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宗の教え007 生死一如で充実度アップ

死んだらどうなるのかなあ。私は小学生のころ、寝床で漠然と考えることがありました。宇宙の先はどうなっているのかという疑問とならび、小学生の私にとっては難問の双璧でした。考えていると怖くなりましたが、いつの間にか寝てしまっていたものです。もちろんいまだ完全解明には至っていないわけですが、これからも難しそうです。ただ、仏教の教えに触れてからというもの、あまり気にならなくなりました。死は大きな人生の区切りだと思いますが、仏教的視点で捉えればその怖さは薄らいでいったからです。 
 
死という概念は、そもそも生という概念がないと意味がありません。生も同じく、死という概念がないと意味がありません。と言うことは、生きるということは死があって成り立つので、私はすでに死をへて生きているとも考えられます。私たちは時間を客観的かつ直線的に捉えがちですが、仏教では主観的・円環的に捉えることが多いと言えます。つまり、生と死は一過性のものではなく、何度も繰り返されるものとされるわけです。これは宇宙についても言えることで、仏教では積極的に宇宙の終始を説くことはなく、むしろ繰り返しであることを強調します。 
 
私たちはいつか死を迎え、そして再び、いえ何度目か分からないほどの繰り返しのなか、また生きていきます。死は終焉ではなく、すなわち新たな生の始まりなのです。どのような生を迎えるのかは、その時にならねば分かりません。生と死は別々の概念ではなく、まさに表裏一体、一如、生は死があってはじめて生であり、死は生があってはじめて死なのです。もし仮に死がなければ、私たちは生きているという実感もなく、ただ「ある」だけの無味乾燥な存在に堕すことでしょう。このほうがよほど怖いと言えるのではないでしょうか。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え006 空を知って充実度アップ

仏教用語としての空は「そら」ではなく「くう」と読みます。読経のときに「くうくう」と聞こえるのは、この「空」が連続している箇所です。空とは簡単に言いますと、有るのでもなく、無いのでもないことです。この世の一切の森羅万象、物事は固定的に存在しているのではなく、つねに流動的に現象として存在していると見ます。直接的や間接的に何らかが因となり、同質であったり異質であったり何らかの結果を生み出す。その結果はまた何らかの直接的や間接的な因となり、別の何らかの結果を生み出します。流動的なのです。 
 
私たちは物事を感覚的に有ると認識しますが、このように考えますと、物事は有るようで無いのかもしれないと思えてきます。しかし実際にはたしかに感覚的には有るわけで、決して何も無いということではなさそうです。実際、空を体得することは難儀なことですが、大切なのは物事を固定的に捉えないということです。私たちの固定的な見方は、私たち自身を苦しめる原因になります。良い物事はいつまでも変わらずと願うものですが、それが叶わないと苦しい。であれば、そもそも、そう願わないほうが良さそうです。 
 
良いときであっても、すべては空なのだから流動的に捉えるべきであり、何かしらの原因で悪い方向に進むかもしれません。当然、悪いときであっても同じです。良い方向に進むかもしれません。瞬間瞬間で物事は移り変わっており、因果関係によってすべては現象として存在します。あっという間もない出来事です。言い換えれば、空を体得していなければ、その瞬間瞬間にまったく気づくことが出来ないということになります。 
 
1秒間に24コマとかの映画フィルムをイメージして下さい。動いているように見えるだけでしょう。本来、動きなんてどこにも無いのです。有るのはその瞬間のコマだけ。そのコマもあっという間に消滅、つまり動いているように見せる役割を終えて過ぎ去ります。ただし仏教ではもう少し複雑で、そのコマは心のある場所に蓄えられ、今後のコマを作る因になっていくと説きます。これは、物事はすべて自分自身の心によっているという唯心という考え方で、とくに大乗仏教では重視されています。 
 
空という捉え方は、必要以上に物事に拘泥しがちな私たちを諌めてくれます。物事にがんじがらめの現代人ですが、ときにはその束縛から離れてみるのもいいでしょう。物事なんてすべて空なのですから。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え005 他力本願で充実度アップ

他力本願と聞きますと、「他人まかせ」という意味合いが脳裏に浮かぶ方も多いかもしれません。しかしそれは派生的・二次的な意味合いで、本来は正真正銘の仏教用語です。仏さま(多くは阿弥陀如来)の本願力(ほんがんりき)によって、自分自身も成仏することを意味します。一般的な国語辞典においても、仏教用語としての説明が先にあると思います。もしそうでないならば、その辞典は学術的に問題ありですので使用しないほうが良いでしょう。 
 
さて、成仏とは読んで字のごとく仏と成ることですが、一般的なイメージと違って必ずしも死を意味するわけではありません。仏のさとりを得ることが成仏であり、それは原理的に言いまして、生前に成されることもあれば、死後に成されることもあります。ただ生前に成仏する(=さとりを得る)ことは極めて難しいことなので、普通は死後でということになります。こうした現実から、成仏=死というイメージが広がったのだと思います。 
 
そして、他力というのは他人の力ではなく、自分自身の力である自力に対し、仏さまの本願力を指し示します。仏教の教えは私自身の問題解決を目指しますので、実はあまり他人に関心があるとは言えません。あくまでも私と仏さま、仏さまと私という「一対一」の関係が重視されるわけです。自力で成仏に至ることが出来れば良いのですが、そのためには心を清浄にして、執着心を完全に捨てないといけません。この執着心というのが厄介なのです。 
 
執着は色々な場面で存在します。すべての執着が即問題だと言うわけではありませんが、経済的な事柄、名誉的な事柄、他人より優位でありたいと思うことは執着です。すこしでも自分を良く見せようとする、それはつまり自己への執着だからです。究極的には自分の命に対しても執着しています。死にたくないという気持ちは生物として自然ですが、死を必要以上に恐れ忌避することは逆に自分を苦しめます。これは家族や友人を大切に思う気持ちであっても同じことが言えます。執着しすぎると相手を苦しめます。 
 
しかし、執着心を捨てることは難儀なことです。はっきり言いまして、捨てられない。それが執着心なのです。だからこそ執り着いて離れないわけなのですが、無理ならばもう諦めるしかありません。「諦める」というのは聞こえが悪いですが、決して放り投げるということではありません。仏教では「諦める」=あきらかにする、という意味なので、自分自身の問題点をあきらかにすること、言い換えれば、捨てられないという自分の愚かさに気づいていくことになります。 
 
気づきというものは、すべての宗教においてスタート地点になります。むしろ、それでもうゴールと言ってもいい。厳密に言えば仏さまによって気づかされているわけですが、あとのこともすべて仏さまにまかせてしまう。仏教において言えば、成仏までの道程をすべて仏さまにまかせ切るのが他力本願です。気づきがなければ人間的成長はありません。宗教の本当の存在意義は人間的成長の促進です。執着心を捨てられない自分であることに気づき、もがきながらも仏さまにまかせ、生きていきたいものです。 
 
最後に命について、永遠の命を欲しても手に入らないのは誰しも理解しています。永遠の命を得るため、自分自身を機械化するというアニメ映画がありました。しかし作中においても、結局のところそれが幸せであるという描写はなされません。生まれ老いて病になり死んでゆくのが人だからです。機械化するということは、まさに人をやめることでもあったのでしょう。命には限りがあるからこそ尊い。私もそう思います。
 
 
 
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え004 諸行無常で充実度アップ

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」『平家物語』の有名な冒頭句です。祇園精舎とはインドにかつて存在した寺院で、正式には祇樹給孤独園精舎(ぎじゅ・ぎっこどく・おん・しょうじゃ)と言います。給孤独長者が祇陀太子の樹苑を買い取って、共同してお釈迦様へ寺院を寄進したそうです。今から二千年以上も昔の話です。 
 
『平家物語』の作者は、平家の栄枯盛衰を目の当たりにして諸行無常を観じ、お釈迦様のいらっしゃる祇園精舎へ思いを馳せたのでしょうか。戦乱後の寺院に響く鐘の声がもの悲しさを誘い、遠く天竺インドへの憧憬の念を深めさせたのかもしれません。無常とは常がないこと、常に変わらぬ不変な存在などないのだという仏教の教えです。 
 
ただ残念ながら祇園精舎に鐘はなく、インドでは哀愁ただよう鐘の声が響くことはなかったようです。寺院にある鐘は中国から伝わったと言われおり、奈良時代のものが現在も残されています。『平家物語』は作者不詳ですが、平家の盛衰を物語る内容からして早くとも鎌倉時代の作となります。鎌倉時代にあっても、インドの情報はほとんど中国経由で伝えられていたと思われますし、当時の日本人がインドの寺院にも鐘があるという想像をしたとしても責められません。なお、インド出身の僧侶として、奈良時代に東大寺大仏の開眼導師を勤めた菩提僊那(ボーディセーナ)がいますが、渡来する前は中国で活躍されていたようなので、おそらく鐘にも慣れてしまっていたのでしょう。 
 
いずれにしましても、古来、日本の情感というものは諸行無常に敏感であったようで、たとえば散りゆく桜を見ても美しさを感じてしまうほどです。桜の花びらに諸行無常を観じ、虚しさのなかに美しさを見出すといったところでしょうか。栄華を誇った平家の敗れゆく姿に、敗者の美しさを感じ取ったのかもしれません。実際には源平の争いは庶民には迷惑以外の何物でもなかったとは思いますが、『平家物語』の冒頭からも、日本の軍記物語がこうした情感によって語られてきたことが分かります。まさに「盛者必衰のことわり(=理)」によって、人生の本当のところを伝えてくれていると言えましょう。 
 
調子の良いときであっても驕らず、調子の悪いときも前向きに、必ずまた上り坂になるときは来るものです。平家の栄枯盛衰は歴史の彼方ではありますが、今なお歴史から学ぶことは多いと言えます。巨大な政治権力を手に入れても、奢り高ぶる者は決して世の中で長続きしません。必ず打倒されるものなのです。 
 
『平家物語』は冒頭句に続いて、「奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」と語ります。盛者必衰、この理は現代でも当然あてはまります。 
 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え003 道理を知って充実度アップ

わが家にはワン公と猫ちゃんがいます。猫ちゃんは叱っても知らんふりが多いのですが、ワン公にはある程度しつけをしたつもりです。粗相をしたりしますと、ダメだと言葉で言い聞かせつつ、お尻をひっぱたいていました。やや太っちょなので、あまり効果はないかもしれません。それでも本人は痛いからなのか、ほとんど粗相はしなくなりました。玄関のチャイムが鳴りますと、さあ仕事だとばかり吠えたてます。ある程度は玄関番で都合が良かったのですが、あまりにもやかましいので、これもお尻をひっぱたいてしつけをしていました。ただ、こちらはいっこうに効果がなく、今でも吠えまくっています。 
 
ある時、娘が生物の先生から教えてもらったそうです。ワン公はひっぱたいても効果はなく、叱られることをしたら家族全員で部屋から出て、独りぼっちにさせると効果があるとのことでした。なるほど、原始的に体罰を下すよりも、心理的な方面から攻めるほうが効果はあるのかもしれません。身体的な痛みというものは一時的なものですよね。わが家のワン公に言葉の理解は難しいかもしれませんが、心で理解するとでも言うのでしょうか、納得させるほうがしつけの近道なのでしょう。痛いからやめるのではなく、家族に何やら叱られてしまった、態度も冷たくなった、さびしい、吠えないほうがいいかも・・・、という具合です。 
 
心でちゃんと納得してもらえなければ、伝えたいことはちゃんと伝わりません。わが家のワン公と同じというわけではありませんが、これは教育や子育てにおいても言えます。心で理解するというのは、言い換えれば道理を知るということです。痛いからという感覚的な受け止めではありません。痛みはあくまでも身体的な神経伝達の問題なので、そこに心が介在することはありません。いわば反射です。痛いから言うことを聞く。ただそれだけです。痛みを忘れればまた繰り返します。効果が長続きしないのはそのためです。道理を知ることによって、心から納得することができる。誰でも合点がいかないのは嫌ですよね。 
 
人は言葉を相互理解の一助として使っています。ワン公や猫ちゃんにも使いますし、まだ言葉を理解しない赤ちゃんであっても言葉で語りかけます。理解して欲しいからです。理解して欲しいという思いが言葉となり、心に伝わります。言葉を介さず心と心で直接伝え合うということもありますが、それは日常的には難しいでしょう。だからこそ言葉に心を乗せるのです。丁寧な言葉は理解を促しますし、心というものは案外合理的なものです。ちゃんと道理が通じてこそ、相手の心も受け取ることができます。なるほどね、と思えなければ誰しも座りが悪いでしょう。 
 
言葉はすべてを伝え切れるわけではなく、事柄の一部を表現しているまでのものです。仏教では、言葉だけにとらわれてはいけないと説くこともあります。しかし、まずは言葉です。だからこそ経典も存在しています。経典はお釈迦様のお説法集なので、教えが言葉によって示されています。仏道を志す者は経典を勉強し、まずしっかりと教えの道理を知ることに努めます。最終的には以心伝心、つまり言葉はもう必要なく、心によって心に伝えるような間柄になるわけですが、そこに至るまでは長い道のりです。物事の筋道をしっかりと理解することができれば、その分だけ不満や不安は軽減されることでしょう。理解できなかったり、納得できなかったりするから不満であり、不安なのです。道理を知ることによって、少しでも自分にとって充実した人生を歩んで行きたいものです。無理矢理ではなく。
 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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今月の法語

「横に威勢を行じて人を侵易し、みづから知ることあたはず。」 
 
横ざまに、横柄になり他人を侵害していても、自分でその事には気づいていない。他人ではなく、自分こそが愚かだという事に気づいていきたいものです。 
出典:『無量寿経』巻下
 
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宗の教え 002 慚愧の心で充実度アップ

慚愧(ざんぎ)に堪えません・・・、どこかの国会中継で見聞きしたことのある言葉です。何となく難しい言葉遣いなので、教養があるようにも見える一方、問題を煙に巻く意図が見え隠れします。慚愧の慚とは自分を顧みて恥じ、愧とは他者にも恥じる心です。仏教では『俱舎論』や『成唯識論』といった論書に出てきます。慚愧に堪えないということは、恥じ入る心との葛藤に耐えられないということです。冒頭のような場合、とくに謝っているわけではないので注意を要します。悪かったね!ぐらいの意味合いだと思っていただいて良いでしょう。 
 

しかし本来の意味を尋ねてみますと、社会人として持つべき心と言えます。昨今、車両運転中の交通トラブルが多く報道されています。いわゆる煽り運転です。なぜか運転中にはトラブルが多い。歩行中に煽ってくる人はあまりいないでしょう。いきなり喧嘩になってしまいますし、直接相対しているので互いに遠慮もあります。運転中であっても下車して来る輩もいますが、そのまま逃走してしまうケースが多いように思います。やり逃げや、言い逃げをしやすいのが運転中ですので、煽り主はとても気が小さいのでしょう。車載カメラが普及してもなお煽り運転をしてくるのは、いったいどういう感覚なのか分かりません。 
 

煽り運転をして、カメラに見事収まってしまっている自分を見れば、なんと愚かな行動をしているのか分かることでしょう。恥ずかしい。なかには厚顔無恥な輩もいますが、多くの人はおそらく自分の行為に恥じ入るはずです。実は運転中ではなく、普通にしていれば社会人としてごく普通の人なのかもしれません。それがハンドルを握った途端、なぜか人が変わったように豹変してしまう。しかし、それでは困ります。いつでもどこでも、自分の行為は他者に見られています。仮に見られていなくとも、自分自身の心に見られています。自分に恥じ、他者に恥じる慚愧の心を忘れないようにしたいものです。 
 
 
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今月の法語

「女人を、子において母と称し、兄において妹といふがごとし。かくのごとき等の事、みな義に随ひて名別なり」 
 
名は対象の1つの側面しか示し得ません。この宇宙においてすべてです。名にとらわれず、物事の本質を大切にしたいものです。 
出典:『往生論註』巻上
 
善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え 001 少欲知足で充実度アップ

身長があと5センチ、顔はもっと精悍に、お財布の中身も減らない、食べて飲んでの贅沢三昧、体型も維持されてモテモテ路線まっしぐら・・・、個人的な願望です。50歳も近くなってきた最近はさほど思いませんが、若いころはこんな頭のなかでした、坊さんなのに。本能的と言うか何と言いましょうか、理性のかけらもなく欲望のままですね。恥ずかしい。少しは理性的でありたいと思いますが、人は理性よりも欲望が本質なのかもしれません。 
 
仏教では五欲と言いまして、人には眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官によった五つの欲望があると言います。また、私たちが住んでいるこの世界は欲界と言われまして、食欲・淫欲・睡眠欲の三欲があるとも言われます。他にも財欲・飲食欲・名欲、さらには恋愛対象への欲も盛んだそうです。・・・納得です。 
 
自分自身は言うに及ばず、テレビやネットも欲望で溢れかえっています。日常的な悩みの多くは人間関係のものだと言われますが、そもそも人に良く思われたいという欲がなければ悩みは減りそうです。生死に関わることでなければ、別に嫌われても何てことないでしょう。しかし欲望というものは私たちが生まれたときから保持されており、意思とは裏腹に勝手に作用してくることもあります。もちろん欲望にはこうした悪いものばかりではなく、善いものもあり、善悪に関わらないものもあります。ただ、やはり生きる上で困るのは悪いほうの欲であり、これを何とかすれば多少は生きやすくなるかもしれません。 
 
仏教には止観(しかん)という修行がありまして、心の動きを出来るだけ止めて、心に経論(お経とその解説論)の教えを描き観察するという仕組みです。欲望が自分の心に由来しているのは分かりやすいでしょう。止観によって欲望が生まれる原因を突き止め、消してしまおうとするわけです。この場合、この世の事柄をすべて心に由来させる唯識学派系統の経論が最適です。しかし、内容は非常に難しい。観察に至るまで教えを習得するのは苦難の道と言わざるを得ません。 
 
仕事もありますし皆が仏教の修行ばかりしているわけにもいきません。止観をして根本的に欲望を消そうと励むことは尊いことですが、そこまでしなくてもある程度は何とかなります。これは意外と簡単で、悪い欲望をなくそうとするのではなく、ちょっとだけ減らしてみようという心掛けだけでも大分違います。 
 
ただし、我慢するのではありません。日本人の美徳とも言えましょうか、我慢することは立派なことだと言われますが、実はあまり精神的に良いことではありません。我慢も元は仏教用語で、仏教では自分自身の慢心、思い上がりを指しています。一般的な意味合いとは正反対に価値づけされているわけですが、私たちの我慢にはたしかに慢心があります。我慢している自分は立派だと思ってしまえば、それは思い上がりです。思い上がりが膨れ上がりますと、むしろ欲望を増大させます。人によく思われたいという名欲(名誉欲)です。欲望は色々なところから顔を出してくるものなのです。 
 
このように欲望には原因があります。その原因を突き止めて消してしまうのが止観なのですが、そこまで行かずとも、原因を知っておくだけで効果はあると思います。たとえば名欲であれば、これは他者に褒められたい、良く思われたいという心の裏返しです。では何故こうして褒められて良く思われたいのかと言えば、少しでも他者より優位でありたいとする思いがあるからです。優位であればより気分良く生きることが出来そうです。いつでも上から目線で物事を判断できるからです。しかし、この気分の良さというものは、どうも偽物っぽいようにも見えます。名誉を保つことは大変なことですし、いつでも他者の存在を気にしていなければなりません。大変そうですよね。SNS疲れに通じても行きそうです。 
 
ところで、向上心と名欲の違いは何でしょう。向上心はより高みを目指す自分自身との闘いです。名欲はそこに他者との関係が入り込んできます。他者を意識することが減れば、色々と面倒くさいことも減るでしょう。あいつに負けたと思わなくて済むからです。人生は勝ち負けではありません。人生は自分自身の歩みであり、他者との比較で成り立っているものではありません。他者との関係によって自分も存在しているのですが、過剰な意識は百害あって一利なしです。良く思われたいという思いを少しでも減らしていけば、本当に気分が良くなってくることでしょう。 
 
少欲知足、「欲少なくして足るを知る」と経典には説かれます。欲望を完全に消すことは至難の業ですが、ちょっとだけにしておくことは出来そうです。時には相手にどう思われようが気にしない、何と言われようがいいではないか、という心掛けです。自分が思うほど他者は気にしていないという側面もあります。自意識過剰が恥ずかしい場合もあるでしょう。 
 
冒頭に書いた私の個人的な願望ですが、こんなの毎日実行していたら疲れますよね。下手に疲れるだけでまったく充実感はないでしょう。楽しみは数少ないから楽しみなわけで、毎日続けば苦痛でしかありません。人生に充実感をもたらす秘訣は、何事もほどほどに、かと言って頑なに我慢するのでもなく、ちょっと足りない程度が丁度良い、というところです。これなら止観せずとも大丈夫そうです。 
 
身長はピョンピョンはねても伸びませんし、顔はまあ、こんな感じです。身体は先祖からの遺伝要素が大きいので、如何ともし難いです。お金は減るから仕事に精進できるとも言えますし、だからこそたまに贅沢するのもいいのです。体型を保つためには運動しないといけませんし、運動すれば健康維持にもつながります。色々な人にモテる必要はそもそもありません。モテるモテないというのは、私たちの一大事である生死にはまったく関係ありません。お金や健康はそれなりに大事だなあとは思いますが、それ以外はよく考えると一大事ってことはまるでなく、結構どうでもいい事だと言えそうです。 
 
 

『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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新コラム 『宗の教え~生き抜くために~』連載開始のご案内

人の生死をたずねるコラムでは、この度、仏教を中心に様々な宗教の『言葉』というものを入りとして、この世を生き抜くための端緒をもとめていくテーマでの連載を開始いたします。 
 
宗の教え~生き抜くために~ 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。 
 

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