逢坂の関

百人一首を暗誦されている方も多いでしょう。最近は映画の題材にもなっているようで、その人口に膾炙した存在は稀有なものです。私はもっぱら「坊主めくり」で腕を振るいましたが、情深い内容のものが多いなか、お坊さんの和歌はちょっと仏教色を出してピリッときます。

 

たとえば有名な蝉丸。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」と詠みます。私訳しますと、「これがまあ、行く人も帰る人もここで別れ、知っていようがいまいが別れていくという逢坂の関なのだ」(私訳)というような具合でしょうか。なんとも当たり前のことです。だから何だと思いたくもなるかもしれません。

 

しかし、どうでしょうか。人は好きな方とはずっと一緒にいたいと思うものです。いつか別れがあるとは分かっていても、情においては認めがたい。人は本来、諸行無常という移り変わりの世界を生きているものです。出会っては別れ、出会っては別れの連続なのですが、それに抗って生きているから生きづらい。

 

蝉丸が逢坂の関で何を思ったのかは具体的には分かりません。「別れ」から何を見たのでしょう。諸行無常を思うならば、移り変わりという点の連続こそ人生です。それを「逢坂の関」という有名な場所に置き換え、当たり前のようにサラリと詠んでみたのでしょうか。知らない人ともすれ違っていくのが私たちです。出会いとはまさに不可思議なものですね。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗教はそもそも必要なのでしょうか?

いきなり「宗教」と聞きますと、あまり良い印象を持たれない方もいらっしゃることでしょう。宗教団体による事件はまだまだ記憶に残っていますし、宗教をかたった詐欺が横行していたこともありました。宗教はなくても大丈夫だと思われている方も多いようです。戦後、日本は平和な国を築いてきておりますし、普段の生活も格段に便利な時代になりました。日常生活のなかで生死が問題になることも少なくなり、より快楽を求めることに価値が求められている時代になったとも言えましょう。

 

仏教では「生・老・病・死」(しょう・ろう・びょう・し)と言いまして、人生というものは皆に等しく4つの苦悩があると見ます。生まれ出ることは一般的には喜ばしいことですが、仏教では輪廻の結果、自らの業(行為とその影響)によって、人として迷いの世界が現れ出ているのだとします。そして、再び業を重ねながら老いていき、病気を患いながら死に至る。さらに輪廻を繰り返すことになれば、これは苦悩以外の何ものでもないと言うのです。う~む、たしかに的を射ています。最後に死を迎えるということは、これはもう万国、いえ万人共通なのですから。

 

便利で快適な世の中というものは、こうした人の持つ本質的なあり方を見えづらいものにする傾向があります。いつまでも健康に、いつまでも若々しく、というフレーズは巷に溢れています。簡単に健康が手に入るような気にもなりますが、現実はそうそう上手くいくものではないでしょう。元も子もない言い方になりますが、病気になるときはなりますし、死ぬときは死ぬのが人です。もちろん病気はある程度は予防することも可能ですが、それは絶対的なものではありません。日常生活が便利で快適であればあるほど、楽しみにばかり目がいってしまい、こうした現実に気づきにくくなることもありそうです。

 

宗教にはよく「目覚める」という言い方が使われます。仏教でも「覚り」と言いますし、これは今まで見えていなかったところが見えるようになることです。暗中模索であったところ、パッと日が差してくるようなイメージです。宗教の貴重なところは、何となく誤魔化していた自分を省みて、少しは現実を見つめようじゃないかと助言をしてくれるところです。そりゃもう仏教なんて2000年以上の歴史がありますから、毎度毎度同じようなことを繰り返している人のあり様なんてお手の物です。昔から人の中身なんて、そうそう変わるものじゃないでしょう。

 

人生を楽しむことは大いに結構なことです。しかし、宗教が言うように現実にも目を向けるならば、実はもっと人生は楽しくなることでしょう。なぜならば、誰しも迎えねばならぬ「老・病・死」について、早めに自分自身で考えておく余裕が出来るからです。もちろん、それで不老不死になるなんてことはありません。しかし、多少なりとも覚悟を持って生きることができれば、毎日が有難いという心持ちになってくるのではないでしょうか。休日は家でゴロゴロの人もいらっしゃるかと思いますが、有難くゴロゴロしていればいいのです。覚悟と言いましたが、あまり大袈裟なことではなく、これもやはり「目覚め」と言えます。限りある人生なのだということへの目覚めです。こうした意味において、私はやはり宗教は必要なものだと考えています。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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利他、そしてMen for others

人生の価値とは何でしょう。そもそも価値の有無なんて人生を語るに相応しくないとも言えますが、敢えて言えば、何に重きを置くべきなのでしょうか。何か歴史に残ることを成し遂げたいと考える方もいるでしょう。他方、ささやかな日常、それなりに幸せなら満足だと言う方もいるでしょう。人の数だけ思いがあって当然だと思います。

 

先日、先天性の症状を持たれている方のお葬式をしました。いつも明るく、家族で問題にぶつかったときも、いつも笑顔で、何度も助けられたとご遺族は語っておられました。一般的に言えば、こうした方と暮らしをともにするのは大変なことです。出生前診断が話題になることからも、大変なことだという認識が一般的であることが分かります。私も即座に大丈夫ですと答える自信はありません。

 

故人は歴史に残る何かを残したわけではありません。これは故人に限らず、実はほとんど大多数の人がそうです。しかし、ご遺族は本当に助けられたと、多くの笑顔をもらったと、そう私に語って下さいました。おそらく、ご家族としての苦悩は常にあったかと思いますが、それでもなお、自分たちがいかに大変であったかということではなく、明るさや笑顔をもらったことで心がいっぱいだと、だからこそ、感謝のためにお葬式をしっかり勤めたいと。

 

人に何かを与えていくことがいかに尊いことであるのか、改めて学ばせていただきました。お葬式のときには、「有難う、有難う」という言葉をよく耳にします。感謝の思いです。皆が心底感じるところなのだと思います。弔うということは、故人が極楽や天国に行けるように仕向けるためではありません。いただいたことに感謝をする場なのです。遺族のために必要な場であるとも言えましょう。

 

大乗仏教では利他、つまり他者を利する行いこそ最高の実践行とします。キリスト教でも隣人を愛せと説くでしょう。Men for others、他者のために生きる人であれ。これこそ宗教の普遍的な真理なのかもしれません。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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受動態と日本人の宗教的感性

I was surprised.(驚いた)。中学生はもちろん、私でも翻訳できる英語です。しかし日本人としては奇妙ですなあ。なんで受動態なんだろ。形容詞的用法とかありますが、単純にそう思います。たしかに「驚く」という行為は何か対象が必須です。驚くに限らず、感情は何であれそういうものでしょう。I was pleased.(喜んだ)やI was disappointed.(失望した)も同じです。何かに驚き、喜び、失望しているわけです。なるほど、確かに「驚かされて」、「喜ばされて」、「失望させられて」いますね。でも日本人としては、対象の存在をことさら説明する意図や、能動性を打ち消したい意図がないかぎり、受動態は使いません。

 

ところで、西行法師は「いつの間に 長き眠りの夢さめて 驚くことの あらんとすらむ」(私訳:いつになれば長い迷いからさめて、動じないでいられるのか。)と詠みますが、驚くことは自らの煩悩に由来していると見ているようです。この世は諸行無常であり、何があっても別段驚くようなことはないのだが、煩悩のあるままに眠りこけている私は、いつになったら真理に通暁することやら。

 

大乗仏教の多くが唯心論を展開していくことは以前述べましたが、西行もまた唯心的世界観を持っているのでしょう。心のあり方と外的世界に関係性を持たせていることが窺えます。また、仏教では一般に自業自得とも言いまして、自らの行為やその影響による結果は、最終的にはすべて自らが得ることになるとも説きます。一見外的な要因に見えることであっても、それは自らに由来すると捉えているわけです。

 

こうした思考が日本人一般に見られるかと言いますと、現代的には全くそんなことはないでしょう。しかし、現代日本語であっても、こうした仏教的世界観を通じて積み重なってきた用法を受け継いでいますし、そもそも、西行法師が詠んでいることであっても、何となく理解できる人は多いのではないかと思います。

 

また、日本人は一神教の宗教観を伝統的には持ちませんし、それも影響しているかもしれません。唯一神のような、超越的かつ外部的な何かの下に人があるとは思いにくいでしょうし、これは一般的とは言い難い。日本人一般において、何らかの導きによって「~されている」という感覚は、乏しいのではないでしょうか。もう一歩踏み込んで言いますと、日本人にはあまり受動的感性はなく、基本的にはすべて自己に由来するものとして受け止めている。主語を明確にしなくても意味が通じるのは、こうした感性に由るのかもしれません。

 

英語の受動態が一神教に関係するのかは分かりませんが、日本人が受動態を多用しないということには、以上のような宗教的事情も関係していそうです。普段、あまり自らを宗教的だと感じることのない日本人ですが、日本人の宗教的感性というものは、意識的に明確化されると言うよりも、無意識的でありながら、思考や生活に溶け込んでいるものなのでしょう。ただし、例外もありますので、それはまた次回お話させていただきます。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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風景を仏教的に考えてみると

私たちは宇宙という環境のなかに自分や他者がいると思っています。たしかに自分の意思が環境に及んでいるとは通常実感できませんし、むしろ厳格な境界線があるかのようです。しかし、こんな体験はないでしょうか。気分の良い日には何もかも美しく色映え、逆に気分の悪い日にはどんな風景も白黒に見える。落ち込んでいるときには、あまり風景なんて気にならなくなってしまいますよね。

 

こう考えますと、どうやら環境に自分の意識が反映されているかのようです。何もかも思い通りになったりする、というわけではないのですが、どこかに関係性があると言えなくもない・・・。

 

そもそも、環境というものは自分の感覚器官、たとえば目とか耳とか、そういう器官を通じて認識しているわけで、媒介を要していることは間違いありません。入れものとしての環境を感じることも、皮膚の感覚によるわけです。面白いことに、自分の意識が環境に接しているということではなく、あくまでも感覚器官が境界線になっているのです。

 

感覚器官からの信号によって環境を感じているのが私たちです。感覚器官がなければ環境を感じることはできません。目であれば、目からの信号を映像として認識しているのであり、これは環境から直接というよりも、自分自身の内的な受け取りと言えるかもしれません。さらに一歩踏み出して言えば、この映像を再び目が見ることによって、それをまた信号化して送ることになる。もとより外的な環境というものは存在せず、すべては内的な環境であったとも考えられそうです。

 

大乗仏教ではこうした事情に着目しまして、環境というものは自分自身に基づくものであり、外的な存在というものは現象に過ぎず、すべては虚構なのだと見ました。「諸行無常」と言いまして、すべての物事(諸行)は移り変わり(無常=常に同じではない)なのであり、そこに執着しても何も得るものはないと仏教では説きます。根強い執着心に対抗するため、固定的に見えたりするものであっても、それは単なる現象なのだと断ずるのです。

 

環境というものは、現象を自分自身が認識しているだけのものであり、自分が今、見たり聞いたり感じたりしているものは、他でもない自分自身の内部に由来するのかもしれません。だからこそ、気分の良し悪しに風景が関係していることもあるのでしょう。輪廻もこのように考えることが可能で、自分の心が悪しき心で支配されているのであれば、環境は自から地獄になってくるわけです。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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幽霊はいるのでしょうか?

ここまで3回にわたって前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

 

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

 

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

 

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬みが中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方が、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

 

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

 

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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前世と来世 ‐他力‐

仏教の歴史は2500年もあります。解脱の方法も様々に考案されました。日本にも宗派がたくさんありますが、違いはその方法に基づいているとも言えます。お釈迦様は瞑想によって解脱されましたので、瞑想するということが基本的な方法になります。しかし、瞑想というものは短時間ではあまり成果がなく、ある程度の長さと繰り返しが必要です。人にとりまして、同じことの繰り返しというのは面白いとは言い難いでしょう。スポーツ選手は練習を繰り返すわけですが、かなりの忍耐が必要なことは言うまでもありません。仏教でも忍耐は瞑想とともに修行の重要事項になっています。

 

念仏でありましても、たとえば何万回もとなえるという話もあります。たしかに念仏は短時間でどこでも出来るものですが、何万となると大変です。なぜ何万回という数字になるのかと言えば、これもやはり忍耐というものが課せられているからでしょう。それだけ頑張ったということなのだと思います。しかし、頑張れない場合はどうなるのでしょうか?

 

皆が等しく頑張れるのであれば、そもそも宗教なんて必要ありません。宗教の本質というものは、「頑張れない場合はどうしましょう?」というところ、つまり、人の本来持つ弱さを包み隠さぬところに由来します。勉強と同じことで、クラスの皆が等しく優秀であるならば先生は必要ありません。小中高の先生にとって大事なことは、クラスのなかの落ちこぼれを引き上げていくことでしょう。先生は多様な方法を示して生徒を導く存在です。仏教で言えばお釈迦様。お釈迦様は私たちの弱さを見抜かれ、たくさんの経典(説法)を残されました。出来の悪い生徒でも歩んでいけるような方法も含まれています。

 

その経典の1つに『無量寿経』というものがあります。簡単に言いますと、阿弥陀如来が上記のようなあまり頑張れない人々を救いとるという内容です。阿弥陀如来はお釈迦様のような先生という立場ではなく、むしろ母親のような存在です。こちらの出来具合の良し悪しに関わらず、むしろ出来の悪い私たちこそ救いの目当てとされるのです。このはたらきを他力と言います。

 

私たちは大海原で溺れかけているような存在です。実はそのまま力を抜けば浮かぶのですが、どうしても自分だけの力で何とかしようとするところがあります。阿弥陀如来はそんな私に対しまして、私が何をしようとも大海原のように大きく包んで下さいます。修行もままならず、死に向って恐れおののく私であっても、そのまま極楽浄土へ参らせていただけるのです。皆、母なる国土へ還っていくわけです。

 

宗教には救いが必要です。仏教は自分自身を厳しく観察することを要求すると同時に、こうした救いをテーマにもします。他力は解脱の方法の1つとして考えて良いものです。阿弥陀如来にすべてを任せるような思いに包まれるということは、言い換えるならば、真に自分自身の出来の悪さに気づかされたということでもありましょう。それでもなお、この世にいる限りは迷い続ける私たちですが、命尽きると同時に迷いも霧散し、解脱の境地に至ることが出来るというわけです。業の蓄積と発動は停止され、これ以上輪廻することもなくなります。この世での私という「意識」がどうなるのかは分かりませんが、おそらく大雑把に言えば、迷いの私ではない本来の私に還っていくのでしょう。

 

それがどういうものなのかは、私には分かりません。いずれにしましても、他力によって生かされているのが私という存在であるようです。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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前世と来世 ‐解脱‐

迷いの世界を生きている私たちは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を輪廻していると言われます。天でありましても、そこには快楽しかなく、やはり迷いから脱することが出来ていません。自分を顧みることがなければ、迷いの原因たる欲望を減らすこともままなりません。快楽ばかりでは、こうした機会を得ることは難しいでしょう。自らの際限なき欲望が苦悩を増やすわけですが、その因果関係に気づいていかなければ、結局は迷いの連鎖を断ち切ることが出来ないと言うのです。

 

しかしながら、自分のすがたを知るということは容易なことではありません。他者に嘘をつかないようにしても、無意識のうちに、自らに対して嘘をついてしまっていることありましょう。社会生活を送るなかにおいて、いつの間にか、自分にとっての理想的な自分を作り上げてしまっていることもあるようです。その虚構を守るため他者に攻撃的になり、対人関係において不具合を生じさせることもしばしばです。自分を知るということは、意外にも難しいことではないでしょうか。

 

仏教の修行者たちは、自らの心を瞑想によって観察してきました。どこに迷いの根源があるのか突き止めようとしたわけです。迷いを根絶することによって真理に通達し、転じて智慧を獲得することができます。智慧の獲得は業の蓄積を停止し、それによって輪廻からの解脱が達成されます。それが覚るということであり、仏を覚者とも言う所以です。智慧は世俗的な知恵とは異なり、先入観なくして物事を即座にあるがまま認識する作用です。虚構はすべて打ち払われます。

 

サラッと書きましたが、実際、こうした修行は極めて難しいことです。(次回へつづく)

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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前世と来世 ‐輪廻‐

よく簡単に前世や来世と言いますが、私どもの思惟を超えている事柄であることは間違いないでしょう。私との関係に測定可能な質量があるわけでもなさそうですし、実証することは不可能としか言いようがないからです。しかし、気になります。私はどこから来て、そして、どこへ行くのでしょうか?

 

仏教ではこうした実証不可能な心配事の解決策として、まずは思惟しないという方策を取ってきました。日常的な心配事の解決を優先するわけです。有名な「毒箭(矢)のたとえ」では、もし体に毒矢が刺さったならば、そのままの状態で毒矢の分析をするよりも、まずは抜いて治療を優先させよと説きます。つまり、今すぐに解決すべきことは前世や来世のことではなく、まずは日頃の思い煩いの除去に努めよと言うのです。

 

そうは言いましても、やはり生老病死の四苦とも言いますし、生死に関することは最も気になることでもあります。仏教はこの実証不可能な事柄について、様々な思い煩いを分析するなかで、1つの結論に到達いたしました。

 

インドには古くから「業」(ごう)という考え方がありまして、人の存在は「その人の行為やその影響」(=業)によって決まるとされます。仏教ではこの業は心に蓄積され、その発動によって、生まれる世界が決まるのではないかと考えたのです。業の考え方と心の存在を結びつけたわけです。

 

業とは今に言う「データ」であり、業によって心は成り立っています。そして、その心にさらに業が蓄積されていくのです。心は業に基づいた世界を現象させ、現世という今を私たちに見せているのです。きわめて単純化しますと、悪業によって悪なる世界が現象され、善業によって善なる世界が現象されます。つまり、世界は心によって成り立っているわけであり、地獄に落ちるというのは、悪業によって地獄世界が現象されるということを意味します。

 

私たちは「私」を主体的に考えがちですが、業こそが「私」としてのステージを作り出しているのであり、私とはそのステージを生きる「意識」に過ぎません。そうであるならば、前世や前々世といった過去にこそ私の原因はあり、さらに言えば、来世を現象させる業には今の私も含まれていきます。私の行為やその影響も原因となって来世は決まってくるのです。私という「意識」が続いていくのかと言えば、それは業として継続していくのでしょうが、こうした業の繰り返しを続けている限り、そのステージに適合した意識が発動されるのだと考えられます。この繰り返しを「輪廻」と言うのです。

 

ただし、仏教はこの輪廻から解脱する方法を究明します。 (次回へつづく)

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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仏のはたらき 十二光

一般的に「お経」と言いますと『般若心経』がとても有名です。『般若心経』は大乗仏教の空思想を簡潔にまとめたもので、空にもとづいた智慧の実践を説き明かします。智慧そのものに対する信仰も表現されていると言われ、大乗仏教の本道とも言える修行と信仰のエッセンスにより成り立っています。

 

ただし、日本仏教においては、『般若心経』をあまり用いない宗派もあります。日蓮宗や浄土真宗はもちろん大乗仏教ですが、『般若心経』とは多少距離があるでしょう。日蓮宗では大乗仏教の王とも言える『法華経』を最重視しますし、浄土真宗では阿弥陀如来のはたらきを明かす「浄土三部経」を最重視します。また、後者においては、その「浄土三部経」を元に作成された「正信偈」を普段読むことが多いようです。私も毎朝「正信偈」のお勤めをしています。

 

さて、正信偈のお勤めをしていますと、「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」という文言に行きあたります。正信偈は七言絶句の規則のなか、巧みに浄土の教えがまとめられています。だからでしょうか、声を出してお勤めするときには調子がいいのですが、内容をいただく際には難しさを感じることもあります。言葉が省略されていることもありますし、羅列だけということも多いからです。ここはそれほど難しい内容ではないのですが、阿弥陀如来の十二光についての知識がないと、ちょっと戸惑ってしまうかもしれません。

 

阿弥陀如来の十二光というのは、『無量寿経』巻上に説かれます無量光・無辺光・無碍光・無対光・燄王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光のことです。なるほど、こうして見ると冒頭の正信偈の文言に十二光が含まれていますね。阿弥陀如来は別名無量光如来とも言い表されることがありまして、凡夫を救いとるそのはたらきは、世界の隅々まで行き渡る光に譬えられることがあります。十二光のそれぞれを味わうことが出来れば良いのですが、ここでは最後の超日月光にスポットをあててみましょう。

 

光といえば太陽です。この宇宙で光り輝く存在と言えば恒星であり太陽系では太陽です。光の譬えが太陽によっていることは間違いないのですが、ここでは超日月、すなわち太陽や月を超えた光だとされているのです。私たちが普段触れているまばゆい太陽は、朝方に地平線から上り夕方には再び地平線に沈みます。一方、月は太陽の光を受けています。昼間はあまり目立つ存在ではなく、夜になると輝きを増していきます。いずれも太陽光であることに変わりはないのですが、地球上にいる私たちからしてみますと、公転や自転といった条件によって見え方は限定的になってしまいます。もとより太陽は常に光り輝いているのですが、私たちはこれが当たり前だと感じてしまっているのです。

 

日月を超えるということは、私たちの思い込んでいる普段のあり方を超えて、本来の太陽、いえそれ以上の存在だということを示していると思います。古来、太陽は世界のいたるところで強大な存在の象徴でした。しかし、その力強い太陽とはいえ、昼夜があることを考えれば無限のはたらきがあるとは言えません。地球上では光が届かない所も出てきてしまうわけです。しかも、この宇宙はどこまで行っても限定的です。私たちからすれば無限の広がりを持つように思える宇宙空間でさえ、果てがあると言われます。太陽も例外ではなく寿命の限られた存在です。燦然として力強い太陽でさえ無量の光を持つとは言えず、阿弥陀如来の存在はそれを超えているのです。

 

十二光のなかに難思光という名もありますように、阿弥陀如来のはたらきは人の思惟では理解し難いと言われます。人がいくら考えをめぐらせても、如来から見ればそれは凡夫の限定的な営みにすぎないと言えましょう。十二光の譬えをいただくとき、改めて私どもの有限性、凡夫性に気づかされる思いがいたします。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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※本記事は『寺報「やさしい法話」3月号(栗原智山、2016年3月)』に寄稿したものを一部再編集したものです。