十一月の法語

「他人に教えるとおりに、自分でも行え」
 

他人にああだこうだと言うことは簡単です。それ、自分でもちゃんと出来ていますか?・・・これはとても難しい。自分を律することは難儀なことですが、まずは自分自身を見つめてみたいものです。
 

出典:『ダンマパダ』第12章

 

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十月の法語

「仏土を荘厳すというは、すなわち荘厳にあらず」

 

如来は仏土の飾り付けをしますが、それは飾り付けではないのです。人はお洒落をしますが、本来、お洒落とはすべて脱落した状態です。着飾ることはお洒落ではない。

 
出典:『金剛般若経』

 

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Rockをもて仏教す Part 4

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。マイロック人生において最も影響を受けたRed Hot Chili Peppersから、初期の名作Behind the sunです。

 

Now while I shower in the rain
I watch my dolphin swim away
The one who listens to the surf
Can feel the pulse beat of the earth
And like my dolphin swims so free
The sun does swim into the sea
Behind the sun
 

この歌はもう、はっきり言って意味不明です。下ネタ連発なのか、それとも何らかの衝撃であちらの世界に行ってしまっているのか、私にはサッパリ分かりません。しかし、最初から最後まで、イルカちゃんが導き手になっているのは面白いなあと思います。イルカちゃんっていうのは、これは下ネタ系の暗喩だとは思いますが、本来的な自分自身ということなのではないでしょうか?作詞者は男性です。そう考えますと、意外と深い(?)歌詞に思えて来るから不思議。
 

海と太陽というのは自然の象徴でしょう。その代弁者がイルカちゃんなのですが、それは自分自身でもある。つまり、自然と自分自身は本来的にはつながっている、むしろ同一であるにも関わらず、自分自身はそれに気づいていない。凄い!やたらと深い歌詞になってしまいました。仏教では眼前に広がる自然も自分の心の投影だと理解します。敢えて言えば自分自身が、自分自身の心を眺めているのが自然なのです。それをイルカちゃんが教えてくれている。イルカちゃんこそ、おそらく真如からのはたらき、つまり自分自身の内面にある仏に他ならないのです。
 

曲名にもなっている「Behind the sun」という詞は、太陽の向こう側にこそ、自然の向こう側にこそ、真如法性はそこにあるのだという意味・・・、ではないかもしれませんが、そのように理解することは可能です。いずれにしても、とても難解な歌詞に見えるのですが、おそらく、もっと単純なことを言っているのだと思います。彼女と自分とのホットな時間のこととか、容易に想像できますね。ハハハ
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

 

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九月の法語

「生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし」

 

仏法はこの世(=生死)の苦しみから抜け出る方法ですが、私たちはこの世が好きで好きでたまりません。自ら苦しみに入り込んでしまっていることに、早めに気づいていきたいものです。

 
出典:『観経疏玄義分』

 

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八月の法語

「仏名を称するがゆえに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く」

 

称名念仏をするということは、自らの生き様を振り返るということにもなりましょう。仏の御名において、ようやく自分自身の姿が見えてくることもあるからです。

 
出典:『観無量寿経』

 

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Rockをもて仏教す Part 3

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。

 

I’m playing my role in history Looking to find my goal
Taking in all this misery But giving in all my soul
Made in heaven, made in heaven It was all meant to be, yeah
Made in heaven, made in heaven That’s what everybody says
 

偉大すぎて説明の要なしと言えるQueenから、Made In Heavenです。実際にはボーカルのフレディ個人名義作だったかと思いますが、手元にあるのがQueen名義のCDなので、そういうことにしておきます。

 

この歌はもう思い切り宗教歌なわけですが、実は結構、多くの日本人にとりましては、心の底から共感するということが難しいかなあと思います。この歌を貫き通す信仰はズバリ、「神の思し召し」です。フレディ自身はゾロアスター教徒なのか、ちょっと良く分かりませんが、歌詞からは一神教的な思いを感じ取ることが出来ます。ゾロアスター教は一神教です。しかし、こうした一神教的な感覚は日本には根づかず、多神教やちょっと汎神教(←真理の現れが世界なのだとするような教えの分類のことでしょう)的な感覚こそ、一般的な「日本人」を作り上げている土台の一部と言えます。つまり、そこには人々が従うべき絶対的な神の存在性は薄く、物事それぞれがそれぞれ機能し、有機的にダイナミックに結びついている。敢えて言えば勝手に物事が進んでいくなかで、乗り遅れないよう一所懸命に祭祀をするのが日本人ではないかなあと。これは「自然」ということであり、あるがままにあるということを重んじるのが、日本的日常とでも言いましょうか。

 

さて、歌詞を見てみますと、自分は歴史上での「自分」という役割を演じ、自らの最終目的を探しているのだと言います。神によって定められた役割があるという信仰であり、それを知ることこそ人生なのだという、強い信念が見て取れます。おそらく、同じ一神教徒であるキリスト教徒の方々にとっても、大きく頷かれるところかと思います。その後に続く、悲惨な事柄も自分の魂のなかに受け入れようという歌詞からは、神に跪く敬虔な姿が想像されます。そして、こうした一連の事柄は「Made in heaven」、つまり、天国にいる神が造りたもうたものなのだ、それは運命なのだと、皆がそう言っていると結論づけるのです。

 

皆さん、いかがでしょう。私は坊さんだからでしょうか、こうした信仰のあり方に敬意を表すると同時に、どことなくこそばゆいような感触を禁じ得ません。ここまで大々的に信仰を表明できるというのは、むしろ立派なことだと思うのですが、自分にはないなあと。ただ、仏教では物事について、そのまま真実のありようを受け取ることこそ悟りなのだと説くわけですが、ゾロアスター教などの一神教においても、神の意思ということにおいて、実は同じようなことを言っていることに気づかされます。

 

仏教ではあくまでも自己における内的変革、つまり、余計なフィルターを通さず物事に透徹していく心を持つことを重んじます。坐禅のような瞑想修行はもちろん、仏への信仰においても、仏への信仰を通じて自己変革を達成することこそ仏道なのです。そして、その変革によって先入観による執着を捨て、真に自由なものの見方を体得していきます。すなわち、これは一神教徒においても、神の名のもとに悲惨さを含め、すべてをあるがまま受け入れていくのですから、そこに変革を見ることができるでしょう。道程は違えども、究極的には仏教であっても諸々の一神教であっても、同じような境地に達するのではないでしょうか(ただし、道程が異なるという点は重要です)。

 

歌詞にあるこうした表現の仕方に、違和感とまでは言わなくとも、なかなか共感を持てないというのが多くの日本人的感覚かもしれません。しかし、最後に行きつくところは同じであったというのは、面白いことだと思います。仏教では「八万四千の法門」と言いまして、人の数だけ教えの入口はあるのだとします。宗教が違うということは入口が違うということになりますが(本来は仏教内でのことですが、ここでは広く捉えました)、よくよく考えればどんな宗教でも同じ人間同士の営みなのですから、突飛なものではなく長く続いている宗教であれば、同じようになるのは当然と言えば当然と言えるかもしれません。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

 

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七月の法語

「一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如し」

 

この宇宙のあり様(有為法)はすべて永続的なものではなく、刻一刻と変化をしています。私たちは多くのことに永続性を求めがちですが、それは宇宙の真理に反していると言えるのです。

 
出典:『金剛般若経』

 

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Rockをもて仏教す Part 2

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。

 

The only thing real is the way I feel
And that’s the pain that’s deep inside
The battle from within is gonna begin
And there ain’t nowhere to hide

 

(War inside my head) Can you sense it
(War inside my head) Can you see it
(War inside my head) Can you feel it
(War inside my head)

 

今回はアメリカ西海岸のハードコアバンド、Suicidal TendenciesのWar inside my headから引用してみました。このバンドは能天気そうに見えるスケーターに人気がありますが、歌詞は結構内面的で暗いものが多く、私の好みです。そもそも、バンド名自体、直訳すれば「自殺的傾向」ということで、何だか問題を抱えていそうな名前ですよね。

 

さて、これは頭のなかでの葛藤を歌っていると思うのですが、唯一本当の事柄というものは自分の感覚なのだと言います。なるほど、現実は心によっているとする唯識思想に通じるものがあり、興味をそそられます。また、それは痛みであり、深い内面的なところからもたらされるとのことです。痛みという部分は、仏教的には苦悩としたほうが分かりやすいですね。仏教ではまさに、この世は四苦八苦だと説きますので、痛みの連続とも言えるでしょう。

 

これを内面的な戦いなんだと表現するところが、やや仏教では難しいかもしれません。隠れるところがないというのは、まさにその通りであり、自分と向き合っていれば、自から隠れるところはありません。ただ、何かと対峙して戦うというのは、もう一歩踏み込んで、相手は自分自身なんだということ、いえ、相手など存在せず、すべては心のなかにある自分自身の問題なのだと突き詰めたいところです。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

 

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六月の法語

「恩にそむき義に違いて、報償の心あることなし」

 

私たちは生まれてから今日まで、どれだけ多くの人たちから恩を受けてきたことでしょう。恩に報いていくことは、それだけでも人生の目的になっていきます。

 
出典:『無量寿経』巻下

 

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Rockをもて仏教す Part 1

Reality’s a dream
A game in which I seem to never find out just what I am
I don’t know if I’m an actor or ham
A shaman or sham but if you don’t mind, I don’t mind

 

ロックの歌詞から個人的に面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈を施してみたいと思います。そもそも社会の諸事象というものは、とくに仏教に基づいて存在しているわけではありません。そうであれば、むしろ本来の存在意義とは別の角度で、仏教的な見方をしてみることのほうが実りありそうです。作詞者には失礼ですが、それぞれの曲の主旨はさておき、少々図々しくチャレンジしてみたいと思います。

 

まずはイギリスのパンクバンド、BuzzcocksのI don’t mindから引用してみました。いきなり現実は夢なんだと言うところ、かなり仏教マインドあふれています。そしてさらに、現実なんて自分が何者なのか分からないようなゲームなんだと。大根役者なのかも分からんし、インチキ霊媒師なんだとしても、君が気にしないのなら、自分も気にしない。気にしないってというところも、とても仏教していて私は好きです。

 

かつて日本仏教においては、夢も現実に準じる、いえ、霊的にはそれ以上の価値で捉えられていたようです。夢のお告げです。夢だからこそ、直接、自分の心に語りかけてくると思うことは、あながち荒唐無稽というわけではありません。現実においては私たちの五感がかなり敏感に作用し、心を落ち着かせることは難しいことです。霊的な作用というものは五感ではなく、心に作用するとするならば、肉体的には寝ている状態である夢のほうが効果的でありそうです。

 

そもそも、今、私たちが思い込んでいる現実存在というものは、本当に真実だと言えるのでしょうか。私たちは大根役者やインチキ霊媒師かもしれませんし、上っ面なところだけをなぞって生きているに過ぎないとも言えるかもしれません。でも、真実をまた解明しようとすることが正しい生き方かと言いますと、そうとも言い切れません。なぜならば、何が真実であるかを判断するような智慧を、私たちは持ち合わせていないからです。

 

であるならば、そのまま、気にしないでいいじゃないか。あんたもいいなら、オレもいいよっていう、肩の力を抜いた生き方をしたほうが、むしろ真実に近づけるかもしれません。仏教的に言いますと、真実というものは何か特別なものと言うよりは、あるがままを、あるがままに受け取ることによって見えてくるものかもしれないからです。こだわらない生き方とも言えるでしょうか。押しつけがましいのはやめてくれって、そんなところでしょう。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

 

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