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宗の教え016 二種深信で充実度アップ

仏教に限らず、どのような宗教でも信心は不可欠です。仏さまも神さまも、普通に生活していれば頻繁に出遇えるという存在ではありません。宗教において、私たちが直接触れているのはまずは教えであり、教えを通じて宗教体験をすることが可能となります。つまりその教えを聴いてみないと、そもそも始まらないのが宗教なのです。そこが衣食住と異なるところであり、宗教は人生を豊かにしてくれるものですが、必須ということでもありません。 
 
たいていの宗教には尊格がありまして、仏教では仏さまが筆頭の尊格です。尊格がたくさん存在する宗教もあれば、ひとつだけの宗教、また、抽象的な宗教もあります。仏教は対機説法と言いまして、説法を聴く人に合わせて様々な教えが説かれます。必然的に仏さまも色々な性格が出て来まして、たくさんの仏さまが存在することとなりました。別人格というわけではなく、仏さまの多様な側面という意味になります。一方、キリスト教やイスラム教など、神は唯一としてその多様性を説かない宗教もあります。 
 
いずれにしましても、教えには仏さまや神さまを信じることの意義深さが説かれており、そこから信心が始まっていきます。仏教のなか、とりわけ信心を重んじているのは浄土教であり、阿弥陀如来の教えを説くものです。阿弥陀如来は命あるものすべてを救い取ってくださるはたらきであり、阿弥陀如来に帰順することが浄土教の信心となります。 
 
しかし、一度教えを聴いただけで簡単に信じられるのかと言えば、そんなことは稀でしょう。教えを通じて、自分自身にとって何らかの実感があるからこそ、信じる気持ちにもなるものです。 
 
浄土教において、信心というものは2つの側面があると言われます。まず、人は教えに触れることによって、はじめて明確に自分の過ち、自分の至らなさに気づかされることがあります。愚かな自分に気づかされるのです。そして、愚かであるからこそ、だからこそ救いの手を差し伸べてくださる阿弥陀如来。こんな自分を無条件で受け入れてくださる阿弥陀如来の慈悲に触れたとき、信心は自から実感できるものとなります。信心はまさに阿弥陀如来からいただくとも言えましょう。これを二種深信(にしゅじんしん)と言います。 
 
自らの愚かさに気づかされること、場合によっては、懺悔(さんげ、ざんげ)という言い方もいたします。仏教のみならず、キリスト教などにも見られる宗教行為です。自分を悔い改めるということです。仏さまや神さまの前だからこそ、嘘偽りのない自分に正直に向き合うことが出来るのでしょう。信心というものは、ただ信じ込むというものではなく、内省による自分自身の気づきがあって初めて成り立つものなのです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え015 無所得を知って充実度アップ

前回、自業自得のお話をさせていただきました。私たちは自分の意志に関わらず、思いがけず善い方向にも悪い方向にも行ってしまい、困惑することもしばしばです。だからこそ、時には肩の力を抜いて、流れにまかせるような生き方も必要ではあるのですが、状況を変化させる自分の意志もまた業とは無関係ではありません。変化させたいと思う意志も業のうちであり、変化を望むということは、そうした業によってもたらされた結果でもあるのです。 
 
分かってはいても、なかなか状況を変化させられない。そういう時は、いまだ変化するという結果がもたらされていないか、変化の最中にあっても、正しい行動を取れていないということになります。時が満ちていない場合は待つしかありませんが、思うように上手く変化出来ない場合は、正しくない行動によって、さらに悪業を積んでしまっている可能性もあるでしょう。では、悪業を積まないようにするためには、どのような心掛けが有益なのでしょうか。 
 
仏教においては、私たちの行動指針として、無所得ということが頻繁に説かれます。これはもちろん報酬を得ないというボランティア精神のことではなく、得るところがない、すなわち、物事に余計な執着をしないという意味になります。私たちが物事をとらえて、実体があると思ってしまうことであっても、仏教ではそのように見ることはありません。私たちの身体を例に取ってみますと、身体はたしかに実体があり、だからこそ私たちは生きていて、時には爽快感を、また、ときには苦痛を感じることもあります。しかし、よくよく考えてみるならば、身体は刻一刻と変化しているのであり、私たちが思い込んでいるような固定的な実体があるわけではありません。その証拠に、私たちの身体はいつか使用不能になる、つまり、私たちはその時が来れば死ぬわけです。 
 
他にも名誉ですとか、お金というものであっても、実際には実体なんてありません。実体がないにも関わらず、私たちはそれを得るために一所懸命であったりします。出来れば限度までそれらが欲しい。ただし、思いよりも満足に得ることが出来なければ、逆に苦しみや辛さが増すばかりです。思うように人から評価されない、思うようにお金がない、そして、健康だったのに病気になってしまった…、となれば、誰でも良い方向に人生が向いているとは思わないでしょう。 
 
名誉だって、お金だって、そして健康だって、出来ればある程度得ることが出来たほうが良いでしょう。問題は、どの程度に思うかということなのです。本来は実体のないものなのですが、私たちはそれらを追い求めて幸せを感じるところがあります。これはもう仕方のないことです。執着している以上、完全に正しいといは言えないあり方ですが、これを修正するためには厳しい修行をせねばなりません。より自分にとって充実した人生を歩むためには、以前もこのコラムで取り上げましたが、少欲知足、欲少なく足るを知る心掛けが大切であり、そのためには、そもそも自分が一所懸命に得ようとしている物事なんて実体がなく、すべては無所得なのだという理解が一助となるはずです。何事もほどほどに、欲張れば欲張るほど悪い方向に行ってしまうからです。 
 
執着は悪業となって、自分自身に苦しみや辛さといった悪い結果をもたらします。正しい行動とは執着を出来るだけ少なくしていくことであり、それは善業となって善い結果を生み出すことでしょう。状況が改善されていくということは、こうした正しい行動があってのことだと言うこと、肝に銘じておきたいものです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え014 自業自得で充実度アップ

今回、タイトルだけを見ますと、あまり良い印象を持たれないかもしれません。「自業自得」という言葉は、一般的には悪い意味で用いられることが多いでしょう。「悲惨な結果になったのは自業自得」など、悪いことは自分の責任なのだという意味です。しかし、これはもともと仏教の言葉であり、「自分自身の行為(身体、言葉、心)の結果やその影響(→自業)は自分自身で得ることになる(→自得)」という意味なので、善いことも悪いこともすべて含まれています。善い行いをしたら善い結果が得られるという意味でもあります。 
 
ただ、善悪という概念は判定が難しいので、今回は善悪には触れず、自分自身の行為の結果やその影響は自分自身で得ることになる、という点に絞ってみたいと思います。 
 
今、自分はなんでこんな状況に置かれているのだろう、自分はなんでこんな境遇にあるのだろう、そもそも、なんで人として生まれてきのか、なんで自分という人格を得ているのか。たいてい人には不満があるものなので、なんでかなとその責任の所在を突き止めたくもなります。しかし、いずれも自業自得です。仏教の考えで捉えれば、生まれてこの方、してきたことはすべて自分自身の業によります。さらに言えば、どう生まれたのかも、どのような境遇で生まれたのかも、実は両親や先祖の責任ではなく自分自身の業によっているのです。もちろん、これは「前世」という生まれる前の自分のあり方、宗教的な考えに基づいてはいますが、自分が生まれてきたのは両親や先祖の責任にはならないのです。 
 
生きていますと、自分の意志とは反対の方向に事が流れていってしまうこと、よくよく遭遇いたします。おかしい、こんなはずじゃなかったのに、という具合です。人生の歩みは何でも意志通りになるわけではないこと、私たちは経験的に理解しています。ただ、自分の意志、つまり意識レベルにおいて、今まで自分の行ってきたことや自分で考えていたこと、すべてを管理して記録してあるかと言えば、そんなことはないでしょう。この世のことでもこんな程度なのですから、前世のことなんてまったく分かりません(もとより前世の記憶は、現世であるこの世には持ち越されません)。 
 
意識というものは、私たちのほんの一部に過ぎません。今現在の自分を構築するものという視点において、業こそが私の本質とも言えます。意識はあくまでも舵取りの役目であり、本質とまでは言い得ません。善いことをしようとしても、思わず悪い方向に行ったりすることもあるでしょう。そんなつもりはなくとも、そうなってしまうのは、自分の業によって物事が引き起こされているからです。舵が効かないこともあるわけですね。自分のあずかり知らぬことに思えても、自分に起きている事態はすべて自業自得によっているのです。思い通りにならないわけです。極端な言い方になりますが、人は死にたい時には死ねず、死にたくない時には思いがけず命を落としたりするものです。 
 
私たちは、こうした一見すると不条理かと思えるようななか、生きてゆかねばなりません。もしかしたら、不条理であることの説明のため、業という考えが生まれたとも言えるかもしれません。業のはたらきは科学的に解明できるような性質ではないので、存在の証明は出来ません。しかし、何事もまず自分自身の行為を顧みる必要性を説いています。何かと責任転嫁しやすい私たちですが、今ある状況で生きていかねばならぬこと、状況を改善させる可能性は自分以外にはいないこと、そして、だからこそ自分は大切な存在であり、かけがえのない尊厳を持っているのだということを、業という考えは私たちに伝えようとしているのだと思います。 
 
厳しい世の中ですが、自分に可能なことは前向きに取り組んでいきたいものです。出来ないことは出来ないで良いのです。それが自分の業なのですから。無理をするようなことではありません。これは「投げ出し」ではありません。諦めです。「諦める」ということは、実は自分の状況を「あきらかにする」という意味です。諦めることこそ肝腎です。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え013 三類境を知って充実度アップ(その2)

前回からの続きとなります。 
 
幽霊登場のお話や、幽霊画や幽霊像を見るならば、恨めしい思いを持って亡くなった人もいるだろう、怒りのなかで亡くなった人もいるだろう、大きな悲しみをこの世で懐いて亡くなった人もいるだろう、そういう「まだ生きている人の感情」の投影が幽霊という存在を形作ってきたことは想像に難くないことです。しかし、そうは言いましても、実際に幽霊を見たという話は、昔も今も尽きることがありません。幽霊が見える、という認識は精神医学や心理学の側面から解明できる場合も多いようですが、仏教においても、認識の対象(いわゆる五感や意識で認識可能なところ)を3種類に分けて解説していますので、そこに幽霊の正体を見出せるかもしれません。 
 
大乗仏教の唯識思想では、三類境(さんるいきょう)と言いまして、私たちが日常世界で認識している対象(=境)を、以下、3種類に分析します。 
 
①まずは「性境(しょうきょう)」と言いまして、言うなれば「実在」しているものです。主観に左右されずに客観的に存在しています。それ自身の本性を守って存在している、という意味です。日常世界における物理的存在です。 
 
②つぎは「独影境(どくようきょう)」で、これは逆に主観によって描き出された存在で、本性や本質というものがまるでありません。影像だけが独りで起きているので、幻覚とか幻聴といったものに該当します。物理的に存在していないのです。 
 
③最後に「帯質境(たいぜつきょう)」です。独影境は本性や本質がありませんでしたが、こちらは本性があり本質を帯びています。しかし性境のように、主観がその本性をしっかり認識できているかと言えば、ありのままに認識されているわけではありません。簡単に言えば見間違い、聞き間違いです。 
 
以上です。意外とシンプルに思われるかもしれませんが、この3種類を導き出す過程は複雑なものの、たしかにこれで十分だと言えそうです。では、幽霊はどこに当てはまるのかと言えば、①性境ではないのは確実なので、可能性としては②独影境か③帯質境になります。しかし、②独影境には本性がなく、そこには幽霊を幽霊たらしめるこの世への怨念や悲哀といった心の一部すら存在していないことになります。主観が勝手に作り出した幻であるため、これは精神医学や心理学で分析される事象に近いでしょう。だとするならば、巷で騒がれることの多くは③帯質境になります。 
 
夜中に境内にいれば、木々が幽霊に見えることは経験上よくあることですし、何となく薄気味悪い雰囲気を感じれば、何でも幽霊に見えてくるものです。心霊スポットもそうです。心霊スポットという触れ込みがあるからこそ、そこに行けば主観はそう物事を認識してしまう方向に誘導されるもので、幽霊はたくさん出現しそうです。主観は雰囲気に左右されるものなので、複数人であっても共通の雰囲気のなかにいれば、同じように見間違いや聞き間違いをする可能性もあるでしょう。仮に心霊スポットという看板がなくとも、今までの経験や知識の上から、何となく幽霊が出そうだなと感じてしまえば、幽霊の出現率は高くなると思います。幽霊が何故かだいたい似たような姿で伝わるのは、あらかじめ幽霊の姿が私たちにインプットされているからです。モデルはもちろん、ご遺体です。 
 
このように、大乗仏教の理論の上からするならば、幽霊存在の可能性はどんどん狭くなってきてしまいます。ただし、何事も完全に「ない」を証明することは困難と言われますし、上記の三類境であっても、もとより、幽霊の存在を分析するための教義ではありません。私が勝手にここで使用しただけなので、分析として不十分ではあります。では、もし三類境以外に幽霊が見えるという現象を尋ねるならば、それはもう真如、つまり仏さまからのはたらきかけに他ならないでしょう。たとえば亡父の幽霊かと思ったが、実はそうした姿で語りかけてくださる仏さま、幽霊だって仏さまとして、私を導いてくださる存在として捉えることも可能だと思います。私は、こうした幽霊は大いに信じています。父はちゃんと成仏して、敢えて幽霊になって戻ってきたとも言えるでしょう。有難いことです。 
 
幽霊とは、亡き方を思う気持ちにより成り立っている、亡き方を思わなければ、幽霊という存在はあり得ません。言い換えれば、幽霊は供養なのです。日本人は古来、それだけ人の死を悼んできたということでしょう。生死こそ、私たちの一大事だからです。 
 
幽霊に出遇ったならば、有難い気持ちで接したいものです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
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宗の教え013 三類境を知って充実度アップ(その1)

日本人は幽霊話が好きなようで、日本ではお能や怪談など、幽霊が出てくるお話が多く伝わります。私も小学生の頃、心霊写真大図鑑などを友だちと見ては恐怖に慄いたものです。幽霊にも色々とあるようで、かつて父親に谷中の全生庵に幽霊画を見に連れて行ってもらいましたが、だいたい同じ構図とはいえ、表情は色々でした。また、私は中野にある哲学堂の近くで育ちましたので、幼少から頻繁に幽霊像を拝んでいたものです。哲学堂の哲理門には左右に天狗と幽霊が鎮座しているのです。なかなか怖いお顔立ちで、今でも思い出しては恐怖します。 
 
幽霊に対処するのは坊さんが多いようですが、私は正対したことがありません。そりゃまあ住職なので、普段、ほとんどお墓のなかで暮らしているようなものです。幽霊の1人や2人出会っても良さそうなものですが、そういう雰囲気はあるものの、残念ながら一度もお会いしていません。亡くなった祖父曰く、「お寺には仏さまがいらっしゃるから、みな成仏して幽霊はいないんじゃ」とのことで、幼い時分はそれで安心したものですが、今では小賢しくなったもので、「成仏したいからこそ、やって来ているのでは?」、とか屁理屈を考えてみたくもなります。 
 
では実際、仏教では幽霊をどう考えているのでしょう。ただ、仏教は論理的な教えだけではなく、様々な側面を持ち合わせていますので、幽霊を成仏させる方法とか、その実例ですとか、そういう実践的な面も含んでいます。すべてに渡ると収集がつかなくなるので、ここでは大乗仏教の教えに基づき、論理的にどう幽霊が解釈可能であるのか、すこし尋ねてみたいと思います。なお、ここで言う「幽霊」というのは、皆さんが思う「幽霊」で良いと思います。定義なんてないので、大雑把で良いのです。 
 
この世で死を迎えますと、つまり、自分の身体機能が終えますと、即座に次のステージが決まります。どう決まるかと言えば、自分自身のこの世での行為やその影響、さらに前世やそれ以前の世における行為やその影響も含めて、これを業と言うのですが、この業によって決まります。即座に決まるので、この世を名残惜しむ暇はなさそうです。「死」というものは、次のステージにおける「生」を意味します。「生」への準備が即座に始まります。それは往生浄土であるのか、それとも再び六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)をへめぐるのか分かりませんが、どこかの「生」にはなります。人でしたら、まずは自分のお母ちゃんになる人を探すとか、そんなように説かれることもあります。 
 
と言うことで、もし幽霊というものが、この世で亡くなった人であるならば、実は仏教では幽霊は存在し得ない、という何とも味気ない結論に至ってしまいます。幽霊には身体はありませんので、なぜか身体もなく心やその一部だけがこの世で見られる、という不可思議な現象ではあるのですが、そもそも、それも無理なわけです。怨念だけが残ったとか、ファンタジーの世界ではありがちな素材ですが、怨念も心の一部であり、たしかにそういう感情の記録も心には植えられますが、実はそういう負の心も含め、自分自身で背負わねばならない業であるので、それを切り離すことは出来ません。仏教では自業自得と言いまして、善いことも悪いことも、すべて自分自身が独りで受け持たねばならぬ、という鉄則があるのです。しかしまあ、何事もエラーはありそうですし、たまには即座じゃない人もいるかもしれませんし、お忘れものとかね。ちょっと色々と処理に時間がかかっちゃったとか。何かありそうですよね。 
 
次回へつづく

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
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宗の教え012 報恩謝徳で充実度アップ

如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし 
 
この和讃は、『恩徳讃』として親しまれている親鸞聖人御作の仏徳讃嘆です。私のような愚かな凡夫であっても、いえ、凡夫だからこそ如来は私に大悲を向けてくださる。そして、私に如来の大悲を気づかせてくださった先生方にも、とても大きな恩徳があるのだと。だからこそ、私の出来ることは「身を粉にして」、「骨を砕きて」報謝することであり、報恩謝徳こそ聖人の仏道なのだと看て取れます。 
 
私たちは多くの恩を受けて生きています。たとえば毎日の食事であっても、動植物の命をいただき生きているのが私たちです。しかし毎日というところに落とし穴があり、いつの間にか有難いことであっても、毎日毎日ではそれが「当たり前」になってしまう。私たちにはこうした手前勝手な心があります。あまりないことには感謝をしますが、毎日のことになると感謝を忘れてしまうのです。これではいけません。 
 
如来の大悲は、食事よりも頻度が高く休まる暇さえありません。如来は常に、休みなく私を導いてくださっています。頻度が高いので、これまた「当たり前」になりすぎまして、私たちはまったく気づいていません。これは仏教に限らず、神仏の力というものはそういうもので、あまりにも大きく包んでくださるので、愚かな私たちには見えてこないようなのです。ふとした日常を生きているとき、ありふれた日常であるからこそ、本来は大きく感謝していかねばならぬことでしょう。 
 
恩に報いる生き方とは、日常への感謝の気持ちから。有難う、有難いの気持ちを大切にしていきたいものです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
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宗の教え011 到彼岸で充実度アップ

昔、両親から「暑さ寒さも彼岸まで」と教えられましたが、気候変動なのか9月はお彼岸になっても暑いです。たしかに空気は秋なのですが、日差しは真夏と変わりません。かつては多少涼しくなっていく頃合いが、夏が終わったことを証明し、もの悲しいような雰囲気に包まれるのが秋のお彼岸でした。夏のお盆は亡き方がお帰りになるとのことで、別れのなかにも再会があり、家族でお仏壇のお飾りもいたします。一方、お彼岸はそうした賑わいも去り、秋の透き通った空気が大切な方との別れ、この世の無常を知らしめてくれもしました。ところがどうも今は暑くて、まだ夏かとも思えるほどです。 
 
さて「彼岸」とは「あちらの岸辺」ということで、いわゆる「あの世」を指しています。こちらの世界は「此岸」です。「こちらの岸辺」です。つまり、三途の川に隔たれた、あちらとこちらなのです。昔の人々にとって大河を渡るということは大変で、まさに命懸けであったことでしょう。大河の先は異文化であったかもしれず、そんなイメージが投影されているのかと思えます。仏教においては、「あの世」と言えば仏様のいらっしゃる浄土へ続いており、浄土そのものとも理解されます。浄土は「迷いの世」を超えているので、本来は浄土=「あの世」とは即座になりませんが、あまり固いことは言わないで良いでしょう。 
 
この世は迷いの世界なのだと言われます。この世の有様を見るならば、自分を含めて迷っている者ばかりです。戦争や犯罪が根絶されないことも、その根源を訪ねれば他者との共存の出来ない自己中心性に行き当たります。自己への執着心が戦争や犯罪の根源です。他者への攻撃性は、当然のことながら自己保全の裏返しだと言えるからです。彼岸に到ることを「到彼岸」と言いますが、浄土に到ることは自分も仏に成ることであり、それは「智慧の完成」とも言われます。「智慧」というのは「知恵」とは異なり、仏としての正しいものの見方のことです。「知恵」は人知であり、どうしても自己への執着がともない、完全に平等な見方とは言えません。自他平等、それこそが「到彼岸」なのです。 

 
 
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宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その2

前回の続きとなります。 
 
なるほど、普段物事を考えているのは第六意識であっても、それとは別の第八阿頼耶識に
よって世界も私も成り立っているわけですから、たしかに思ったとおりにはならないはず
です。そしてまた、何らか衝撃的な縁によって、眼識に認識される対象が普段と異なる姿
を見せることもあり、たとえば小学生の時分であれば、友達と遊んでいまだかつてないほ
ど楽しかったり、学校で先生から猛烈にほめられたり、そういう衝撃的な縁が阿頼耶識に
可能性を植え付け、光り輝く川面を生じさせることもあるでしょう。世界も私も私自身の
心ではあるのですが、それらは意識だけではなく、意識よりも深い部分にある不可知なと
ころから生じているのであり、普段意識している事とは違った見せ方を生じさせることも
あります。ただし、あくまでも意識として知り得ることができないだけで、違った見せ方
であっても、それもまた私自身の心なのです。 
 
人生は思わぬ展開になる事も多いのですが、唯識という仏教的立場からすれば、自分が知
り得ていないだけで、すべて自分自身の可能性に基づいているということになります。も
ちろん、その可能性はこの世で生じたものばかりではなく、前世や前々世から持ち越して
きたものもあり、それが努力だけではどうにもならない生まれや境遇を直接生み出してい
るのですが、それでもなお、自分は可能性のかたまりなのだと言えます。いつもと変わら
ぬ川、言い換えれば、変化しそうにない状況にあっても、人は自らの思考や行動によって
いくらでも可能性を蓄えることができます。そして、その可能性はいつか発芽して花開き
、自分自身や状況を変化させることになります。願いというものは勝手にかなうわけでは
なく、願いに向けた努力が可能性となり、自らが願いを成就させていくものなのです。 
 
なお、私はもうかれこれ20年ほど前、30歳頃には妙正寺川近辺から引っ越しをしてお
りますが、その当時、すでに川はきれいになっておりましたので、最後につけ加えておき
たいと思います。合掌

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
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宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その1

風景というものは、何の変哲もないものに映ることもあれば、時には芸術作品以上に美しく映ることもあります。たとえば、今から40年以上前のこととなりますが、私は東京の神田川につながる、妙正寺川の近辺に住んでおりました。当時の妙正寺川はお世辞にもきれいとは言えず、生命がほとんど感じられない様子でした。今では水質改善がなされていますが、かつては神田川も場所によっては泡立っていたり(母校の獨協中学付近)、下水がそのまま流れ込んでいたかのようでした。 
 
普段、こうした川の流れを見てもまったく感動はしないものですが、なぜかある時、妙正寺川の川面が光り輝いていたことを記憶しています。小学生の時分だと思いますが、もしかしたら何か嬉しいことでもあったのかもしれません。昔のことで記憶が定かではないのですが、今でもはっきりと憶えています。 
 
妙正寺川の流れはいつもと変わりません、おそらく私の心が漫然とした普段とは異なる状況であったのでしょう。つまり、心のあり方によって、目に映る風景は違って見えることがあると言えそうなのです。私たちはごく当たり前に世界を感じ、その中に私が存在していると認めます。川や山、家や公園などは自分の外に存在しているもので、私たちの心とつながっているとは微塵も感じません。実際、私が思ったとおりに世界は回っていませんし、思いとは逆方向に現実が向かうこともしばしばです。しかし、私たちの心が、私たちが認め得る意識だけではないとしたら、これはどうでしょう。意識以外の心作用があり、それが現実を作り出しているとするならば、思ったとおりにならないこともあり得るかもしれません。 
 
大乗仏教では唯識と言いまして、世界も私も物理的に別在しているのではなく、世界も私も含めて、物事すべては眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識と第六意識・第七マナ識・第八阿頼耶識という七つの識を中心にして生じた事象であり、心のなかに認識対象と認識主体があるとする立場があります。もう少し掘り下げて言いますと、私たちが生活をしているこの地球、そして宇宙も含めた外的な環境世界、そして他でもない私自身は、知性である第六意識ではなく、潜在的とされる第七マナ識(自我意識)よりも、さらに不可知な第八阿頼耶識に植え付けられている種子(可能性)から生じたのです。その生じた事象を、たとえば眼識が認識して、さらに第六意識によって、これは「川」というように言語化していきます。認識対象と認識主体を合わせ持つ識のみが存在し、普段、外的に認めている世界は実在しません。これを「唯識無境(ゆいしきむきょう)」と言います。 
  
次回へつづく

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え009 中道を知って充実度アップ

 日本人は一般に勤勉だと言われています。耐え忍ぶということも昔からの美徳でしょう。苦しい状況にあっても、忍耐一本で取り組む姿勢が賞賛される傾向も感じられます。仏教でも「忍辱」(にんにく)や「精進」という徳目があり、屈辱や苦悩を耐え忍び(忍辱)、勇猛に歩みを進める(精進)ことを勧めています。私もこれらの言葉は好きです。人生には苦悩が多いことですし、耐えてこそ幸せを掴むことが出来ると思うからです。ああ、昭和時代のスポ根アニメを思い出します。少年時代、夕方はテレビにかじりつきまして、再放送アニメから「忍辱」や「精進」の素晴らしさを学んだものです(昭和48年生)。 
 とまあ、冒頭いきなり立派な展開となりましたが、実際にはまったくチャランポランに生きている側面が私にはあります。「面倒くさい病」とでも言いましょうか、何でも面倒くさいなあと感じてしまうのです。勤勉や忍耐というものは、美徳として賞賛されもしますが、裏を返せば多くの場合、実現不能だから賞賛されるとも言えます。スポ根アニメであっても、やはりアニメの域を出ないことも多いのです。日本人が勤勉や忍耐を好きなことは否定できませんが、往々にしてそんなに上手くいくものではありません。仏教においても、出来ていないから勧めているわけで、出来ていれば勧める意味はありません。 
 では私の実際に即して、チャランポランでダラダラと快楽を貪ることこそ人のあるべき姿なのでしょうか。結論から言えば、それはまったく違います。快楽もたまには良いですが、快楽に浸ってばかりでは前に進むどころか後退してしまいます。なぜならば、快楽とは問題解決を後回しにしているだけだからです。人生には取り組まねばならない問題が山積してします。これは誰にでも分かることです。後回しにすればするほど、問題は蓄積していくことでしょう。問題が雲散霧消することはないからです。 
 忍耐なのか、快楽なのか、さて正解はどちらかと言いますと・・・、実はどちらでもありません。どちらか一方だけに偏り過ぎることは、結局のところ拘りの泥沼にはまるだけだからです。忍耐も快楽も人生の目的にはなり得ませんし、これらはあくまでも手段であり、手段に拘っていては前進することが出来ません。仏教では「中道」(ちゅうどう)と言いまして、一方に偏らない真ん中の道を歩むべきと説きます。言い換えれば、ガス抜きのない生活は破綻するだけだと言うことでしょう。人は機械ではありませんので、忍耐強く生きたいと思うならば快楽を伴う休息が必要ですし、快楽の多い生活をしたいのであれば、時には忍耐強く勤勉することも必要です。お酒を飲む方であれば、働いたあとのビールを美味しいでしょう。あれです。 
 お釈迦様は苦行ばかりの修行ではなく、ましてや快楽主義に陥ることなく、仏道修行には瞑想を取り入れられました。心静かに自身を顧みること、そして何より、バランスよく一方に偏らない生活をしていくことの重要性を説いて下さいました。これが「中道」です。決してどっちつかずではなく、一方だけに拘らない自然な生き方なのです。

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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