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今月の法語

「横に威勢を行じて人を侵易し、みづから知ることあたはず。」 
 
横ざまに、横柄になり他人を侵害していても、自分でその事には気づいていない。他人ではなく、自分こそが愚かだという事に気づいていきたいものです。 
出典:『無量寿経』巻下
 
善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え 002 慚愧の心で充実度アップ

慚愧(ざんぎ)に堪えません・・・、どこかの国会中継で見聞きしたことのある言葉です。何となく難しい言葉遣いなので、教養があるようにも見える一方、問題を煙に巻く意図が見え隠れします。慚愧の慚とは自分を顧みて恥じ、愧とは他者にも恥じる心です。仏教では『俱舎論』や『成唯識論』といった論書に出てきます。慚愧に堪えないということは、恥じ入る心との葛藤に耐えられないということです。冒頭のような場合、とくに謝っているわけではないので注意を要します。悪かったね!ぐらいの意味合いだと思っていただいて良いでしょう。 
 

しかし本来の意味を尋ねてみますと、社会人として持つべき心と言えます。昨今、車両運転中の交通トラブルが多く報道されています。いわゆる煽り運転です。なぜか運転中にはトラブルが多い。歩行中に煽ってくる人はあまりいないでしょう。いきなり喧嘩になってしまいますし、直接相対しているので互いに遠慮もあります。運転中であっても下車して来る輩もいますが、そのまま逃走してしまうケースが多いように思います。やり逃げや、言い逃げをしやすいのが運転中ですので、煽り主はとても気が小さいのでしょう。車載カメラが普及してもなお煽り運転をしてくるのは、いったいどういう感覚なのか分かりません。 
 

煽り運転をして、カメラに見事収まってしまっている自分を見れば、なんと愚かな行動をしているのか分かることでしょう。恥ずかしい。なかには厚顔無恥な輩もいますが、多くの人はおそらく自分の行為に恥じ入るはずです。実は運転中ではなく、普通にしていれば社会人としてごく普通の人なのかもしれません。それがハンドルを握った途端、なぜか人が変わったように豹変してしまう。しかし、それでは困ります。いつでもどこでも、自分の行為は他者に見られています。仮に見られていなくとも、自分自身の心に見られています。自分に恥じ、他者に恥じる慚愧の心を忘れないようにしたいものです。 
 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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今月の法語

「女人を、子において母と称し、兄において妹といふがごとし。かくのごとき等の事、みな義に随ひて名別なり」 
 
名は対象の1つの側面しか示し得ません。この宇宙においてすべてです。名にとらわれず、物事の本質を大切にしたいものです。 
出典:『往生論註』巻上
 
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宗の教え 001 少欲知足で充実度アップ

身長があと5センチ、顔はもっと精悍に、お財布の中身も減らない、食べて飲んでの贅沢三昧、体型も維持されてモテモテ路線まっしぐら・・・、個人的な願望です。50歳も近くなってきた最近はさほど思いませんが、若いころはこんな頭のなかでした、坊さんなのに。本能的と言うか何と言いましょうか、理性のかけらもなく欲望のままですね。恥ずかしい。少しは理性的でありたいと思いますが、人は理性よりも欲望が本質なのかもしれません。 
 
仏教では五欲と言いまして、人には眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官によった五つの欲望があると言います。また、私たちが住んでいるこの世界は欲界と言われまして、食欲・淫欲・睡眠欲の三欲があるとも言われます。他にも財欲・飲食欲・名欲、さらには恋愛対象への欲も盛んだそうです。・・・納得です。 
 
自分自身は言うに及ばず、テレビやネットも欲望で溢れかえっています。日常的な悩みの多くは人間関係のものだと言われますが、そもそも人に良く思われたいという欲がなければ悩みは減りそうです。生死に関わることでなければ、別に嫌われても何てことないでしょう。しかし欲望というものは私たちが生まれたときから保持されており、意思とは裏腹に勝手に作用してくることもあります。もちろん欲望にはこうした悪いものばかりではなく、善いものもあり、善悪に関わらないものもあります。ただ、やはり生きる上で困るのは悪いほうの欲であり、これを何とかすれば多少は生きやすくなるかもしれません。 
 
仏教には止観(しかん)という修行がありまして、心の動きを出来るだけ止めて、心に経論(お経とその解説論)の教えを描き観察するという仕組みです。欲望が自分の心に由来しているのは分かりやすいでしょう。止観によって欲望が生まれる原因を突き止め、消してしまおうとするわけです。この場合、この世の事柄をすべて心に由来させる唯識学派系統の経論が最適です。しかし、内容は非常に難しい。観察に至るまで教えを習得するのは苦難の道と言わざるを得ません。 
 
仕事もありますし皆が仏教の修行ばかりしているわけにもいきません。止観をして根本的に欲望を消そうと励むことは尊いことですが、そこまでしなくてもある程度は何とかなります。これは意外と簡単で、悪い欲望をなくそうとするのではなく、ちょっとだけ減らしてみようという心掛けだけでも大分違います。 
 
ただし、我慢するのではありません。日本人の美徳とも言えましょうか、我慢することは立派なことだと言われますが、実はあまり精神的に良いことではありません。我慢も元は仏教用語で、仏教では自分自身の慢心、思い上がりを指しています。一般的な意味合いとは正反対に価値づけされているわけですが、私たちの我慢にはたしかに慢心があります。我慢している自分は立派だと思ってしまえば、それは思い上がりです。思い上がりが膨れ上がりますと、むしろ欲望を増大させます。人によく思われたいという名欲(名誉欲)です。欲望は色々なところから顔を出してくるものなのです。 
 
このように欲望には原因があります。その原因を突き止めて消してしまうのが止観なのですが、そこまで行かずとも、原因を知っておくだけで効果はあると思います。たとえば名欲であれば、これは他者に褒められたい、良く思われたいという心の裏返しです。では何故こうして褒められて良く思われたいのかと言えば、少しでも他者より優位でありたいとする思いがあるからです。優位であればより気分良く生きることが出来そうです。いつでも上から目線で物事を判断できるからです。しかし、この気分の良さというものは、どうも偽物っぽいようにも見えます。名誉を保つことは大変なことですし、いつでも他者の存在を気にしていなければなりません。大変そうですよね。SNS疲れに通じても行きそうです。 
 
ところで、向上心と名欲の違いは何でしょう。向上心はより高みを目指す自分自身との闘いです。名欲はそこに他者との関係が入り込んできます。他者を意識することが減れば、色々と面倒くさいことも減るでしょう。あいつに負けたと思わなくて済むからです。人生は勝ち負けではありません。人生は自分自身の歩みであり、他者との比較で成り立っているものではありません。他者との関係によって自分も存在しているのですが、過剰な意識は百害あって一利なしです。良く思われたいという思いを少しでも減らしていけば、本当に気分が良くなってくることでしょう。 
 
少欲知足、「欲少なくして足るを知る」と経典には説かれます。欲望を完全に消すことは至難の業ですが、ちょっとだけにしておくことは出来そうです。時には相手にどう思われようが気にしない、何と言われようがいいではないか、という心掛けです。自分が思うほど他者は気にしていないという側面もあります。自意識過剰が恥ずかしい場合もあるでしょう。 
 
冒頭に書いた私の個人的な願望ですが、こんなの毎日実行していたら疲れますよね。下手に疲れるだけでまったく充実感はないでしょう。楽しみは数少ないから楽しみなわけで、毎日続けば苦痛でしかありません。人生に充実感をもたらす秘訣は、何事もほどほどに、かと言って頑なに我慢するのでもなく、ちょっと足りない程度が丁度良い、というところです。これなら止観せずとも大丈夫そうです。 
 
身長はピョンピョンはねても伸びませんし、顔はまあ、こんな感じです。身体は先祖からの遺伝要素が大きいので、如何ともし難いです。お金は減るから仕事に精進できるとも言えますし、だからこそたまに贅沢するのもいいのです。体型を保つためには運動しないといけませんし、運動すれば健康維持にもつながります。色々な人にモテる必要はそもそもありません。モテるモテないというのは、私たちの一大事である生死にはまったく関係ありません。お金や健康はそれなりに大事だなあとは思いますが、それ以外はよく考えると一大事ってことはまるでなく、結構どうでもいい事だと言えそうです。 
 
 

『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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新コラム 『宗の教え~生き抜くために~』連載開始のご案内

人の生死をたずねるコラムでは、この度、仏教を中心に様々な宗教の『言葉』というものを入りとして、この世を生き抜くための端緒をもとめていくテーマでの連載を開始いたします。 
 
宗の教え~生き抜くために~ 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。 
 

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電気自動車に乗ろうかな

車の運転が好きです。とは言いましても、レースではありません。速度はあまり出さず、流して走るのが好きなのです。ただしオートマ車ではなく、マニュアル車です。公道での常識的な速度のなかで車を操るのが好きです。速度を出すとコントロールできず、楽しみが半減してしまいます。20代のころは速度も出しましたが、公道では速度を出しても車の運転が上手いわけではないでしょう。 
 
しかし、そんな私の好きなマニュアル車も少なくなりました。また、そもそもエンジン車も消えていくようです。電気自動車の時代到来です。周囲の物事が大きな変化を迎えています。時代が変わる節目にいる気分ですね。 
 
好き嫌いは人それぞれですし、価値観も人それぞれです。私は昭和生まれですが、比較的古い価値観を持ち合わせているのかもしれません。たとえば家庭内においても、お母ちゃんは家にいて欲しいなあと思ったり、父こそが一家の大黒柱なんだと思ったりします。いい時代に生まれ育ったからかもしれませんが、時代が変わっても自分は変われません。本だってデジタルより実物がいい、大事な人とはオンラインよりも直接会いたい、通販も便利だけど小売店の店主のいる雰囲気が好き、という具合です。遅れています。 
 
「温故知新」であればよいのですが、私の場合はそうではなく、昔にすがりついているだけの面も大きいようです。「諸行無常」、物事は常に移り変わっていきます。それに抗うことは合理的には見えません。時代についていけなければ、生きづらい部分が増えてくるからです。仏教では「諸行無常」を覚るべしと教わります。ただ、それと同時に覚れない自分自身の愚かさも学びます。私自身を眺めてみますと、凝り固まった古い価値観に執着しており、変化していく勇気がなさそうです。慣れ親しんだ場所にいるほうが安心はしますよね。それが人間なのだと仏教は教えてくれているのです。 
 
とは言え、その慣れ親しんだ場所は、決して本当の安心を与えてくれるものではないでしょう。安心とはむしろ、こうした執着のない状態を言うからです。やはり「温故知新」、自分の大切な昔から何かを学び、新しく変化していくことこそ大切なようです。電気自動車でも運転の楽しさは変わらないかもしれませんし、性別によらず活躍できる社会こそ今は必要です。私自身も変わっていかなければなりません。

 
 

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今月の法語

「悪しきを懲らし善(ほま)れを勧むるは、古の良き典(のり)なり」
 
なにが悪で、なにが善なのか、しっかりと見極めたいものです。太子は諂(へつら)い媚(こ)びることを忌み嫌われています。 
出典:聖徳太子『憲法十七条』
 
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教訓を繰り返し聞くことの意義

今年は梅雨が早まりまして、すでに西日本では豪雨災害となっておるようにございます。関東は8月以降になりますと台風災害が多くなりますが、5月や6月はそれほど目立った災害には至りません。しかし、日本は東西南北どこに行きましても自然災害の多い国土ですので、私たち関東在住者も何事も自分事として捉える必要があります。とりわけ熊本県は昨年の熊本豪雨のみならず、2016年には熊本地震に見舞われております。関東では東日本大震災、そして古くは関東大震災が起きており、それら災害の教訓を次世代へ伝える努力をしてまいりました。関東大震災は昼時に起きたこともあり、昼支度のため火を使っていることの多い時間帯でした。地震そのものの被害も大きかったのですが、被害を広げたのは火災であったと聞きます。「地震だ火を消せ」という標語がございますが、私も幼い頃は繰り返し大人から聞かされてきました。また、東日本大震災では津波の被害が甚大であり、「津波てんでんこ」という言葉の持つ重要性が再認識されたことは記憶に新しいことです。沿岸部では地震とはつまり津波襲来のことであり、とにかく何を置いても、てんでばらばらであっていいから高いところへ逃げろという教訓です。こうした言葉を繰り返し繰り返し伝えていくことが、被害を少しでも減らしていくことに役立つことは言うまでもありません。 
 
仏教では人の行為として身・口・意の三業と言いまして、身体と言葉と心によって行為は成り立つのだと考えます。教訓としての言葉を聞き、心に刻んでおかなければ、いざという時に身体が動かないことでしょう。まずは言葉をしっかり聞くことが大事だと思います。教訓を次世代へ伝える努力を続けていきたいものです。 

 
 

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形式よりも、お別れはとても大切

コロナ禍におきまして、お通夜をしないいわゆる1日葬が目立ってきました。葬儀の規模は経済状況に左右されると思いますが、縮小ぎみであったものに拍車がかかったと言えましょう。新型コロナウイルス感染予防の観点から、参列者人数を絞っているということもありますが、経済的な問題が大きいと感じます。 
 
葬儀は今から6万年ほど前、中期旧石器時代、ネアンデルタール人に痕跡が見られるとのことです。今でこそ日本では葬儀と言えば仏教ですが、仏教伝来以前からも当然葬儀は行われていました。おそらくは先祖との合一を願う儀式が行われたのかと思います。仏教伝来以降、儀式として仏式にはなりましたが、基本的な考え方に変化はないように思えます。 
 
仏教は葬儀に理論を与えたと言えまして、大きく見て滅罪と引導ということになります。この世で犯した罪を浄化(=滅罪)し、それによって先祖の世界へ旅立つ、仏教的には極楽浄土へ往生(=引導)ということになります。宗派によって引導の有無はありますが、感覚としてはどこも同じことをしているとも言えそうです。 
 
お通夜をする意義は、お釈迦様の亡くなる際、夜通しお弟子様が悼んだという故事によっています。ただし、僧侶が直接葬儀に関与することには、お釈迦様は否定的であったそうです。インドにおいて、かつて葬儀は信者さん同士で行っていたと思われます。僧侶は修行優先だからです。 
 
実は日本においても、葬儀に仏教が関与するようになるまで時間がかかりました。当初、僧侶は僧侶同士の葬儀は行っておりましたが、信者さんの葬儀には関与していませんでした。鎌倉時代あたりから、半僧半俗のような方々があらわれまして、葬儀を担っていったそうです。 
 
僧侶同士での葬儀法が一般化し、今に至っています。戒名法名を付与するということも、形式的ではありますが出家作法の一部とも言えます。僧侶として送っていた名残でしょう。それが仏教徒になるという意味合いに転化したのだと思います。戒名法名がないと極楽浄土へ往けないとか、そういうことではないのです。 
 
現代的に見てお通夜は、仕事関係の方々が参列する機会でした。会社帰りに寄るにはちょうど良い時間帯です。しかし亡くなる方も高齢化、そして喪主や施主も高齢化となりますと、すでに仕事をされていない方も多くなっています。お通夜の意味が薄れていったのは、経済的な意味と同時に、こうした高齢化社会も影響を与えています。 
 
葬儀のあり方はその時代を反映しているものですので、決まった形態でないといけないということはありません。自由なのです。ただ、お別れをするという意義については、大切な方を亡くされた方々にとって、これからの人生を歩むためにも大切に考えてほしいことではあります。 
 
お別れからくる心の大きな穴というものは、すぐには埋まりません。段階をへて、少しずつ埋まってくるものでしょう。私もそうです。お経を読んだり、何かしら儀式めいたことをすることによって、つまり段階をへることによって、埋めていくことができると感じています。 

 
 

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「もし諸相は相に非ずと見るときは、すなわち如来を見る」
 
先入観によった見た目(=相)に惑わされず、本質を見ることこそ真実(=如来)を見ることなのです。 
出典:『金剛般若経』
 
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