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宗の教え013 三類境を知って充実度アップ(その1)

日本人は幽霊話が好きなようで、日本ではお能や怪談など、幽霊が出てくるお話が多く伝わります。私も小学生の頃、心霊写真大図鑑などを友だちと見ては恐怖に慄いたものです。幽霊にも色々とあるようで、かつて父親に谷中の全生庵に幽霊画を見に連れて行ってもらいましたが、だいたい同じ構図とはいえ、表情は色々でした。また、私は中野にある哲学堂の近くで育ちましたので、幼少から頻繁に幽霊像を拝んでいたものです。哲学堂の哲理門には左右に天狗と幽霊が鎮座しているのです。なかなか怖いお顔立ちで、今でも思い出しては恐怖します。 
 
幽霊に対処するのは坊さんが多いようですが、私は正対したことがありません。そりゃまあ住職なので、普段、ほとんどお墓のなかで暮らしているようなものです。幽霊の1人や2人出会っても良さそうなものですが、そういう雰囲気はあるものの、残念ながら一度もお会いしていません。亡くなった祖父曰く、「お寺には仏さまがいらっしゃるから、みな成仏して幽霊はいないんじゃ」とのことで、幼い時分はそれで安心したものですが、今では小賢しくなったもので、「成仏したいからこそ、やって来ているのでは?」、とか屁理屈を考えてみたくもなります。 
 
では実際、仏教では幽霊をどう考えているのでしょう。ただ、仏教は論理的な教えだけではなく、様々な側面を持ち合わせていますので、幽霊を成仏させる方法とか、その実例ですとか、そういう実践的な面も含んでいます。すべてに渡ると収集がつかなくなるので、ここでは大乗仏教の教えに基づき、論理的にどう幽霊が解釈可能であるのか、すこし尋ねてみたいと思います。なお、ここで言う「幽霊」というのは、皆さんが思う「幽霊」で良いと思います。定義なんてないので、大雑把で良いのです。 
 
この世で死を迎えますと、つまり、自分の身体機能が終えますと、即座に次のステージが決まります。どう決まるかと言えば、自分自身のこの世での行為やその影響、さらに前世やそれ以前の世における行為やその影響も含めて、これを業と言うのですが、この業によって決まります。即座に決まるので、この世を名残惜しむ暇はなさそうです。「死」というものは、次のステージにおける「生」を意味します。「生」への準備が即座に始まります。それは往生浄土であるのか、それとも再び六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)をへめぐるのか分かりませんが、どこかの「生」にはなります。人でしたら、まずは自分のお母ちゃんになる人を探すとか、そんなように説かれることもあります。 
 
と言うことで、もし幽霊というものが、この世で亡くなった人であるならば、実は仏教では幽霊は存在し得ない、という何とも味気ない結論に至ってしまいます。幽霊には身体はありませんので、なぜか身体もなく心やその一部だけがこの世で見られる、という不可思議な現象ではあるのですが、そもそも、それも無理なわけです。怨念だけが残ったとか、ファンタジーの世界ではありがちな素材ですが、怨念も心の一部であり、たしかにそういう感情の記録も心には植えられますが、実はそういう負の心も含め、自分自身で背負わねばならない業であるので、それを切り離すことは出来ません。仏教では自業自得と言いまして、善いことも悪いことも、すべて自分自身が独りで受け持たねばならぬ、という鉄則があるのです。しかしまあ、何事もエラーはありそうですし、たまには即座じゃない人もいるかもしれませんし、お忘れものとかね。ちょっと色々と処理に時間がかかっちゃったとか。何かありそうですよね。 
 
次回へつづく

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え012 報恩謝徳で充実度アップ

如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし 
 
この和讃は、『恩徳讃』として親しまれている親鸞聖人御作の仏徳讃嘆です。私のような愚かな凡夫であっても、いえ、凡夫だからこそ如来は私に大悲を向けてくださる。そして、私に如来の大悲を気づかせてくださった先生方にも、とても大きな恩徳があるのだと。だからこそ、私の出来ることは「身を粉にして」、「骨を砕きて」報謝することであり、報恩謝徳こそ聖人の仏道なのだと看て取れます。 
 
私たちは多くの恩を受けて生きています。たとえば毎日の食事であっても、動植物の命をいただき生きているのが私たちです。しかし毎日というところに落とし穴があり、いつの間にか有難いことであっても、毎日毎日ではそれが「当たり前」になってしまう。私たちにはこうした手前勝手な心があります。あまりないことには感謝をしますが、毎日のことになると感謝を忘れてしまうのです。これではいけません。 
 
如来の大悲は、食事よりも頻度が高く休まる暇さえありません。如来は常に、休みなく私を導いてくださっています。頻度が高いので、これまた「当たり前」になりすぎまして、私たちはまったく気づいていません。これは仏教に限らず、神仏の力というものはそういうもので、あまりにも大きく包んでくださるので、愚かな私たちには見えてこないようなのです。ふとした日常を生きているとき、ありふれた日常であるからこそ、本来は大きく感謝していかねばならぬことでしょう。 
 
恩に報いる生き方とは、日常への感謝の気持ちから。有難う、有難いの気持ちを大切にしていきたいものです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え011 到彼岸で充実度アップ

昔、両親から「暑さ寒さも彼岸まで」と教えられましたが、気候変動なのか9月はお彼岸になっても暑いです。たしかに空気は秋なのですが、日差しは真夏と変わりません。かつては多少涼しくなっていく頃合いが、夏が終わったことを証明し、もの悲しいような雰囲気に包まれるのが秋のお彼岸でした。夏のお盆は亡き方がお帰りになるとのことで、別れのなかにも再会があり、家族でお仏壇のお飾りもいたします。一方、お彼岸はそうした賑わいも去り、秋の透き通った空気が大切な方との別れ、この世の無常を知らしめてくれもしました。ところがどうも今は暑くて、まだ夏かとも思えるほどです。 
 
さて「彼岸」とは「あちらの岸辺」ということで、いわゆる「あの世」を指しています。こちらの世界は「此岸」です。「こちらの岸辺」です。つまり、三途の川に隔たれた、あちらとこちらなのです。昔の人々にとって大河を渡るということは大変で、まさに命懸けであったことでしょう。大河の先は異文化であったかもしれず、そんなイメージが投影されているのかと思えます。仏教においては、「あの世」と言えば仏様のいらっしゃる浄土へ続いており、浄土そのものとも理解されます。浄土は「迷いの世」を超えているので、本来は浄土=「あの世」とは即座になりませんが、あまり固いことは言わないで良いでしょう。 
 
この世は迷いの世界なのだと言われます。この世の有様を見るならば、自分を含めて迷っている者ばかりです。戦争や犯罪が根絶されないことも、その根源を訪ねれば他者との共存の出来ない自己中心性に行き当たります。自己への執着心が戦争や犯罪の根源です。他者への攻撃性は、当然のことながら自己保全の裏返しだと言えるからです。彼岸に到ることを「到彼岸」と言いますが、浄土に到ることは自分も仏に成ることであり、それは「智慧の完成」とも言われます。「智慧」というのは「知恵」とは異なり、仏としての正しいものの見方のことです。「知恵」は人知であり、どうしても自己への執着がともない、完全に平等な見方とは言えません。自他平等、それこそが「到彼岸」なのです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その2

前回の続きとなります。 
 
なるほど、普段物事を考えているのは第六意識であっても、それとは別の第八阿頼耶識に
よって世界も私も成り立っているわけですから、たしかに思ったとおりにはならないはず
です。そしてまた、何らか衝撃的な縁によって、眼識に認識される対象が普段と異なる姿
を見せることもあり、たとえば小学生の時分であれば、友達と遊んでいまだかつてないほ
ど楽しかったり、学校で先生から猛烈にほめられたり、そういう衝撃的な縁が阿頼耶識に
可能性を植え付け、光り輝く川面を生じさせることもあるでしょう。世界も私も私自身の
心ではあるのですが、それらは意識だけではなく、意識よりも深い部分にある不可知なと
ころから生じているのであり、普段意識している事とは違った見せ方を生じさせることも
あります。ただし、あくまでも意識として知り得ることができないだけで、違った見せ方
であっても、それもまた私自身の心なのです。 
 
人生は思わぬ展開になる事も多いのですが、唯識という仏教的立場からすれば、自分が知
り得ていないだけで、すべて自分自身の可能性に基づいているということになります。も
ちろん、その可能性はこの世で生じたものばかりではなく、前世や前々世から持ち越して
きたものもあり、それが努力だけではどうにもならない生まれや境遇を直接生み出してい
るのですが、それでもなお、自分は可能性のかたまりなのだと言えます。いつもと変わら
ぬ川、言い換えれば、変化しそうにない状況にあっても、人は自らの思考や行動によって
いくらでも可能性を蓄えることができます。そして、その可能性はいつか発芽して花開き
、自分自身や状況を変化させることになります。願いというものは勝手にかなうわけでは
なく、願いに向けた努力が可能性となり、自らが願いを成就させていくものなのです。 
 
なお、私はもうかれこれ20年ほど前、30歳頃には妙正寺川近辺から引っ越しをしてお
りますが、その当時、すでに川はきれいになっておりましたので、最後につけ加えておき
たいと思います。合掌

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その1

風景というものは、何の変哲もないものに映ることもあれば、時には芸術作品以上に美しく映ることもあります。たとえば、今から40年以上前のこととなりますが、私は東京の神田川につながる、妙正寺川の近辺に住んでおりました。当時の妙正寺川はお世辞にもきれいとは言えず、生命がほとんど感じられない様子でした。今では水質改善がなされていますが、かつては神田川も場所によっては泡立っていたり(母校の獨協中学付近)、下水がそのまま流れ込んでいたかのようでした。 
 
普段、こうした川の流れを見てもまったく感動はしないものですが、なぜかある時、妙正寺川の川面が光り輝いていたことを記憶しています。小学生の時分だと思いますが、もしかしたら何か嬉しいことでもあったのかもしれません。昔のことで記憶が定かではないのですが、今でもはっきりと憶えています。 
 
妙正寺川の流れはいつもと変わりません、おそらく私の心が漫然とした普段とは異なる状況であったのでしょう。つまり、心のあり方によって、目に映る風景は違って見えることがあると言えそうなのです。私たちはごく当たり前に世界を感じ、その中に私が存在していると認めます。川や山、家や公園などは自分の外に存在しているもので、私たちの心とつながっているとは微塵も感じません。実際、私が思ったとおりに世界は回っていませんし、思いとは逆方向に現実が向かうこともしばしばです。しかし、私たちの心が、私たちが認め得る意識だけではないとしたら、これはどうでしょう。意識以外の心作用があり、それが現実を作り出しているとするならば、思ったとおりにならないこともあり得るかもしれません。 
 
大乗仏教では唯識と言いまして、世界も私も物理的に別在しているのではなく、世界も私も含めて、物事すべては眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識と第六意識・第七マナ識・第八阿頼耶識という七つの識を中心にして生じた事象であり、心のなかに認識対象と認識主体があるとする立場があります。もう少し掘り下げて言いますと、私たちが生活をしているこの地球、そして宇宙も含めた外的な環境世界、そして他でもない私自身は、知性である第六意識ではなく、潜在的とされる第七マナ識(自我意識)よりも、さらに不可知な第八阿頼耶識に植え付けられている種子(可能性)から生じたのです。その生じた事象を、たとえば眼識が認識して、さらに第六意識によって、これは「川」というように言語化していきます。認識対象と認識主体を合わせ持つ識のみが存在し、普段、外的に認めている世界は実在しません。これを「唯識無境(ゆいしきむきょう)」と言います。 
  
次回へつづく

 
 
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宗の教え009 中道を知って充実度アップ

 日本人は一般に勤勉だと言われています。耐え忍ぶということも昔からの美徳でしょう。苦しい状況にあっても、忍耐一本で取り組む姿勢が賞賛される傾向も感じられます。仏教でも「忍辱」(にんにく)や「精進」という徳目があり、屈辱や苦悩を耐え忍び(忍辱)、勇猛に歩みを進める(精進)ことを勧めています。私もこれらの言葉は好きです。人生には苦悩が多いことですし、耐えてこそ幸せを掴むことが出来ると思うからです。ああ、昭和時代のスポ根アニメを思い出します。少年時代、夕方はテレビにかじりつきまして、再放送アニメから「忍辱」や「精進」の素晴らしさを学んだものです(昭和48年生)。 
 とまあ、冒頭いきなり立派な展開となりましたが、実際にはまったくチャランポランに生きている側面が私にはあります。「面倒くさい病」とでも言いましょうか、何でも面倒くさいなあと感じてしまうのです。勤勉や忍耐というものは、美徳として賞賛されもしますが、裏を返せば多くの場合、実現不能だから賞賛されるとも言えます。スポ根アニメであっても、やはりアニメの域を出ないことも多いのです。日本人が勤勉や忍耐を好きなことは否定できませんが、往々にしてそんなに上手くいくものではありません。仏教においても、出来ていないから勧めているわけで、出来ていれば勧める意味はありません。 
 では私の実際に即して、チャランポランでダラダラと快楽を貪ることこそ人のあるべき姿なのでしょうか。結論から言えば、それはまったく違います。快楽もたまには良いですが、快楽に浸ってばかりでは前に進むどころか後退してしまいます。なぜならば、快楽とは問題解決を後回しにしているだけだからです。人生には取り組まねばならない問題が山積してします。これは誰にでも分かることです。後回しにすればするほど、問題は蓄積していくことでしょう。問題が雲散霧消することはないからです。 
 忍耐なのか、快楽なのか、さて正解はどちらかと言いますと・・・、実はどちらでもありません。どちらか一方だけに偏り過ぎることは、結局のところ拘りの泥沼にはまるだけだからです。忍耐も快楽も人生の目的にはなり得ませんし、これらはあくまでも手段であり、手段に拘っていては前進することが出来ません。仏教では「中道」(ちゅうどう)と言いまして、一方に偏らない真ん中の道を歩むべきと説きます。言い換えれば、ガス抜きのない生活は破綻するだけだと言うことでしょう。人は機械ではありませんので、忍耐強く生きたいと思うならば快楽を伴う休息が必要ですし、快楽の多い生活をしたいのであれば、時には忍耐強く勤勉することも必要です。お酒を飲む方であれば、働いたあとのビールを美味しいでしょう。あれです。 
 お釈迦様は苦行ばかりの修行ではなく、ましてや快楽主義に陥ることなく、仏道修行には瞑想を取り入れられました。心静かに自身を顧みること、そして何より、バランスよく一方に偏らない生活をしていくことの重要性を説いて下さいました。これが「中道」です。決してどっちつかずではなく、一方だけに拘らない自然な生き方なのです。

 
 
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宗の教え008 生住異滅で充実度アップ

私たちは、「時間というもの」は客観的存在であり、かつ、直線的に進んでいるものだと感じることが多いでしょう。過去から現在、そして未来へと進んでいき、決してループしたりすることはない。まさに川の流れのようなものです。私たちはこうした時間に身をゆだねており、あらがうことは不可能です。時には過去に戻ってみたい気にもなりますが、それは妄想であり非現実的です。あの時、ああしておけば良かったと思いましても、それはもうどうにもならないことなのです。 
 
 ところで、仏教では時間を客観的に捉えることはありません。むしろ主観的であり、自分という存在が変化し続けているから、現在という一瞬が連続したまでであり、そこに「時間というもの」があるかのように錯覚すると考えます。唯心と言いまして、環境世界はすべて自己の心によって描き出されているともしますので、心が動くから環境世界も動くということになります。環境世界と自分を二元的に捉えることはしません。 
 
そして自分という存在をより深掘りするならば、六道輪廻と申しまして、天界や人間界、はたまた地獄界など6つの世界をグルグルと廻っていると見ます。私たちも何回こうして廻ってきたか分かりません。色々な世界での生存を繰り返して今に至っているのです。生住異滅(しょうじゅういめつ)とも申しまして、生じて存在し変化して滅していくと説いています。自分も環境世界も、つまり宇宙も同じであり、この生住異滅を繰り返しています。何回目か分からないほどのことでしょう。 
 
このように仏教では、直線的ではなく円環的に物事の存在を捉えます。私たちは直線的な思考に慣れていますので、物事の原初や終末を想像したくなりますが、仏教ではグルグルしているので、その2点だけを拾い上げる意味はほとんどありません。もしかしたら、似たような境遇を何度も何度も繰り返しているのかもしれません。私たちは自分自身の人生は最初で最後だと思いがちですが、実際には微妙に異なる「自分」を繰り返しているだけかもしれません。そういう可能性がないとは言い切れないのです。 
 
 ただ、この繰り返しが永久かと申しますと、実は仏教の目的はそこにこそあります。輪廻は迷いの世界とも申しまして、私たちは真理に到達していないから、迷っているからグルグルと廻ってしまっています。迷いを断ち切ることができれば、この輪廻から解脱することができます。決して無意味な繰り返しをしているわけではありません。少しずつですが良い方向に向かっているので、あまり悲観的になることもないのです。 
 
苦しいことも多い人生ですが、実りあることに巡り合えたならば、それは真理に近づいているということなのでしょう。日々、できるだけ有難く過ごしたいものです。合掌 

 
 
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宗の教え007 生死一如で充実度アップ

死んだらどうなるのかなあ。私は小学生のころ、寝床で漠然と考えることがありました。宇宙の先はどうなっているのかという疑問とならび、小学生の私にとっては難問の双璧でした。考えていると怖くなりましたが、いつの間にか寝てしまっていたものです。もちろんいまだ完全解明には至っていないわけですが、これからも難しそうです。ただ、仏教の教えに触れてからというもの、あまり気にならなくなりました。死は大きな人生の区切りだと思いますが、仏教的視点で捉えればその怖さは薄らいでいったからです。 
 
死という概念は、そもそも生という概念がないと意味がありません。生も同じく、死という概念がないと意味がありません。と言うことは、生きるということは死があって成り立つので、私はすでに死をへて生きているとも考えられます。私たちは時間を客観的かつ直線的に捉えがちですが、仏教では主観的・円環的に捉えることが多いと言えます。つまり、生と死は一過性のものではなく、何度も繰り返されるものとされるわけです。これは宇宙についても言えることで、仏教では積極的に宇宙の終始を説くことはなく、むしろ繰り返しであることを強調します。 
 
私たちはいつか死を迎え、そして再び、いえ何度目か分からないほどの繰り返しのなか、また生きていきます。死は終焉ではなく、すなわち新たな生の始まりなのです。どのような生を迎えるのかは、その時にならねば分かりません。生と死は別々の概念ではなく、まさに表裏一体、一如、生は死があってはじめて生であり、死は生があってはじめて死なのです。もし仮に死がなければ、私たちは生きているという実感もなく、ただ「ある」だけの無味乾燥な存在に堕すことでしょう。このほうがよほど怖いと言えるのではないでしょうか。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
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宗の教え006 空を知って充実度アップ

仏教用語としての空は「そら」ではなく「くう」と読みます。読経のときに「くうくう」と聞こえるのは、この「空」が連続している箇所です。空とは簡単に言いますと、有るのでもなく、無いのでもないことです。この世の一切の森羅万象、物事は固定的に存在しているのではなく、つねに流動的に現象として存在していると見ます。直接的や間接的に何らかが因となり、同質であったり異質であったり何らかの結果を生み出す。その結果はまた何らかの直接的や間接的な因となり、別の何らかの結果を生み出します。流動的なのです。 
 
私たちは物事を感覚的に有ると認識しますが、このように考えますと、物事は有るようで無いのかもしれないと思えてきます。しかし実際にはたしかに感覚的には有るわけで、決して何も無いということではなさそうです。実際、空を体得することは難儀なことですが、大切なのは物事を固定的に捉えないということです。私たちの固定的な見方は、私たち自身を苦しめる原因になります。良い物事はいつまでも変わらずと願うものですが、それが叶わないと苦しい。であれば、そもそも、そう願わないほうが良さそうです。 
 
良いときであっても、すべては空なのだから流動的に捉えるべきであり、何かしらの原因で悪い方向に進むかもしれません。当然、悪いときであっても同じです。良い方向に進むかもしれません。瞬間瞬間で物事は移り変わっており、因果関係によってすべては現象として存在します。あっという間もない出来事です。言い換えれば、空を体得していなければ、その瞬間瞬間にまったく気づくことが出来ないということになります。 
 
1秒間に24コマとかの映画フィルムをイメージして下さい。動いているように見えるだけでしょう。本来、動きなんてどこにも無いのです。有るのはその瞬間のコマだけ。そのコマもあっという間に消滅、つまり動いているように見せる役割を終えて過ぎ去ります。ただし仏教ではもう少し複雑で、そのコマは心のある場所に蓄えられ、今後のコマを作る因になっていくと説きます。これは、物事はすべて自分自身の心によっているという唯心という考え方で、とくに大乗仏教では重視されています。 
 
空という捉え方は、必要以上に物事に拘泥しがちな私たちを諌めてくれます。物事にがんじがらめの現代人ですが、ときにはその束縛から離れてみるのもいいでしょう。物事なんてすべて空なのですから。 

 
 
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宗の教え005 他力本願で充実度アップ

他力本願と聞きますと、「他人まかせ」という意味合いが脳裏に浮かぶ方も多いかもしれません。しかしそれは派生的・二次的な意味合いで、本来は正真正銘の仏教用語です。仏さま(多くは阿弥陀如来)の本願力(ほんがんりき)によって、自分自身も成仏することを意味します。一般的な国語辞典においても、仏教用語としての説明が先にあると思います。もしそうでないならば、その辞典は学術的に問題ありですので使用しないほうが良いでしょう。 
 
さて、成仏とは読んで字のごとく仏と成ることですが、一般的なイメージと違って必ずしも死を意味するわけではありません。仏のさとりを得ることが成仏であり、それは原理的に言いまして、生前に成されることもあれば、死後に成されることもあります。ただ生前に成仏する(=さとりを得る)ことは極めて難しいことなので、普通は死後でということになります。こうした現実から、成仏=死というイメージが広がったのだと思います。 
 
そして、他力というのは他人の力ではなく、自分自身の力である自力に対し、仏さまの本願力を指し示します。仏教の教えは私自身の問題解決を目指しますので、実はあまり他人に関心があるとは言えません。あくまでも私と仏さま、仏さまと私という「一対一」の関係が重視されるわけです。自力で成仏に至ることが出来れば良いのですが、そのためには心を清浄にして、執着心を完全に捨てないといけません。この執着心というのが厄介なのです。 
 
執着は色々な場面で存在します。すべての執着が即問題だと言うわけではありませんが、経済的な事柄、名誉的な事柄、他人より優位でありたいと思うことは執着です。すこしでも自分を良く見せようとする、それはつまり自己への執着だからです。究極的には自分の命に対しても執着しています。死にたくないという気持ちは生物として自然ですが、死を必要以上に恐れ忌避することは逆に自分を苦しめます。これは家族や友人を大切に思う気持ちであっても同じことが言えます。執着しすぎると相手を苦しめます。 
 
しかし、執着心を捨てることは難儀なことです。はっきり言いまして、捨てられない。それが執着心なのです。だからこそ執り着いて離れないわけなのですが、無理ならばもう諦めるしかありません。「諦める」というのは聞こえが悪いですが、決して放り投げるということではありません。仏教では「諦める」=あきらかにする、という意味なので、自分自身の問題点をあきらかにすること、言い換えれば、捨てられないという自分の愚かさに気づいていくことになります。 
 
気づきというものは、すべての宗教においてスタート地点になります。むしろ、それでもうゴールと言ってもいい。厳密に言えば仏さまによって気づかされているわけですが、あとのこともすべて仏さまにまかせてしまう。仏教において言えば、成仏までの道程をすべて仏さまにまかせ切るのが他力本願です。気づきがなければ人間的成長はありません。宗教の本当の存在意義は人間的成長の促進です。執着心を捨てられない自分であることに気づき、もがきながらも仏さまにまかせ、生きていきたいものです。 
 
最後に命について、永遠の命を欲しても手に入らないのは誰しも理解しています。永遠の命を得るため、自分自身を機械化するというアニメ映画がありました。しかし作中においても、結局のところそれが幸せであるという描写はなされません。生まれ老いて病になり死んでゆくのが人だからです。機械化するということは、まさに人をやめることでもあったのでしょう。命には限りがあるからこそ尊い。私もそう思います。
 
 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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