風景というものは、何の変哲もないものに映ることもあれば、時には芸術作品以上に美しく映ることもあります。たとえば、今から40年以上前のこととなりますが、私は東京の神田川につながる、妙正寺川の近辺に住んでおりました。当時の妙正寺川はお世辞にもきれいとは言えず、生命がほとんど感じられない様子でした。今では水質改善がなされていますが、かつては神田川も場所によっては泡立っていたり(母校の獨協中学付近)、下水がそのまま流れ込んでいたかのようでした。
普段、こうした川の流れを見てもまったく感動はしないものですが、なぜかある時、妙正寺川の川面が光り輝いていたことを記憶しています。小学生の時分だと思いますが、もしかしたら何か嬉しいことでもあったのかもしれません。昔のことで記憶が定かではないのですが、今でもはっきりと憶えています。
妙正寺川の流れはいつもと変わりません、おそらく私の心が漫然とした普段とは異なる状況であったのでしょう。つまり、心のあり方によって、目に映る風景は違って見えることがあると言えそうなのです。私たちはごく当たり前に世界を感じ、その中に私が存在していると認めます。川や山、家や公園などは自分の外に存在しているもので、私たちの心とつながっているとは微塵も感じません。実際、私が思ったとおりに世界は回っていませんし、思いとは逆方向に現実が向かうこともしばしばです。しかし、私たちの心が、私たちが認め得る意識だけではないとしたら、これはどうでしょう。意識以外の心作用があり、それが現実を作り出しているとするならば、思ったとおりにならないこともあり得るかもしれません。
大乗仏教では唯識と言いまして、世界も私も物理的に別在しているのではなく、世界も私も含めて、物事すべては眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識と第六意識・第七マナ識・第八阿頼耶識という七つの識を中心にして生じた事象であり、心のなかに認識対象と認識主体があるとする立場があります。もう少し掘り下げて言いますと、私たちが生活をしているこの地球、そして宇宙も含めた外的な環境世界、そして他でもない私自身は、知性である第六意識ではなく、潜在的とされる第七マナ識(自我意識)よりも、さらに不可知な第八阿頼耶識に植え付けられている種子(可能性)から生じたのです。その生じた事象を、たとえば眼識が認識して、さらに第六意識によって、これは「川」というように言語化していきます。認識対象と認識主体を合わせ持つ識のみが存在し、普段、外的に認めている世界は実在しません。これを「唯識無境(ゆいしきむきょう)」と言います。
次回へつづく
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦
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日本人は一般に勤勉だと言われています。耐え忍ぶということも昔からの美徳でしょう。苦しい状況にあっても、忍耐一本で取り組む姿勢が賞賛される傾向も感じられます。仏教でも「忍辱」(にんにく)や「精進」という徳目があり、屈辱や苦悩を耐え忍び(忍辱)、勇猛に歩みを進める(精進)ことを勧めています。私もこれらの言葉は好きです。人生には苦悩が多いことですし、耐えてこそ幸せを掴むことが出来ると思うからです。ああ、昭和時代のスポ根アニメを思い出します。少年時代、夕方はテレビにかじりつきまして、再放送アニメから「忍辱」や「精進」の素晴らしさを学んだものです(昭和48年生)。
とまあ、冒頭いきなり立派な展開となりましたが、実際にはまったくチャランポランに生きている側面が私にはあります。「面倒くさい病」とでも言いましょうか、何でも面倒くさいなあと感じてしまうのです。勤勉や忍耐というものは、美徳として賞賛されもしますが、裏を返せば多くの場合、実現不能だから賞賛されるとも言えます。スポ根アニメであっても、やはりアニメの域を出ないことも多いのです。日本人が勤勉や忍耐を好きなことは否定できませんが、往々にしてそんなに上手くいくものではありません。仏教においても、出来ていないから勧めているわけで、出来ていれば勧める意味はありません。
では私の実際に即して、チャランポランでダラダラと快楽を貪ることこそ人のあるべき姿なのでしょうか。結論から言えば、それはまったく違います。快楽もたまには良いですが、快楽に浸ってばかりでは前に進むどころか後退してしまいます。なぜならば、快楽とは問題解決を後回しにしているだけだからです。人生には取り組まねばならない問題が山積してします。これは誰にでも分かることです。後回しにすればするほど、問題は蓄積していくことでしょう。問題が雲散霧消することはないからです。
忍耐なのか、快楽なのか、さて正解はどちらかと言いますと・・・、実はどちらでもありません。どちらか一方だけに偏り過ぎることは、結局のところ拘りの泥沼にはまるだけだからです。忍耐も快楽も人生の目的にはなり得ませんし、これらはあくまでも手段であり、手段に拘っていては前進することが出来ません。仏教では「中道」(ちゅうどう)と言いまして、一方に偏らない真ん中の道を歩むべきと説きます。言い換えれば、ガス抜きのない生活は破綻するだけだと言うことでしょう。人は機械ではありませんので、忍耐強く生きたいと思うならば快楽を伴う休息が必要ですし、快楽の多い生活をしたいのであれば、時には忍耐強く勤勉することも必要です。お酒を飲む方であれば、働いたあとのビールを美味しいでしょう。あれです。
お釈迦様は苦行ばかりの修行ではなく、ましてや快楽主義に陥ることなく、仏道修行には瞑想を取り入れられました。心静かに自身を顧みること、そして何より、バランスよく一方に偏らない生活をしていくことの重要性を説いて下さいました。これが「中道」です。決してどっちつかずではなく、一方だけに拘らない自然な生き方なのです。
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
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私たちは、「時間というもの」は客観的存在であり、かつ、直線的に進んでいるものだと感じることが多いでしょう。過去から現在、そして未来へと進んでいき、決してループしたりすることはない。まさに川の流れのようなものです。私たちはこうした時間に身をゆだねており、あらがうことは不可能です。時には過去に戻ってみたい気にもなりますが、それは妄想であり非現実的です。あの時、ああしておけば良かったと思いましても、それはもうどうにもならないことなのです。
ところで、仏教では時間を客観的に捉えることはありません。むしろ主観的であり、自分という存在が変化し続けているから、現在という一瞬が連続したまでであり、そこに「時間というもの」があるかのように錯覚すると考えます。唯心と言いまして、環境世界はすべて自己の心によって描き出されているともしますので、心が動くから環境世界も動くということになります。環境世界と自分を二元的に捉えることはしません。
そして自分という存在をより深掘りするならば、六道輪廻と申しまして、天界や人間界、はたまた地獄界など6つの世界をグルグルと廻っていると見ます。私たちも何回こうして廻ってきたか分かりません。色々な世界での生存を繰り返して今に至っているのです。生住異滅(しょうじゅういめつ)とも申しまして、生じて存在し変化して滅していくと説いています。自分も環境世界も、つまり宇宙も同じであり、この生住異滅を繰り返しています。何回目か分からないほどのことでしょう。
このように仏教では、直線的ではなく円環的に物事の存在を捉えます。私たちは直線的な思考に慣れていますので、物事の原初や終末を想像したくなりますが、仏教ではグルグルしているので、その2点だけを拾い上げる意味はほとんどありません。もしかしたら、似たような境遇を何度も何度も繰り返しているのかもしれません。私たちは自分自身の人生は最初で最後だと思いがちですが、実際には微妙に異なる「自分」を繰り返しているだけかもしれません。そういう可能性がないとは言い切れないのです。
ただ、この繰り返しが永久かと申しますと、実は仏教の目的はそこにこそあります。輪廻は迷いの世界とも申しまして、私たちは真理に到達していないから、迷っているからグルグルと廻ってしまっています。迷いを断ち切ることができれば、この輪廻から解脱することができます。決して無意味な繰り返しをしているわけではありません。少しずつですが良い方向に向かっているので、あまり悲観的になることもないのです。
苦しいことも多い人生ですが、実りあることに巡り合えたならば、それは真理に近づいているということなのでしょう。日々、できるだけ有難く過ごしたいものです。合掌
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
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死んだらどうなるのかなあ。私は小学生のころ、寝床で漠然と考えることがありました。宇宙の先はどうなっているのかという疑問とならび、小学生の私にとっては難問の双璧でした。考えていると怖くなりましたが、いつの間にか寝てしまっていたものです。もちろんいまだ完全解明には至っていないわけですが、これからも難しそうです。ただ、仏教の教えに触れてからというもの、あまり気にならなくなりました。死は大きな人生の区切りだと思いますが、仏教的視点で捉えればその怖さは薄らいでいったからです。
死という概念は、そもそも生という概念がないと意味がありません。生も同じく、死という概念がないと意味がありません。と言うことは、生きるということは死があって成り立つので、私はすでに死をへて生きているとも考えられます。私たちは時間を客観的かつ直線的に捉えがちですが、仏教では主観的・円環的に捉えることが多いと言えます。つまり、生と死は一過性のものではなく、何度も繰り返されるものとされるわけです。これは宇宙についても言えることで、仏教では積極的に宇宙の終始を説くことはなく、むしろ繰り返しであることを強調します。
私たちはいつか死を迎え、そして再び、いえ何度目か分からないほどの繰り返しのなか、また生きていきます。死は終焉ではなく、すなわち新たな生の始まりなのです。どのような生を迎えるのかは、その時にならねば分かりません。生と死は別々の概念ではなく、まさに表裏一体、一如、生は死があってはじめて生であり、死は生があってはじめて死なのです。もし仮に死がなければ、私たちは生きているという実感もなく、ただ「ある」だけの無味乾燥な存在に堕すことでしょう。このほうがよほど怖いと言えるのではないでしょうか。
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
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仏教用語としての空は「そら」ではなく「くう」と読みます。読経のときに「くうくう」と聞こえるのは、この「空」が連続している箇所です。空とは簡単に言いますと、有るのでもなく、無いのでもないことです。この世の一切の森羅万象、物事は固定的に存在しているのではなく、つねに流動的に現象として存在していると見ます。直接的や間接的に何らかが因となり、同質であったり異質であったり何らかの結果を生み出す。その結果はまた何らかの直接的や間接的な因となり、別の何らかの結果を生み出します。流動的なのです。
私たちは物事を感覚的に有ると認識しますが、このように考えますと、物事は有るようで無いのかもしれないと思えてきます。しかし実際にはたしかに感覚的には有るわけで、決して何も無いということではなさそうです。実際、空を体得することは難儀なことですが、大切なのは物事を固定的に捉えないということです。私たちの固定的な見方は、私たち自身を苦しめる原因になります。良い物事はいつまでも変わらずと願うものですが、それが叶わないと苦しい。であれば、そもそも、そう願わないほうが良さそうです。
良いときであっても、すべては空なのだから流動的に捉えるべきであり、何かしらの原因で悪い方向に進むかもしれません。当然、悪いときであっても同じです。良い方向に進むかもしれません。瞬間瞬間で物事は移り変わっており、因果関係によってすべては現象として存在します。あっという間もない出来事です。言い換えれば、空を体得していなければ、その瞬間瞬間にまったく気づくことが出来ないということになります。
1秒間に24コマとかの映画フィルムをイメージして下さい。動いているように見えるだけでしょう。本来、動きなんてどこにも無いのです。有るのはその瞬間のコマだけ。そのコマもあっという間に消滅、つまり動いているように見せる役割を終えて過ぎ去ります。ただし仏教ではもう少し複雑で、そのコマは心のある場所に蓄えられ、今後のコマを作る因になっていくと説きます。これは、物事はすべて自分自身の心によっているという唯心という考え方で、とくに大乗仏教では重視されています。
空という捉え方は、必要以上に物事に拘泥しがちな私たちを諌めてくれます。物事にがんじがらめの現代人ですが、ときにはその束縛から離れてみるのもいいでしょう。物事なんてすべて空なのですから。
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
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他力本願と聞きますと、「他人まかせ」という意味合いが脳裏に浮かぶ方も多いかもしれません。しかしそれは派生的・二次的な意味合いで、本来は正真正銘の仏教用語です。仏さま(多くは阿弥陀如来)の本願力(ほんがんりき)によって、自分自身も成仏することを意味します。一般的な国語辞典においても、仏教用語としての説明が先にあると思います。もしそうでないならば、その辞典は学術的に問題ありですので使用しないほうが良いでしょう。
さて、成仏とは読んで字のごとく仏と成ることですが、一般的なイメージと違って必ずしも死を意味するわけではありません。仏のさとりを得ることが成仏であり、それは原理的に言いまして、生前に成されることもあれば、死後に成されることもあります。ただ生前に成仏する(=さとりを得る)ことは極めて難しいことなので、普通は死後でということになります。こうした現実から、成仏=死というイメージが広がったのだと思います。
そして、他力というのは他人の力ではなく、自分自身の力である自力に対し、仏さまの本願力を指し示します。仏教の教えは私自身の問題解決を目指しますので、実はあまり他人に関心があるとは言えません。あくまでも私と仏さま、仏さまと私という「一対一」の関係が重視されるわけです。自力で成仏に至ることが出来れば良いのですが、そのためには心を清浄にして、執着心を完全に捨てないといけません。この執着心というのが厄介なのです。
執着は色々な場面で存在します。すべての執着が即問題だと言うわけではありませんが、経済的な事柄、名誉的な事柄、他人より優位でありたいと思うことは執着です。すこしでも自分を良く見せようとする、それはつまり自己への執着だからです。究極的には自分の命に対しても執着しています。死にたくないという気持ちは生物として自然ですが、死を必要以上に恐れ忌避することは逆に自分を苦しめます。これは家族や友人を大切に思う気持ちであっても同じことが言えます。執着しすぎると相手を苦しめます。
しかし、執着心を捨てることは難儀なことです。はっきり言いまして、捨てられない。それが執着心なのです。だからこそ執り着いて離れないわけなのですが、無理ならばもう諦めるしかありません。「諦める」というのは聞こえが悪いですが、決して放り投げるということではありません。仏教では「諦める」=あきらかにする、という意味なので、自分自身の問題点をあきらかにすること、言い換えれば、捨てられないという自分の愚かさに気づいていくことになります。
気づきというものは、すべての宗教においてスタート地点になります。むしろ、それでもうゴールと言ってもいい。厳密に言えば仏さまによって気づかされているわけですが、あとのこともすべて仏さまにまかせてしまう。仏教において言えば、成仏までの道程をすべて仏さまにまかせ切るのが他力本願です。気づきがなければ人間的成長はありません。宗教の本当の存在意義は人間的成長の促進です。執着心を捨てられない自分であることに気づき、もがきながらも仏さまにまかせ、生きていきたいものです。
最後に命について、永遠の命を欲しても手に入らないのは誰しも理解しています。永遠の命を得るため、自分自身を機械化するというアニメ映画がありました。しかし作中においても、結局のところそれが幸せであるという描写はなされません。生まれ老いて病になり死んでゆくのが人だからです。機械化するということは、まさに人をやめることでもあったのでしょう。命には限りがあるからこそ尊い。私もそう思います。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
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「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」『平家物語』の有名な冒頭句です。祇園精舎とはインドにかつて存在した寺院で、正式には祇樹給孤独園精舎(ぎじゅ・ぎっこどく・おん・しょうじゃ)と言います。給孤独長者が祇陀太子の樹苑を買い取って、共同してお釈迦様へ寺院を寄進したそうです。今から二千年以上も昔の話です。
『平家物語』の作者は、平家の栄枯盛衰を目の当たりにして諸行無常を観じ、お釈迦様のいらっしゃる祇園精舎へ思いを馳せたのでしょうか。戦乱後の寺院に響く鐘の声がもの悲しさを誘い、遠く天竺インドへの憧憬の念を深めさせたのかもしれません。無常とは常がないこと、常に変わらぬ不変な存在などないのだという仏教の教えです。
ただ残念ながら祇園精舎に鐘はなく、インドでは哀愁ただよう鐘の声が響くことはなかったようです。寺院にある鐘は中国から伝わったと言われおり、奈良時代のものが現在も残されています。『平家物語』は作者不詳ですが、平家の盛衰を物語る内容からして早くとも鎌倉時代の作となります。鎌倉時代にあっても、インドの情報はほとんど中国経由で伝えられていたと思われますし、当時の日本人がインドの寺院にも鐘があるという想像をしたとしても責められません。なお、インド出身の僧侶として、奈良時代に東大寺大仏の開眼導師を勤めた菩提僊那(ボーディセーナ)がいますが、渡来する前は中国で活躍されていたようなので、おそらく鐘にも慣れてしまっていたのでしょう。
いずれにしましても、古来、日本の情感というものは諸行無常に敏感であったようで、たとえば散りゆく桜を見ても美しさを感じてしまうほどです。桜の花びらに諸行無常を観じ、虚しさのなかに美しさを見出すといったところでしょうか。栄華を誇った平家の敗れゆく姿に、敗者の美しさを感じ取ったのかもしれません。実際には源平の争いは庶民には迷惑以外の何物でもなかったとは思いますが、『平家物語』の冒頭からも、日本の軍記物語がこうした情感によって語られてきたことが分かります。まさに「盛者必衰のことわり(=理)」によって、人生の本当のところを伝えてくれていると言えましょう。
調子の良いときであっても驕らず、調子の悪いときも前向きに、必ずまた上り坂になるときは来るものです。平家の栄枯盛衰は歴史の彼方ではありますが、今なお歴史から学ぶことは多いと言えます。巨大な政治権力を手に入れても、奢り高ぶる者は決して世の中で長続きしません。必ず打倒されるものなのです。
『平家物語』は冒頭句に続いて、「奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」と語ります。盛者必衰、この理は現代でも当然あてはまります。
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わが家にはワン公と猫ちゃんがいます。猫ちゃんは叱っても知らんふりが多いのですが、ワン公にはある程度しつけをしたつもりです。粗相をしたりしますと、ダメだと言葉で言い聞かせつつ、お尻をひっぱたいていました。やや太っちょなので、あまり効果はないかもしれません。それでも本人は痛いからなのか、ほとんど粗相はしなくなりました。玄関のチャイムが鳴りますと、さあ仕事だとばかり吠えたてます。ある程度は玄関番で都合が良かったのですが、あまりにもやかましいので、これもお尻をひっぱたいてしつけをしていました。ただ、こちらはいっこうに効果がなく、今でも吠えまくっています。
ある時、娘が生物の先生から教えてもらったそうです。ワン公はひっぱたいても効果はなく、叱られることをしたら家族全員で部屋から出て、独りぼっちにさせると効果があるとのことでした。なるほど、原始的に体罰を下すよりも、心理的な方面から攻めるほうが効果はあるのかもしれません。身体的な痛みというものは一時的なものですよね。わが家のワン公に言葉の理解は難しいかもしれませんが、心で理解するとでも言うのでしょうか、納得させるほうがしつけの近道なのでしょう。痛いからやめるのではなく、家族に何やら叱られてしまった、態度も冷たくなった、さびしい、吠えないほうがいいかも・・・、という具合です。
心でちゃんと納得してもらえなければ、伝えたいことはちゃんと伝わりません。わが家のワン公と同じというわけではありませんが、これは教育や子育てにおいても言えます。心で理解するというのは、言い換えれば道理を知るということです。痛いからという感覚的な受け止めではありません。痛みはあくまでも身体的な神経伝達の問題なので、そこに心が介在することはありません。いわば反射です。痛いから言うことを聞く。ただそれだけです。痛みを忘れればまた繰り返します。効果が長続きしないのはそのためです。道理を知ることによって、心から納得することができる。誰でも合点がいかないのは嫌ですよね。
人は言葉を相互理解の一助として使っています。ワン公や猫ちゃんにも使いますし、まだ言葉を理解しない赤ちゃんであっても言葉で語りかけます。理解して欲しいからです。理解して欲しいという思いが言葉となり、心に伝わります。言葉を介さず心と心で直接伝え合うということもありますが、それは日常的には難しいでしょう。だからこそ言葉に心を乗せるのです。丁寧な言葉は理解を促しますし、心というものは案外合理的なものです。ちゃんと道理が通じてこそ、相手の心も受け取ることができます。なるほどね、と思えなければ誰しも座りが悪いでしょう。
言葉はすべてを伝え切れるわけではなく、事柄の一部を表現しているまでのものです。仏教では、言葉だけにとらわれてはいけないと説くこともあります。しかし、まずは言葉です。だからこそ経典も存在しています。経典はお釈迦様のお説法集なので、教えが言葉によって示されています。仏道を志す者は経典を勉強し、まずしっかりと教えの道理を知ることに努めます。最終的には以心伝心、つまり言葉はもう必要なく、心によって心に伝えるような間柄になるわけですが、そこに至るまでは長い道のりです。物事の筋道をしっかりと理解することができれば、その分だけ不満や不安は軽減されることでしょう。理解できなかったり、納得できなかったりするから不満であり、不安なのです。道理を知ることによって、少しでも自分にとって充実した人生を歩んで行きたいものです。無理矢理ではなく。
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「横に威勢を行じて人を侵易し、みづから知ることあたはず。」
横ざまに、横柄になり他人を侵害していても、自分でその事には気づいていない。他人ではなく、自分こそが愚かだという事に気づいていきたいものです。
出典:『無量寿経』巻下
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慚愧(ざんぎ)に堪えません・・・、どこかの国会中継で見聞きしたことのある言葉です。何となく難しい言葉遣いなので、教養があるようにも見える一方、問題を煙に巻く意図が見え隠れします。慚愧の慚とは自分を顧みて恥じ、愧とは他者にも恥じる心です。仏教では『俱舎論』や『成唯識論』といった論書に出てきます。慚愧に堪えないということは、恥じ入る心との葛藤に耐えられないということです。冒頭のような場合、とくに謝っているわけではないので注意を要します。悪かったね!ぐらいの意味合いだと思っていただいて良いでしょう。
しかし本来の意味を尋ねてみますと、社会人として持つべき心と言えます。昨今、車両運転中の交通トラブルが多く報道されています。いわゆる煽り運転です。なぜか運転中にはトラブルが多い。歩行中に煽ってくる人はあまりいないでしょう。いきなり喧嘩になってしまいますし、直接相対しているので互いに遠慮もあります。運転中であっても下車して来る輩もいますが、そのまま逃走してしまうケースが多いように思います。やり逃げや、言い逃げをしやすいのが運転中ですので、煽り主はとても気が小さいのでしょう。車載カメラが普及してもなお煽り運転をしてくるのは、いったいどういう感覚なのか分かりません。
煽り運転をして、カメラに見事収まってしまっている自分を見れば、なんと愚かな行動をしているのか分かることでしょう。恥ずかしい。なかには厚顔無恥な輩もいますが、多くの人はおそらく自分の行為に恥じ入るはずです。実は運転中ではなく、普通にしていれば社会人としてごく普通の人なのかもしれません。それがハンドルを握った途端、なぜか人が変わったように豹変してしまう。しかし、それでは困ります。いつでもどこでも、自分の行為は他者に見られています。仮に見られていなくとも、自分自身の心に見られています。自分に恥じ、他者に恥じる慚愧の心を忘れないようにしたいものです。
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