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宗の教え014 自業自得で充実度アップ

今回、タイトルだけを見ますと、あまり良い印象を持たれないかもしれません。「自業自得」という言葉は、一般的には悪い意味で用いられることが多いでしょう。「悲惨な結果になったのは自業自得」など、悪いことは自分の責任なのだという意味です。しかし、これはもともと仏教の言葉であり、「自分自身の行為(身体、言葉、心)の結果やその影響(→自業)は自分自身で得ることになる(→自得)」という意味なので、善いことも悪いこともすべて含まれています。善い行いをしたら善い結果が得られるという意味でもあります。 
 
ただ、善悪という概念は判定が難しいので、今回は善悪には触れず、自分自身の行為の結果やその影響は自分自身で得ることになる、という点に絞ってみたいと思います。 
 
今、自分はなんでこんな状況に置かれているのだろう、自分はなんでこんな境遇にあるのだろう、そもそも、なんで人として生まれてきのか、なんで自分という人格を得ているのか。たいてい人には不満があるものなので、なんでかなとその責任の所在を突き止めたくもなります。しかし、いずれも自業自得です。仏教の考えで捉えれば、生まれてこの方、してきたことはすべて自分自身の業によります。さらに言えば、どう生まれたのかも、どのような境遇で生まれたのかも、実は両親や先祖の責任ではなく自分自身の業によっているのです。もちろん、これは「前世」という生まれる前の自分のあり方、宗教的な考えに基づいてはいますが、自分が生まれてきたのは両親や先祖の責任にはならないのです。 
 
生きていますと、自分の意志とは反対の方向に事が流れていってしまうこと、よくよく遭遇いたします。おかしい、こんなはずじゃなかったのに、という具合です。人生の歩みは何でも意志通りになるわけではないこと、私たちは経験的に理解しています。ただ、自分の意志、つまり意識レベルにおいて、今まで自分の行ってきたことや自分で考えていたこと、すべてを管理して記録してあるかと言えば、そんなことはないでしょう。この世のことでもこんな程度なのですから、前世のことなんてまったく分かりません(もとより前世の記憶は、現世であるこの世には持ち越されません)。 
 
意識というものは、私たちのほんの一部に過ぎません。今現在の自分を構築するものという視点において、業こそが私の本質とも言えます。意識はあくまでも舵取りの役目であり、本質とまでは言い得ません。善いことをしようとしても、思わず悪い方向に行ったりすることもあるでしょう。そんなつもりはなくとも、そうなってしまうのは、自分の業によって物事が引き起こされているからです。舵が効かないこともあるわけですね。自分のあずかり知らぬことに思えても、自分に起きている事態はすべて自業自得によっているのです。思い通りにならないわけです。極端な言い方になりますが、人は死にたい時には死ねず、死にたくない時には思いがけず命を落としたりするものです。 
 
私たちは、こうした一見すると不条理かと思えるようななか、生きてゆかねばなりません。もしかしたら、不条理であることの説明のため、業という考えが生まれたとも言えるかもしれません。業のはたらきは科学的に解明できるような性質ではないので、存在の証明は出来ません。しかし、何事もまず自分自身の行為を顧みる必要性を説いています。何かと責任転嫁しやすい私たちですが、今ある状況で生きていかねばならぬこと、状況を改善させる可能性は自分以外にはいないこと、そして、だからこそ自分は大切な存在であり、かけがえのない尊厳を持っているのだということを、業という考えは私たちに伝えようとしているのだと思います。 
 
厳しい世の中ですが、自分に可能なことは前向きに取り組んでいきたいものです。出来ないことは出来ないで良いのです。それが自分の業なのですから。無理をするようなことではありません。これは「投げ出し」ではありません。諦めです。「諦める」ということは、実は自分の状況を「あきらかにする」という意味です。諦めることこそ肝腎です。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え013 三類境を知って充実度アップ(その2)

前回からの続きとなります。 
 
幽霊登場のお話や、幽霊画や幽霊像を見るならば、恨めしい思いを持って亡くなった人もいるだろう、怒りのなかで亡くなった人もいるだろう、大きな悲しみをこの世で懐いて亡くなった人もいるだろう、そういう「まだ生きている人の感情」の投影が幽霊という存在を形作ってきたことは想像に難くないことです。しかし、そうは言いましても、実際に幽霊を見たという話は、昔も今も尽きることがありません。幽霊が見える、という認識は精神医学や心理学の側面から解明できる場合も多いようですが、仏教においても、認識の対象(いわゆる五感や意識で認識可能なところ)を3種類に分けて解説していますので、そこに幽霊の正体を見出せるかもしれません。 
 
大乗仏教の唯識思想では、三類境(さんるいきょう)と言いまして、私たちが日常世界で認識している対象(=境)を、以下、3種類に分析します。 
 
①まずは「性境(しょうきょう)」と言いまして、言うなれば「実在」しているものです。主観に左右されずに客観的に存在しています。それ自身の本性を守って存在している、という意味です。日常世界における物理的存在です。 
 
②つぎは「独影境(どくようきょう)」で、これは逆に主観によって描き出された存在で、本性や本質というものがまるでありません。影像だけが独りで起きているので、幻覚とか幻聴といったものに該当します。物理的に存在していないのです。 
 
③最後に「帯質境(たいぜつきょう)」です。独影境は本性や本質がありませんでしたが、こちらは本性があり本質を帯びています。しかし性境のように、主観がその本性をしっかり認識できているかと言えば、ありのままに認識されているわけではありません。簡単に言えば見間違い、聞き間違いです。 
 
以上です。意外とシンプルに思われるかもしれませんが、この3種類を導き出す過程は複雑なものの、たしかにこれで十分だと言えそうです。では、幽霊はどこに当てはまるのかと言えば、①性境ではないのは確実なので、可能性としては②独影境か③帯質境になります。しかし、②独影境には本性がなく、そこには幽霊を幽霊たらしめるこの世への怨念や悲哀といった心の一部すら存在していないことになります。主観が勝手に作り出した幻であるため、これは精神医学や心理学で分析される事象に近いでしょう。だとするならば、巷で騒がれることの多くは③帯質境になります。 
 
夜中に境内にいれば、木々が幽霊に見えることは経験上よくあることですし、何となく薄気味悪い雰囲気を感じれば、何でも幽霊に見えてくるものです。心霊スポットもそうです。心霊スポットという触れ込みがあるからこそ、そこに行けば主観はそう物事を認識してしまう方向に誘導されるもので、幽霊はたくさん出現しそうです。主観は雰囲気に左右されるものなので、複数人であっても共通の雰囲気のなかにいれば、同じように見間違いや聞き間違いをする可能性もあるでしょう。仮に心霊スポットという看板がなくとも、今までの経験や知識の上から、何となく幽霊が出そうだなと感じてしまえば、幽霊の出現率は高くなると思います。幽霊が何故かだいたい似たような姿で伝わるのは、あらかじめ幽霊の姿が私たちにインプットされているからです。モデルはもちろん、ご遺体です。 
 
このように、大乗仏教の理論の上からするならば、幽霊存在の可能性はどんどん狭くなってきてしまいます。ただし、何事も完全に「ない」を証明することは困難と言われますし、上記の三類境であっても、もとより、幽霊の存在を分析するための教義ではありません。私が勝手にここで使用しただけなので、分析として不十分ではあります。では、もし三類境以外に幽霊が見えるという現象を尋ねるならば、それはもう真如、つまり仏さまからのはたらきかけに他ならないでしょう。たとえば亡父の幽霊かと思ったが、実はそうした姿で語りかけてくださる仏さま、幽霊だって仏さまとして、私を導いてくださる存在として捉えることも可能だと思います。私は、こうした幽霊は大いに信じています。父はちゃんと成仏して、敢えて幽霊になって戻ってきたとも言えるでしょう。有難いことです。 
 
幽霊とは、亡き方を思う気持ちにより成り立っている、亡き方を思わなければ、幽霊という存在はあり得ません。言い換えれば、幽霊は供養なのです。日本人は古来、それだけ人の死を悼んできたということでしょう。生死こそ、私たちの一大事だからです。 
 
幽霊に出遇ったならば、有難い気持ちで接したいものです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え013 三類境を知って充実度アップ(その1)

日本人は幽霊話が好きなようで、日本ではお能や怪談など、幽霊が出てくるお話が多く伝わります。私も小学生の頃、心霊写真大図鑑などを友だちと見ては恐怖に慄いたものです。幽霊にも色々とあるようで、かつて父親に谷中の全生庵に幽霊画を見に連れて行ってもらいましたが、だいたい同じ構図とはいえ、表情は色々でした。また、私は中野にある哲学堂の近くで育ちましたので、幼少から頻繁に幽霊像を拝んでいたものです。哲学堂の哲理門には左右に天狗と幽霊が鎮座しているのです。なかなか怖いお顔立ちで、今でも思い出しては恐怖します。 
 
幽霊に対処するのは坊さんが多いようですが、私は正対したことがありません。そりゃまあ住職なので、普段、ほとんどお墓のなかで暮らしているようなものです。幽霊の1人や2人出会っても良さそうなものですが、そういう雰囲気はあるものの、残念ながら一度もお会いしていません。亡くなった祖父曰く、「お寺には仏さまがいらっしゃるから、みな成仏して幽霊はいないんじゃ」とのことで、幼い時分はそれで安心したものですが、今では小賢しくなったもので、「成仏したいからこそ、やって来ているのでは?」、とか屁理屈を考えてみたくもなります。 
 
では実際、仏教では幽霊をどう考えているのでしょう。ただ、仏教は論理的な教えだけではなく、様々な側面を持ち合わせていますので、幽霊を成仏させる方法とか、その実例ですとか、そういう実践的な面も含んでいます。すべてに渡ると収集がつかなくなるので、ここでは大乗仏教の教えに基づき、論理的にどう幽霊が解釈可能であるのか、すこし尋ねてみたいと思います。なお、ここで言う「幽霊」というのは、皆さんが思う「幽霊」で良いと思います。定義なんてないので、大雑把で良いのです。 
 
この世で死を迎えますと、つまり、自分の身体機能が終えますと、即座に次のステージが決まります。どう決まるかと言えば、自分自身のこの世での行為やその影響、さらに前世やそれ以前の世における行為やその影響も含めて、これを業と言うのですが、この業によって決まります。即座に決まるので、この世を名残惜しむ暇はなさそうです。「死」というものは、次のステージにおける「生」を意味します。「生」への準備が即座に始まります。それは往生浄土であるのか、それとも再び六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)をへめぐるのか分かりませんが、どこかの「生」にはなります。人でしたら、まずは自分のお母ちゃんになる人を探すとか、そんなように説かれることもあります。 
 
と言うことで、もし幽霊というものが、この世で亡くなった人であるならば、実は仏教では幽霊は存在し得ない、という何とも味気ない結論に至ってしまいます。幽霊には身体はありませんので、なぜか身体もなく心やその一部だけがこの世で見られる、という不可思議な現象ではあるのですが、そもそも、それも無理なわけです。怨念だけが残ったとか、ファンタジーの世界ではありがちな素材ですが、怨念も心の一部であり、たしかにそういう感情の記録も心には植えられますが、実はそういう負の心も含め、自分自身で背負わねばならない業であるので、それを切り離すことは出来ません。仏教では自業自得と言いまして、善いことも悪いことも、すべて自分自身が独りで受け持たねばならぬ、という鉄則があるのです。しかしまあ、何事もエラーはありそうですし、たまには即座じゃない人もいるかもしれませんし、お忘れものとかね。ちょっと色々と処理に時間がかかっちゃったとか。何かありそうですよね。 
 
次回へつづく

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え012 報恩謝徳で充実度アップ

如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし 
 
この和讃は、『恩徳讃』として親しまれている親鸞聖人御作の仏徳讃嘆です。私のような愚かな凡夫であっても、いえ、凡夫だからこそ如来は私に大悲を向けてくださる。そして、私に如来の大悲を気づかせてくださった先生方にも、とても大きな恩徳があるのだと。だからこそ、私の出来ることは「身を粉にして」、「骨を砕きて」報謝することであり、報恩謝徳こそ聖人の仏道なのだと看て取れます。 
 
私たちは多くの恩を受けて生きています。たとえば毎日の食事であっても、動植物の命をいただき生きているのが私たちです。しかし毎日というところに落とし穴があり、いつの間にか有難いことであっても、毎日毎日ではそれが「当たり前」になってしまう。私たちにはこうした手前勝手な心があります。あまりないことには感謝をしますが、毎日のことになると感謝を忘れてしまうのです。これではいけません。 
 
如来の大悲は、食事よりも頻度が高く休まる暇さえありません。如来は常に、休みなく私を導いてくださっています。頻度が高いので、これまた「当たり前」になりすぎまして、私たちはまったく気づいていません。これは仏教に限らず、神仏の力というものはそういうもので、あまりにも大きく包んでくださるので、愚かな私たちには見えてこないようなのです。ふとした日常を生きているとき、ありふれた日常であるからこそ、本来は大きく感謝していかねばならぬことでしょう。 
 
恩に報いる生き方とは、日常への感謝の気持ちから。有難う、有難いの気持ちを大切にしていきたいものです。 

 
 
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え011 到彼岸で充実度アップ

昔、両親から「暑さ寒さも彼岸まで」と教えられましたが、気候変動なのか9月はお彼岸になっても暑いです。たしかに空気は秋なのですが、日差しは真夏と変わりません。かつては多少涼しくなっていく頃合いが、夏が終わったことを証明し、もの悲しいような雰囲気に包まれるのが秋のお彼岸でした。夏のお盆は亡き方がお帰りになるとのことで、別れのなかにも再会があり、家族でお仏壇のお飾りもいたします。一方、お彼岸はそうした賑わいも去り、秋の透き通った空気が大切な方との別れ、この世の無常を知らしめてくれもしました。ところがどうも今は暑くて、まだ夏かとも思えるほどです。 
 
さて「彼岸」とは「あちらの岸辺」ということで、いわゆる「あの世」を指しています。こちらの世界は「此岸」です。「こちらの岸辺」です。つまり、三途の川に隔たれた、あちらとこちらなのです。昔の人々にとって大河を渡るということは大変で、まさに命懸けであったことでしょう。大河の先は異文化であったかもしれず、そんなイメージが投影されているのかと思えます。仏教においては、「あの世」と言えば仏様のいらっしゃる浄土へ続いており、浄土そのものとも理解されます。浄土は「迷いの世」を超えているので、本来は浄土=「あの世」とは即座になりませんが、あまり固いことは言わないで良いでしょう。 
 
この世は迷いの世界なのだと言われます。この世の有様を見るならば、自分を含めて迷っている者ばかりです。戦争や犯罪が根絶されないことも、その根源を訪ねれば他者との共存の出来ない自己中心性に行き当たります。自己への執着心が戦争や犯罪の根源です。他者への攻撃性は、当然のことながら自己保全の裏返しだと言えるからです。彼岸に到ることを「到彼岸」と言いますが、浄土に到ることは自分も仏に成ることであり、それは「智慧の完成」とも言われます。「智慧」というのは「知恵」とは異なり、仏としての正しいものの見方のことです。「知恵」は人知であり、どうしても自己への執着がともない、完全に平等な見方とは言えません。自他平等、それこそが「到彼岸」なのです。 

 
 
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宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

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宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その2

前回の続きとなります。 
 
なるほど、普段物事を考えているのは第六意識であっても、それとは別の第八阿頼耶識に
よって世界も私も成り立っているわけですから、たしかに思ったとおりにはならないはず
です。そしてまた、何らか衝撃的な縁によって、眼識に認識される対象が普段と異なる姿
を見せることもあり、たとえば小学生の時分であれば、友達と遊んでいまだかつてないほ
ど楽しかったり、学校で先生から猛烈にほめられたり、そういう衝撃的な縁が阿頼耶識に
可能性を植え付け、光り輝く川面を生じさせることもあるでしょう。世界も私も私自身の
心ではあるのですが、それらは意識だけではなく、意識よりも深い部分にある不可知なと
ころから生じているのであり、普段意識している事とは違った見せ方を生じさせることも
あります。ただし、あくまでも意識として知り得ることができないだけで、違った見せ方
であっても、それもまた私自身の心なのです。 
 
人生は思わぬ展開になる事も多いのですが、唯識という仏教的立場からすれば、自分が知
り得ていないだけで、すべて自分自身の可能性に基づいているということになります。も
ちろん、その可能性はこの世で生じたものばかりではなく、前世や前々世から持ち越して
きたものもあり、それが努力だけではどうにもならない生まれや境遇を直接生み出してい
るのですが、それでもなお、自分は可能性のかたまりなのだと言えます。いつもと変わら
ぬ川、言い換えれば、変化しそうにない状況にあっても、人は自らの思考や行動によって
いくらでも可能性を蓄えることができます。そして、その可能性はいつか発芽して花開き
、自分自身や状況を変化させることになります。願いというものは勝手にかなうわけでは
なく、願いに向けた努力が可能性となり、自らが願いを成就させていくものなのです。 
 
なお、私はもうかれこれ20年ほど前、30歳頃には妙正寺川近辺から引っ越しをしてお
りますが、その当時、すでに川はきれいになっておりましたので、最後につけ加えておき
たいと思います。合掌

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
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宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その1

風景というものは、何の変哲もないものに映ることもあれば、時には芸術作品以上に美しく映ることもあります。たとえば、今から40年以上前のこととなりますが、私は東京の神田川につながる、妙正寺川の近辺に住んでおりました。当時の妙正寺川はお世辞にもきれいとは言えず、生命がほとんど感じられない様子でした。今では水質改善がなされていますが、かつては神田川も場所によっては泡立っていたり(母校の獨協中学付近)、下水がそのまま流れ込んでいたかのようでした。 
 
普段、こうした川の流れを見てもまったく感動はしないものですが、なぜかある時、妙正寺川の川面が光り輝いていたことを記憶しています。小学生の時分だと思いますが、もしかしたら何か嬉しいことでもあったのかもしれません。昔のことで記憶が定かではないのですが、今でもはっきりと憶えています。 
 
妙正寺川の流れはいつもと変わりません、おそらく私の心が漫然とした普段とは異なる状況であったのでしょう。つまり、心のあり方によって、目に映る風景は違って見えることがあると言えそうなのです。私たちはごく当たり前に世界を感じ、その中に私が存在していると認めます。川や山、家や公園などは自分の外に存在しているもので、私たちの心とつながっているとは微塵も感じません。実際、私が思ったとおりに世界は回っていませんし、思いとは逆方向に現実が向かうこともしばしばです。しかし、私たちの心が、私たちが認め得る意識だけではないとしたら、これはどうでしょう。意識以外の心作用があり、それが現実を作り出しているとするならば、思ったとおりにならないこともあり得るかもしれません。 
 
大乗仏教では唯識と言いまして、世界も私も物理的に別在しているのではなく、世界も私も含めて、物事すべては眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識と第六意識・第七マナ識・第八阿頼耶識という七つの識を中心にして生じた事象であり、心のなかに認識対象と認識主体があるとする立場があります。もう少し掘り下げて言いますと、私たちが生活をしているこの地球、そして宇宙も含めた外的な環境世界、そして他でもない私自身は、知性である第六意識ではなく、潜在的とされる第七マナ識(自我意識)よりも、さらに不可知な第八阿頼耶識に植え付けられている種子(可能性)から生じたのです。その生じた事象を、たとえば眼識が認識して、さらに第六意識によって、これは「川」というように言語化していきます。認識対象と認識主体を合わせ持つ識のみが存在し、普段、外的に認めている世界は実在しません。これを「唯識無境(ゆいしきむきょう)」と言います。 
  
次回へつづく

 
 
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宗の教え009 中道を知って充実度アップ

 日本人は一般に勤勉だと言われています。耐え忍ぶということも昔からの美徳でしょう。苦しい状況にあっても、忍耐一本で取り組む姿勢が賞賛される傾向も感じられます。仏教でも「忍辱」(にんにく)や「精進」という徳目があり、屈辱や苦悩を耐え忍び(忍辱)、勇猛に歩みを進める(精進)ことを勧めています。私もこれらの言葉は好きです。人生には苦悩が多いことですし、耐えてこそ幸せを掴むことが出来ると思うからです。ああ、昭和時代のスポ根アニメを思い出します。少年時代、夕方はテレビにかじりつきまして、再放送アニメから「忍辱」や「精進」の素晴らしさを学んだものです(昭和48年生)。 
 とまあ、冒頭いきなり立派な展開となりましたが、実際にはまったくチャランポランに生きている側面が私にはあります。「面倒くさい病」とでも言いましょうか、何でも面倒くさいなあと感じてしまうのです。勤勉や忍耐というものは、美徳として賞賛されもしますが、裏を返せば多くの場合、実現不能だから賞賛されるとも言えます。スポ根アニメであっても、やはりアニメの域を出ないことも多いのです。日本人が勤勉や忍耐を好きなことは否定できませんが、往々にしてそんなに上手くいくものではありません。仏教においても、出来ていないから勧めているわけで、出来ていれば勧める意味はありません。 
 では私の実際に即して、チャランポランでダラダラと快楽を貪ることこそ人のあるべき姿なのでしょうか。結論から言えば、それはまったく違います。快楽もたまには良いですが、快楽に浸ってばかりでは前に進むどころか後退してしまいます。なぜならば、快楽とは問題解決を後回しにしているだけだからです。人生には取り組まねばならない問題が山積してします。これは誰にでも分かることです。後回しにすればするほど、問題は蓄積していくことでしょう。問題が雲散霧消することはないからです。 
 忍耐なのか、快楽なのか、さて正解はどちらかと言いますと・・・、実はどちらでもありません。どちらか一方だけに偏り過ぎることは、結局のところ拘りの泥沼にはまるだけだからです。忍耐も快楽も人生の目的にはなり得ませんし、これらはあくまでも手段であり、手段に拘っていては前進することが出来ません。仏教では「中道」(ちゅうどう)と言いまして、一方に偏らない真ん中の道を歩むべきと説きます。言い換えれば、ガス抜きのない生活は破綻するだけだと言うことでしょう。人は機械ではありませんので、忍耐強く生きたいと思うならば快楽を伴う休息が必要ですし、快楽の多い生活をしたいのであれば、時には忍耐強く勤勉することも必要です。お酒を飲む方であれば、働いたあとのビールを美味しいでしょう。あれです。 
 お釈迦様は苦行ばかりの修行ではなく、ましてや快楽主義に陥ることなく、仏道修行には瞑想を取り入れられました。心静かに自身を顧みること、そして何より、バランスよく一方に偏らない生活をしていくことの重要性を説いて下さいました。これが「中道」です。決してどっちつかずではなく、一方だけに拘らない自然な生き方なのです。

 
 
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宗の教え008 生住異滅で充実度アップ

私たちは、「時間というもの」は客観的存在であり、かつ、直線的に進んでいるものだと感じることが多いでしょう。過去から現在、そして未来へと進んでいき、決してループしたりすることはない。まさに川の流れのようなものです。私たちはこうした時間に身をゆだねており、あらがうことは不可能です。時には過去に戻ってみたい気にもなりますが、それは妄想であり非現実的です。あの時、ああしておけば良かったと思いましても、それはもうどうにもならないことなのです。 
 
 ところで、仏教では時間を客観的に捉えることはありません。むしろ主観的であり、自分という存在が変化し続けているから、現在という一瞬が連続したまでであり、そこに「時間というもの」があるかのように錯覚すると考えます。唯心と言いまして、環境世界はすべて自己の心によって描き出されているともしますので、心が動くから環境世界も動くということになります。環境世界と自分を二元的に捉えることはしません。 
 
そして自分という存在をより深掘りするならば、六道輪廻と申しまして、天界や人間界、はたまた地獄界など6つの世界をグルグルと廻っていると見ます。私たちも何回こうして廻ってきたか分かりません。色々な世界での生存を繰り返して今に至っているのです。生住異滅(しょうじゅういめつ)とも申しまして、生じて存在し変化して滅していくと説いています。自分も環境世界も、つまり宇宙も同じであり、この生住異滅を繰り返しています。何回目か分からないほどのことでしょう。 
 
このように仏教では、直線的ではなく円環的に物事の存在を捉えます。私たちは直線的な思考に慣れていますので、物事の原初や終末を想像したくなりますが、仏教ではグルグルしているので、その2点だけを拾い上げる意味はほとんどありません。もしかしたら、似たような境遇を何度も何度も繰り返しているのかもしれません。私たちは自分自身の人生は最初で最後だと思いがちですが、実際には微妙に異なる「自分」を繰り返しているだけかもしれません。そういう可能性がないとは言い切れないのです。 
 
 ただ、この繰り返しが永久かと申しますと、実は仏教の目的はそこにこそあります。輪廻は迷いの世界とも申しまして、私たちは真理に到達していないから、迷っているからグルグルと廻ってしまっています。迷いを断ち切ることができれば、この輪廻から解脱することができます。決して無意味な繰り返しをしているわけではありません。少しずつですが良い方向に向かっているので、あまり悲観的になることもないのです。 
 
苦しいことも多い人生ですが、実りあることに巡り合えたならば、それは真理に近づいているということなのでしょう。日々、できるだけ有難く過ごしたいものです。合掌 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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宗の教え007 生死一如で充実度アップ

死んだらどうなるのかなあ。私は小学生のころ、寝床で漠然と考えることがありました。宇宙の先はどうなっているのかという疑問とならび、小学生の私にとっては難問の双璧でした。考えていると怖くなりましたが、いつの間にか寝てしまっていたものです。もちろんいまだ完全解明には至っていないわけですが、これからも難しそうです。ただ、仏教の教えに触れてからというもの、あまり気にならなくなりました。死は大きな人生の区切りだと思いますが、仏教的視点で捉えればその怖さは薄らいでいったからです。 
 
死という概念は、そもそも生という概念がないと意味がありません。生も同じく、死という概念がないと意味がありません。と言うことは、生きるということは死があって成り立つので、私はすでに死をへて生きているとも考えられます。私たちは時間を客観的かつ直線的に捉えがちですが、仏教では主観的・円環的に捉えることが多いと言えます。つまり、生と死は一過性のものではなく、何度も繰り返されるものとされるわけです。これは宇宙についても言えることで、仏教では積極的に宇宙の終始を説くことはなく、むしろ繰り返しであることを強調します。 
 
私たちはいつか死を迎え、そして再び、いえ何度目か分からないほどの繰り返しのなか、また生きていきます。死は終焉ではなく、すなわち新たな生の始まりなのです。どのような生を迎えるのかは、その時にならねば分かりません。生と死は別々の概念ではなく、まさに表裏一体、一如、生は死があってはじめて生であり、死は生があってはじめて死なのです。もし仮に死がなければ、私たちは生きているという実感もなく、ただ「ある」だけの無味乾燥な存在に堕すことでしょう。このほうがよほど怖いと言えるのではないでしょうか。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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