の様です。亡くなった方を送る側、残された側にとして、様々なご事情や思いが錯綜する中、ただ何か然るべき弔いをしたいと心に留めつつも、ご遺骨をどのようにしたらよいか決め兼ねたままで月日が流れてしまった、というお声も寄せられます。『お迎えご供養』とは、そのような諸々のご事情からご自宅に置かれたままとなっているご遺骨に対し、寺院僧侶がご訪問、読経の上、ご遺骨を引き取り寺院境内での散骨を承るものです。

 

詳しくはこちらをご参照ください。

 

お問い合わせ、お申し込みはお問い合わせフォームにて承っております。
 
のこす記憶ドットコム 事務局

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平成から令和へ 新しい時代に向けての挨拶

平成から令和へ、元号が変わり新しい時代を迎えます。明治以降、一世一元の制が定められ天皇一代につき一元号と定められていますが、それまでは吉事を理由とする祥瑞改元や大飢饉など凶事に際しその悪しき影響を断ち切るために行われた災異改元など、新たな天皇の即位が必ずしも改元の条件とはされず、極めて短期間で改元が行われたこともしばしばでした。
 
歴史を紐解き始めれば、この元号、改元に関する事柄だけで、そこに映し出される実に様々な時代背景を垣間見、それに連なる膨大な歴史の頁を開くことになりますが、この長い歴史の中にあっても、平成から令和への時のように、これだけ多くの国民が予め元号が新しくなることを知り、気持ちの上でも予定されている変化として捉えるということは、おそらくなかったことなのではないでしょうか。
 
しかも改元の時期は、今年は10連休10連休と言われてきたゴールデンウィークを挟んでのタイミング。もちろん様々なお勤めの事情などによりお休みではない方も多くいらっしゃいますが、カレンダー通りお休みの方にとっては、連休明けは新しい元号で、という、何か新しい時代の到来を感じさせるようなスケジュール感にもなっている様です。連休前の最終出勤日に、何かしら滅多にこない大型年末年始休の様に感じられた方も少なくないのではないでしょうか。
 
仕事納めに恒例の『よいお年を』の挨拶の変わりに『よい時代を』なんて声をかけあって連休入りされた方、令和の仕事始めはどのような挨拶から始まるのでしょうね。
 
ひとりひとり全ての人が、安心して過ごして行ける『令和』となり、その中で紡いでいかれる想いをのこしつたえていける時代となることを願います。

 
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キャッシュレス決済

キャッシュレス決済、つまり現金以外で支払決済を行う機会がどんどん増えています。一言にキャッシュレス決済といっても様々、クレジットカード決済、電子マネー、スマホ決済などなど、もうお財布を忘れてしまっても大丈夫、そもそもお財布がなくても大丈夫なんて方もいらっしゃるかもしれません。
 

世界のキャッシュレス決済先進国も普及の理由や事情は様々です。個人消費拡大と小売業者の脱税防止施を目的とした国の経済政策の一環としてクレジットカード普及率の高い韓国、金融危機が引き金となり政府主導でキャッシュレス化を進めたスウェーデン、偽札対策のため屋台でさえもキャッシュレス決済が当たり前となってきた中国、行政サービスのオンライン化推進で、言わば国そのものが電子政府とさえいえるエストニアなど、キャッシュレス先進国では、何か大きな社会全体的な理由で非現金化が加速していった様子が見受けられます。
 

日本でもキャッシュレス社会はどんどん身近なものになってきました。スーパーやコンビニなど日常的な場でのキャッシュレス決済もごく普通のものとなってきた時代、子供にお買い物ごっこで金銭感覚を身に着けさせようとおもちゃのお金でやり取りをするのも、もしかすると実際のお買い物と違うね、となってしまうかもしれません。世代によってはやがて現金は最初からあまり馴染みの無いものになってくるのでしょうし、それに慣れさせなければ、と思うよりも早く、新しい世代は最初からただ単純にそれを理解していくのでしょう。けれども、まだ数の概念もあまり育っていない時期、小銭を一緒に数えたり、お買い物ごっこでおもちゃのお金を数えたりしながら手で覚えていく金銭感覚、数字を数字としてだけではなく、何かそれ以上のものとして覚え伝えていけるものなのではないかな、と、キャッシュレス決済が進みつつある今だからこそ余計に感じられてしまいました。
 

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『散骨のお申し込み』 散骨の地 ご紹介 ~再び大地に還る~

のこす記憶ドットコム事務局では、様々なご事情によりご納骨ができない方などに『散骨のお申し込み』を受け付けております。

 

亡くなられた方のご遺骨-ご葬儀の後にはお墓へ、との思いとはうらはらに、様々なご事情から思う様なご供養ができない、亡くなられた方のお墓を用意することができなかった、あるいは故人のたっての希望もあり敢えてお墓を用意はしなかった、などのことから、ご遺骨をご自宅に安置されたままの方もいらっしゃるかと思います。

 

人は亡くなってから、再び大地に還ると昔から言われます。のこす記憶.comでは、そのようなご遺骨が大地に再び還ることができる様、散骨のお申し込みを承っております。

 

詳しくはこちらをご参照ください。
『散骨の地』の様子など、こちらから写真でご覧いただけます。

 

詳しくはお問い合わせフォームよりお問い合わせください。
 
のこす記憶ドットコム 事務局

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平成最後 終活と年賀状じまい

平成最後の年となることをひとつの区切りとして、長年続けてきたあちらこちらとの年賀状の遣り取りを整理し、ごく親しい方との間だけに限る『年賀状じまい』を進めるシニアの方が増えているそうです。たしかにお付き合いもだんだんなくなってきたり、年に一度の音沙汰のつもりが実は手紙も書けないほどの体調であることがわかったり、あるいは亡くなられていることを知るきっかけとなってしまったりと、近況を知らせ合う楽しみとは違った知らせになってしまうことも増えてくることもあるのかもしれません。
 

歴史的に見ると、いわゆる一年の始めに書簡の遣り取りをする様な風習は平安貴族たちの間ではじまり、やがて武家の間にもひろまっていったものの様ですが、今日でいうところの年賀状は、明治時代にはいり、前島密の建議により創設されるに至った郵便制度の登場から始まったものとなります。1871年1月24日に「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等の、郵便に関する一連の太政官布告が公布、4月20日、東京 – 京都 – 大阪間に現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設されました。
 

庶民に郵便の便利さが伝わっていく過程で、新年の挨拶を直接は会えない人にも手紙という形で行える年賀状文化もまた広まり、その後、第二次世界大戦中に空白期はあったものの、明治、大正、昭和を通して、いわば日本の新年の風物詩として定着してきたものです。平成の半ば、平成15年には44億5千万枚もの発行数となった年賀状ですが、すでに次々に押し寄せてきていたデジタルコミュニケーションの波もあり、発行枚数はここをピークに減少していってしまいます。
 

近年、人と人とのコミュニケーションツールも劇的に変わってきていますが、それは、人と人とのお付き合いが変わってきたことによるものなのか、それともコミュニケーションツールが変わってしまったことによりお付き合いが変わってきたのか、そのどちらでもあり、またどちらでもない両方の側面を持ったものだと思います。ただ、手紙であれ、メールであれ、SNSであれ、また直接会うことであれ、これまでもこれからも、人と人が何らかのコミュニケーションツールでつながっていくこと自体には変わりがないのだろうと思います。終活において用意する『終活ノート(エンディングノート)』では、万一の時には連絡をしてほしい人をきちんとリスト化することができるものがほとんどです。ただ、実際それで全てだろうか、となるとリストを作ったご本人ですらはて?と思ってしまうこともあるのではないでしょうか。
 
残された人は、きっといろいろなものから、亡くなったことを知らせてほしい人を探るのではないかと思いますが、毎年年賀状の遣り取りをしていた人、というのもまたひとつの大切な基準になるように思えてなりません。先々変わってくることのあるものでしょうが、『年賀状じまい』をお考えの方も、もう少し先延ばしにしてみてはいかがでしょうか。
 
 
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