教訓を繰り返し聞くことの意義

今年は梅雨が早まりまして、すでに西日本では豪雨災害となっておるようにございます。関東は8月以降になりますと台風災害が多くなりますが、5月や6月はそれほど目立った災害には至りません。しかし、日本は東西南北どこに行きましても自然災害の多い国土ですので、私たち関東在住者も何事も自分事として捉える必要があります。とりわけ熊本県は昨年の熊本豪雨のみならず、2016年には熊本地震に見舞われております。関東では東日本大震災、そして古くは関東大震災が起きており、それら災害の教訓を次世代へ伝える努力をしてまいりました。関東大震災は昼時に起きたこともあり、昼支度のため火を使っていることの多い時間帯でした。地震そのものの被害も大きかったのですが、被害を広げたのは火災であったと聞きます。「地震だ火を消せ」という標語がございますが、私も幼い頃は繰り返し大人から聞かされてきました。また、東日本大震災では津波の被害が甚大であり、「津波てんでんこ」という言葉の持つ重要性が再認識されたことは記憶に新しいことです。沿岸部では地震とはつまり津波襲来のことであり、とにかく何を置いても、てんでばらばらであっていいから高いところへ逃げろという教訓です。こうした言葉を繰り返し繰り返し伝えていくことが、被害を少しでも減らしていくことに役立つことは言うまでもありません。 
 
仏教では人の行為として身・口・意の三業と言いまして、身体と言葉と心によって行為は成り立つのだと考えます。教訓としての言葉を聞き、心に刻んでおかなければ、いざという時に身体が動かないことでしょう。まずは言葉をしっかり聞くことが大事だと思います。教訓を次世代へ伝える努力を続けていきたいものです。 

 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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形式よりも、お別れはとても大切

コロナ禍におきまして、お通夜をしないいわゆる1日葬が目立ってきました。葬儀の規模は経済状況に左右されると思いますが、縮小ぎみであったものに拍車がかかったと言えましょう。新型コロナウイルス感染予防の観点から、参列者人数を絞っているということもありますが、経済的な問題が大きいと感じます。 
 
葬儀は今から6万年ほど前、中期旧石器時代、ネアンデルタール人に痕跡が見られるとのことです。今でこそ日本では葬儀と言えば仏教ですが、仏教伝来以前からも当然葬儀は行われていました。おそらくは先祖との合一を願う儀式が行われたのかと思います。仏教伝来以降、儀式として仏式にはなりましたが、基本的な考え方に変化はないように思えます。 
 
仏教は葬儀に理論を与えたと言えまして、大きく見て滅罪と引導ということになります。この世で犯した罪を浄化(=滅罪)し、それによって先祖の世界へ旅立つ、仏教的には極楽浄土へ往生(=引導)ということになります。宗派によって引導の有無はありますが、感覚としてはどこも同じことをしているとも言えそうです。 
 
お通夜をする意義は、お釈迦様の亡くなる際、夜通しお弟子様が悼んだという故事によっています。ただし、僧侶が直接葬儀に関与することには、お釈迦様は否定的であったそうです。インドにおいて、かつて葬儀は信者さん同士で行っていたと思われます。僧侶は修行優先だからです。 
 
実は日本においても、葬儀に仏教が関与するようになるまで時間がかかりました。当初、僧侶は僧侶同士の葬儀は行っておりましたが、信者さんの葬儀には関与していませんでした。鎌倉時代あたりから、半僧半俗のような方々があらわれまして、葬儀を担っていったそうです。 
 
僧侶同士での葬儀法が一般化し、今に至っています。戒名法名を付与するということも、形式的ではありますが出家作法の一部とも言えます。僧侶として送っていた名残でしょう。それが仏教徒になるという意味合いに転化したのだと思います。戒名法名がないと極楽浄土へ往けないとか、そういうことではないのです。 
 
現代的に見てお通夜は、仕事関係の方々が参列する機会でした。会社帰りに寄るにはちょうど良い時間帯です。しかし亡くなる方も高齢化、そして喪主や施主も高齢化となりますと、すでに仕事をされていない方も多くなっています。お通夜の意味が薄れていったのは、経済的な意味と同時に、こうした高齢化社会も影響を与えています。 
 
葬儀のあり方はその時代を反映しているものですので、決まった形態でないといけないということはありません。自由なのです。ただ、お別れをするという意義については、大切な方を亡くされた方々にとって、これからの人生を歩むためにも大切に考えてほしいことではあります。 
 
お別れからくる心の大きな穴というものは、すぐには埋まりません。段階をへて、少しずつ埋まってくるものでしょう。私もそうです。お経を読んだり、何かしら儀式めいたことをすることによって、つまり段階をへることによって、埋めていくことができると感じています。 

 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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今月の法語

「もし諸相は相に非ずと見るときは、すなわち如来を見る」
 
先入観によった見た目(=相)に惑わされず、本質を見ることこそ真実(=如来)を見ることなのです。 
出典:『金剛般若経』
 
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本質は心であり命

緊急事態宣言が再度発出されまして、飲食店では午後8時以降の営業が出来なくなっております。その補償金が1日6万円出るそうですが、お店の規模によって効果はまったく異なるようです。来客も多く、家賃や人件費の負担が比較的大きい店舗では、6万円では足りないことでしょう。一方、たとえば夫婦で経営している居酒屋等では、通常営業よりも利益が出てしまうようです。飲食店はコロナ蔓延以降、どこも営業不振ですので、補償金で儲かることは結構なことだとも言えますが、本来必要なところに補償が十分されていないという実情に触れますと、政府の判断に不安を覚えてしまいます。 
 
ところで、戦前戦時中には国体という言葉がよく聞かれたそうです。私は意味については門外漢ですが、国としての本体というか、根本的なあり方を指していたのだと思われます。この国体を守ることが何よりも大切であるとされ、国民もそのために動員されたのでしょう。場合によっては、国民一人一人の命よりも、実体性のない概念が優先されていたとも言えそうです。時代の事情が複雑に絡み合ってのことですので、ひと言で評価をすることは出来ませんが、もし人命が軽視されていたことがあったとすれば、非常に残念なことだと思います。 
 
今、新型コロナウイルスと対峙しまして、もちろん国体という概念が出てくることはなく、時代も思想も異なるわけですが、国のあり方を人命に優先している気配を政府から感じずにはいられません。経済を止めるなと言いますが、経済は本来、経世済民です。日本は経済立国ではありますが、国や経済はもとより人のために存在しているということを忘れないでほしいものです。仏教では国や経済であっても、それは本質であるとは考えません。あくまでも派生的なもので、本質は心であり命です。時代の転換期に臨みまして、大切なことを見抜く力を養っていきたいと思います。 

 
 

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今月の法語

「此の教によりて聞くに随って信楽の心を起こす」
 
仏教では「聞」を大切にします。教えをまず聞くわけです。普段の生活においても、相手の話をまず聞く姿勢を大切にしたいものです。 
出典:『摂大乗論』応知勝相品第二
 
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今月の法語

「たとえば火は木より出でて、火、木を離るることを得ず」
 
善き事も悪き事も、すべて(=火)は自分自身の心(=木)から出ているものです。自分の他に直接的な原因となるものはありません。ならば自分の心をもっと良く知っておきたいものです。 
 
善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗教観と国際性

アメリカの大統領選挙において、トランプ候補はプロテスタント、バイデン候補はカトリックというように、それぞれの宗教も情報として出されています。アメリカ人にとって両者の宗教的基盤というものは、投票先を決めるためには重要なのでしょう。一方、日本の菅総理大臣の宗教と言いますと、日本ではとくに話題にされていないようです。少なくとも今、私は即座に答えることが出来ません。東北出身なので仏教なら曹洞宗かなあとか、そんなイメージはありますが、実際のところは分かりません。多くの日本国民にとって、あまり興味のないところなのかもしれません。 
 
欧米人にとって、宗教とは基本的には1つなのだと思います。キリスト教やイスラム教というように、どれか1つを選び取っているのが常識的なのでしょう。こうした宗教観は日本にもないわけではありませんが、常識的とは言えそうにありません。そもそもお寺と神社の違いを明確に認識している人がどれほどいるかと言いますと、国民の半分もいるかどうか微妙なところです。お寺のなかに鳥居が存在することもあり、何が何だか区別がつかないというのが率直な意見かもしれません。しかし、何も心配することはありません。それで構わないのが日本的なのです。 
 
日本は山あり海あり自然豊かな国土と言えるので、今でも国民には自然崇拝的な感覚が色濃く残されています。大木には神仏がやどり、川には神仏の意志があるかのように思えます。都会であっても各所に祠が残されており、神仏の存在を感じ取る入口になっているかのようです。お寺や神社に行かなくとも、歩いているだけで神仏と出会えるのが日本的なのだと言えるでしょう。仏教は外来宗教ではありますが、日本固有の神と同一視されることによって定着しました。また、神社に祀られている神であっても、外国出身の神と同一視された由来や、そのまま日本化した由来を持っていることもあります。 
 
このように、1つを選ぶ感覚よりも、すべてを受け入れる感覚が多く見受けられるのが日本的宗教観と言えます。だからでしょうか、「あなたの宗教は何?」と聞かれると困ってしまうのは典型的な日本人です。1つを選ぶ感覚自体がないので答えようがないのです。初詣や七五三は神社、葬式や除夜の鐘はお寺、ついでにクリスマスもしています。欧米人からすると驚くべき事態でしょうが、私たちにとっては普通です。何が問題なのかもよく分からない。もちろん1つの宗教を選んで敬虔な信仰生活を送られている方もいらっしゃいますが、多数派とは言えないでしょう。 
 
菅総理大臣の信仰についてほとんど関心がないのは、こうした実情によるのだと思えます。アメリカ人とは随分と違いますね。宗教観に正しいも正しくないもありませんので、日本人はこうした寛容的な感覚を誇りに持って良いはずです。真に国際性を身につけたいのであれば、外国人の真似ではなく、日本人としての感覚を磨くことから始めるのも有効な手段でしょう。外国人からすれば、日本人は日本人なわけであり、外国人が知りたがっていることは日本のことなのではないでしょうか。日本のことをしっかり伝えることが出来て、はじめて自分の国際性は高まってくることでしょう。 

 

 

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今月の法語

「恩に負(そむ)き義に違して、報償の心あることなし」
 
人は誰でも他者の世話になっています。報償の心とは、その恩義に報いていく心を言います。しかし、現実は惨憺たるあり様です。自らを省みたいものです。
 

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今月の法語

「この濁悪処には、地獄・餓鬼・畜生、盈満(ようまん)し、不善のともがら多し」
 
地獄などは別世界ではなく、この世界(=濁悪処)にこそあるのかもしれません。不善行為を伝える報道に触れるたび、そう思わずにはいられません。
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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非常時こそ相手を尊重して

新型コロナウイルスの第2波が押し寄せてきそうですが、国民の健康を優先にしながらも、経済活動の再開・維持をしなければならない状況は、私たちひとりひとりの行動が大きな鍵になることを示しています。遊興は自粛すべきとの論調は強いですが、当然そこにも経済活動が関わってきます。かと言って以前のように振る舞いますと、あっという間に感染は広がることでしょう。感染防止をすることはもはや国民として必須のことです。しかし、防止策の取り方について言えば、個人で温度差があるのも確かです。たとえば外食をするということについて、防止策のされている店ならばどこでも大丈夫と思う人もいれば、そもそも外食は自粛すべきという人もいる。食事をともにする相手を気にしないという人もいれば、行動範囲の分かっている家族以外とは外食しないという人もいる。行政から明確な指針が出ていない以上、皆で感染防止の方向に向いているとはいえ、受け取り方や考え方が異なるのは当然です。慎重な人とそうでもない人、色々な人がいるわけです。 
 
それぞれ思うところはあるでしょう。しかし、それで揉めてしまったり、仲違いしてしまったりしては元も子もありません。何時も相手を尊重する心を持つこと、とりわけ非常時においては必要なことです。忍耐が求められる今ですが、常時の有難さを再確認しながら、感染防止に努めていきたいものです。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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