天皇親政を理想とし、実に二百五十年ぶりに政がその形へと回帰を見るに至り、後醍醐帝の思いがその政の持続へと向けられていくのは、元より定められていた流れなのかもしれませぬ。たとえ天皇親政ではないにしても、時は皇位継承者を持明院統と大覚寺統から交互に立てる決まりとなっておりました両統迭立の定めが続く世、後醍醐帝は実子に譲位し、そのまま上皇として院政を敷き治天の君となる、ということすらも立ち行きませぬ。己が理想とする政を、と願う帝の思いは憂いとなり、やがては両統迭立という縛りをもたらしている鎌倉幕府を倒す、ということにつながっていくのでございました。
長きに亘り北条得宗家が執権として権勢をふるう鎌倉幕府では、もはや憚る様すら見せぬ北条一門への偏重に加え、重なる負担や情勢不安は幕府をして多くの御家人からの支えを失わせるに十分なものでございました。
事の流れは様々伝えられておりまするが、倒幕の挙兵は、優勢であった鎌倉幕府側により一時鎮められたかに見えたものの、後醍醐帝の挙兵に呼応した楠木正成が河内国千早城にて幕府の大軍を翻弄し続ける戦ぶりは幕府側に厭戦の気運を生じさせ、倒幕の機運を熟させるものとなったのでございました。そして後醍醐帝の皇子の中でも武の人として知られる護良親王が再び挙兵、流刑地を脱した後醍醐帝の綸旨と、護良親王の令旨とが日の本に広く発せられたことは倒幕の気運を大いに高め、幕府方で北条得宗家と代々縁戚関係を結んできた武家源氏の名門、足利氏の当主・足利高氏(のちの足利尊氏)の幕府離反が転機となり、鎌倉からの討伐軍と京・六波羅探題は壊滅にいたりましてございます。さらに、関東で御家人新田義貞らが倒幕に応じ、北条得宗家を倒し、鎌倉幕府による支配を終わらせた後醍醐帝は、理想とする建武の新政を開くのでございました。時、元弘三年/正慶二年(西暦1333年)文月(7月)のことでございまする。
この時、出家し政の世界から身を引いていた北畠親房は、鎌倉幕府倒幕の動きにも関わっておらず、と伝わっておりまする。後宇多院政より朝廷の中枢に身を置いてきた齢三十八の親房には、この大きな時代の移り変わり、どのように映っていたのでございましょうか。
鎌倉幕府を倒し、理想とした天皇親政に邁進する帝でありましたが、還俗し自ら兵を率い転戦を続け、武の側面で父帝を支え続けた護良親王は、本来あれば勲功第一とされてもよい働き―建武の新政において征夷大将軍に任じられこそしましたものの、やがて自らに権力を集中させようとする父帝後醍醐の思惑、巧みに帝の信頼を得ていく足利尊氏との対立、そして実子に皇位を継がせたい後醍醐帝の寵后、阿野廉子の働きかけなどに翻弄され、父帝後醍醐との溝は深まるばかり、建武二年(西暦1334年)霜月(11月)には、鎌倉に流罪とされてしまうのでございました。
さて、建武の新政が始まり、一たびは隠棲しておりました北畠親房も再び政に参画いたします。ただ、親房はこの時すでに帝との溝が深まる護良親王派であったこともあり、政の中心とは少しばかり遠い立場であったとされておりまする。やがて東国武士の帰属、陸奥の支配を手堅くせんと欲する帝は、親房の嫡男、北畠顕家を従三位陸奥守に任じ、第七皇子義良親王を奉じて陸奥国多賀城へと下向させるのでございますが、この折、親房も共に陸奥へと随行するのでございました。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
<筆者紹介>
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら
親房もまた北畠氏の例にもれず、正応六年(西暦1293年)水無月(6月)の末、まだ生後半年ながら叙爵、従五位下の位に列せられ、長じて朝廷の政を執り行う側のひとりと定められたのでございます。律令制における官職と位階において位に当たる位階は、正一位から少初位下まで三十あり、一位から三位までは正と従が、四位から八位までは正、従に加えて上と下がございましたが、五位より上の位階がいわゆる貴族となり、家格によりてそこが序となるもの、そこまでは進めぬものとが厳然と隔てられておりました。やがて延慶元年(西暦1308年)霜月(11月)、親房は非参議従三位として公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら議政官。時代により異なるが、律令制における最高国家機関たる太政官において朝政に参画する高官、およびその任官資格を有するもの)に列せられ、延慶三年(西暦1310年)師走(12月)には参議に任じられたのでございます。時の帝は第九十五代となる花園天皇、伏見上皇を治天の君とする伏見院政の時代でございました。
伏見院政はその後、上皇出家に伴い花園帝の異母兄にあたる後伏見上皇(第九十三代・後伏見天皇)へと引き継がれ、正和二年(西暦1313年)から文保二年(西暦1318年)の間、後伏見院政の時代となっていくのでございます。文保二年(西暦1318年)如月(2月)、譲位により後宇多上皇(第九十一代・後宇多天皇)の第二皇子、尊治親王が践祚、第九十六代天皇に即位したのでございました。後に南北朝時代を迎え、南朝初代天皇としても知られる後醍醐天皇の時のはじまりでごさいます。尤も、これまでのように後宇多院政が敷かれ、即位から三年間、元亨元年(西暦1321年)治天の君たる後宇多上皇が隠居するまでは院政がつづきまするが、後宇多上皇が治天の君の座を退かれた後、後醍醐帝による親政が始まるのでございます。齢三十を過ぎての即位が実に二百五十年ぶりのことではありましたが、それだけではなく他にも様々伝えられてはおりまする諸々、是非は兎も角としても、ここに天皇親政が行われることとなったのでございました。
さて、後宇多上皇に仕え、その信任も厚かった親房は参議に任じられた後も要職に任じられ、益々頭角を現し、後宇多院政から続く後醍醐親政においても、必然重きを成して行ったのでございました。その信任の厚きこと、後醍醐帝の第二皇子にして、その聡明さから父帝後醍醐も行く末を期し、目をかけていた世良親王の乳父をゆだねられたことからもうかがい知ることができましょう。
こうして朝廷において重きをなす親房でしたが、はやり病の多かった元徳二年(西暦1330年)、病の床にあった世良親王は、持ち直すことなく儚くも薨去、病の重さゆえ遺言を書き記す力も残されていなかった親王は、最期に親房に遺命を託したとつたえられております。定かには判りえぬところではございますが、世良親王の宝算、二十くらいではと考えられておりまする。
親王の薨去を嘆き、親房は出家、政の世界からも身を引くのでございました。元徳二年(西暦1330年)、親房、齢三十八のことでございました。
世が大きく乱れ、討幕の動きがやがて鎌倉幕府を倒すほどのものとなりまする、世にいう『元弘の乱』に一連する戦の端緒となる笠置山・下赤坂城の戦いは、翌元徳三年(西暦1331年)長月(9月)のことながら、それを然と描けているものなど、未だ誰もおりませんでした。
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
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伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
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飛鳥時代の終わりごろよりはじまりました中央集権国家の実現への取り組みの中、国を統べるあり方を律令制へとうつしていく朝廷は、やがて諸国をその持てる力毎に、大国、上国、中国、下国の四つの段階に分けることをいたしました。平安時代中期、延喜式が策定されました折には、次に挙げまする十三の国が、最も上位である大国とされておりました。
大和国
河内国
伊勢国
武蔵国
上総国
下総国
常陸国
近江国
上野国
陸奥国
越前国
播磨国
肥後国
その内、上総、常陸、上野の三国は親王任国、すなわち親王が国司に任じられる様定められた国であり、大国の中でも格別のものでございました。尤も、親王が国司として下向して治めることはせぬ遥任でありましたことから、これら親王任国では、次官である介が事実上の長として統治にあたりました。
時が下り、朝廷が任ずる国司の職が有名無実のものとなっても、上総守や上野守に任じられる武士はおらず、上総介や上野介に限られていのはこのためでございます。
その大国のひとつ、伊勢国に南北朝時代より勢力を保ち戦国時代まで主であり続けたのが北畠氏でございます。
村上源氏の流れを汲む北畠氏は、村上源氏宗家である久我家から鎌倉初期に分かれた中院家の家祖、中院通方の次子、雅家が洛北にある北畠(今の京都御苑の北辺り)に移り住み、北畠を称したことにはじまりまする。和漢の学をもって代々仕えた北畠氏は、二歳、三歳、あるいはさらに早く叙爵するなど厚く遇されておりましたが、天皇から見て私的に近しい臣下であったことによると考えられております。
後嵯峨天皇以降、大覚寺統との関係が深かった北畠家でございますが、鎌倉時代終わり頃の当主、
北畠 親房は、文永九年(西暦1272年) 後嵯峨上皇が崩御、後継を定めぬままにただ次代の治天の君は鎌倉幕府の意向に添うように、との遺志だけが示されたことにはじまる両統迭立の混乱を経て、南北朝時代、後醍醐天皇(大覚寺統/第九十六代の治天の君にして、南朝初代の帝)の建武の新政を中心的な立場として支えるひとりとなり、そしてその血筋は伊勢北畠氏の基へと続いていくことになるのでございます。
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伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
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一条房基が命を絶つ天文十八年から遡ること六年、天文十二年(西暦1543年)、房基の嫡男として、一条兼定は土佐国幡多郡中村に生を受けたのでございます。
室町の幕府は十二代将軍、足利義晴の時代、ただ依然勢力争いが絶えず、もはや幕府権威の象徴として担がれ、時に畿内を転々とせざるをえない存在となってしまいました将軍家にもはや全国を統べる力はなく、戦乱の世の様相は日の本全てにおいてより深まるばかりでございました。折しも、種子島に鉄砲が伝来したのもこの年のことでございます。
そのように乱れた世にあって、土佐一条家の四代目当主となるべくして生まれた兼定。父房基が突如命を絶ち、兼定には土佐中村の地で悠揚と幼年期を過ごしながら当主としての在り方を学ぶこと、時勢が許さぬものでした。
天文十八年(西暦1549年)卯月(4月)、齢七で家督を継ぎました兼定は、大叔父にあたる一条房通(土佐一条家二代当主・房冬の弟)の猶子となり上洛したのでございます。
応仁の乱に際し家領である土佐国幡多荘に下向した一条教房の実弟で、教房の土佐在国に伴い兄、教房の養嗣子となって家督を継いだ一条冬良に子が無かったことから、冬良が兄、教房の孫にあたる房通を婿養子にして家督を継がせており、天文十六年(西暦1547年)には房通は関白となっておりました。土佐一条家の重臣等としても、事ここに至っては京の一条宗家の力を恃みとするよりほかなし、という思いあってのこととは想像に難くないところではございますが、それより遡り、まだ房基存命の折から、土佐一条家の若年当主を支えるべく、房通は天文十二年頃には土佐に下向し、一時当主に代わり政務を執っていたと伝えられており、房通を恃みとするのは当時の関係性からもごく自然なことであった様でござりまする。
京の房通の下で暮らす間に兼定が多くに触れたであろうとは思われながらも、未だ幼年であり、且つまたその身は土佐一条家の家督、おそらくは京での政争の有様などとはやはり縁遠い時の中で、兼定の人となりは形づくられたのかもしれませぬ。弘治二年(西暦1556年)房通薨去の後に元服、房通の跡を継いだ一条兼冬より偏諱を受け、一条兼定と名乗ることとなったのでございます。そして同年、若しくは翌弘治三年にかけて土佐中村に下向、いよいよ土佐一条家当主として政に向き合う時を迎えるのでございました。
長く土佐七雄の盟主という形で土佐中村の地より周辺をまとめてきた土佐一条氏でございましたが、相次ぐ当主の交代、それに続き幼少の当主が京に在ることで当主在国すらあらぬことは、たとえ平時であったとしても土佐一条氏の求心力を下げる基となったことでございましょう。況や世は乱れ、何れもが折あらばと己が勢力を伸ばす機会を虎視眈々と窺う中、勢力図が描きかえられることにさほど長い時を要するものではございませんでした。
かつて土佐七雄の中で没落し、居城の土佐岡豊城をも追われた長宗我部氏。一条房家の保護と扶けを得て長宗我部家の再興を果たした長宗我部国親は勢力を拡張、永禄三年(西暦1560年)に没すも、跡を継いだ元親は父国親の遺志を継ぎ巧みな結びつきと戦とでやがて他の六雄を従えるほどになるのでございます。
一方、土佐中村に在る兼定は、永禄元年(西暦1558年)伊予大洲城を本拠とする宇都宮豊綱の娘を娶るも、永禄七年(西暦1564年)には離別、豊後の大友義鎮の長女を娶り大友氏と結ぶなど外交を展げておりました。なれど兵を出せども捗々しい拡がりがないばかりか敗退を重ね、また京の一条宗家とも疎遠となっていくなど、次第に勢いを削がれていく土佐一条家でございました。
勢いを増す長宗我部家の侵食は止められず、何ら打開策も見いだせずにいる中、兼定は一門でもあり、家中筆頭格として家臣をまとめる知勇兼備の土居宗珊とその一族を断罪してしまうのでございました。したがこれは長宗我部側の策略によるものともされており、あろうことか兼定は無実の罪で家中の大きな力を自ら切り捨ててしまったばかりか、その行いにより家中の信望をも失っていくのでございます。元亀三年(西暦1572年)のことでございました。
翌年、天正元年(西暦1573年)長月(9月)には、残る三家老ら重臣により隠居を強いられ、天正二年(西暦1574年)如月(2月)には中村御所を出て、岳父である豊後の大友宗麟を頼っていったのでございました。尤もこれは、もとより土佐一条家中だけで謀られたことではなく、長宗我部元親と、京から下向していた一条宗家当主、一条内基との間での遣り取りを経て一条内基の諾意があり、進められたことと考えられておりまする。
土佐一条家は、内基が兼定の嫡子元服を執り行い、偏諱を与えた一条内政に継がせておりますものの、既にして実はなく、傀儡となったものでございました。
さて、キリシタン大名としても知られる大友宗麟の下へ身を寄せていた兼定は、豊後の地で洗礼を受け、キリシタンとなったのでございます。洗礼名ドン・パウロ。兼定なりの純真な思いがあってのことでございましょうか、幡多郡の奪回とあわせて、キリスト教宣布をも目指して動き始めた兼定は、幡多郡の宿毛あたりにキリスト教を伝える拠点を築くことも命じていたといわれておりまする。
こうして一度は追われたものの、天正三年(西暦1575年)兼定は再起を計り大友氏の扶けを借りて土佐へと兵を進めるも、四万十川の戦い(渡川の合戦)で大敗、敗走、土佐国は長宗我部家により統一されたのでございました。
その後、兼定は宇和海の戸島に隠棲いたしますが、再起を計りながらも、成し得なかったということが事実と言い得るかと思います。火種を残したくない元親は一計を案じ、かつて兼定の側近であった入江左近を刺客として兼定のもとに差し向けたのでございます。深手を負いながらも何とか一命を保つことができたのは、兼定にとってはむしろ幸いであったのかもしれませぬ。伝わるところによれば、深手を負い、不具の身となってしまった兼定は、豊後から送られて来るキリスト教の書物に親しみ、慰められ、深く信仰に生きる余生を過ごしたそうでございます。天正九年(西暦1581年)に兼定を見舞ったイエズス会司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノも兼定の深い信仰心と信仰生活を感嘆とともに伝えております。
深い傷を負い、身も不自由になりながらも、信仰に満ち溢れた時を過ごした兼定は、天正一三年(西暦1585年)七月一日、齢四三歳で天に召されたのでございます。
家柄や立場に縛られ、好むと好まざるとに関わらず果たすべき役割を決められてしまう時代、社会において一条家に生を受けた兼定には、違う何かを選び取るということは許されぬものでございました。晩年、信仰の中に身を置いた兼定が、最も自身が自身でいられた時であったのかもしれませぬ。戦乱の世であっても、もし文芸や技芸を家技、家職とする家に生まれていたら、嫡流の重責を背負わされることのない立場であったならば、あるいは歴史に刻まれたものとは異なる、兼定らしさが存分に現れる生き方というものに出逢えていたのやもしれませぬ。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
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大永二年(西暦1522年)一条房冬の嫡男として誕生した一条房基。享禄三年(西暦1530年)にわずか齢九つで従五位下に叙爵、そして享禄五年(西暦1532年)には右近衛中将に任官と、まだ幼き頃より官位を進めていったのでございました。中央とのつながりも重んじ、外交に長けた父、房冬の働きかけによるものであったと、想像に難くないことではございますが、その後も位階を進め、天文九年(西暦1540年)には、従三位に叙せられ公卿に列することとなるのでございました。官は既に就いておりました右近衛中将でしたので、一条三位中将となったのでございまする。
翌天文十年(西暦1541年)には阿波権守の官も兼ねることになりますが、その年の霜月(11月)には父、房冬が薨去、房基は若くして土佐一条家の家督を継ぐこととなるのでございました。
土佐一条家は、初代房家亡き後、わずか二年で二代房冬が世を去り、その結果まだ若い房基が三代目を継いだばかりでは、家中も必ずしも静穏ではなかったかもしれず、また乱れ乱される隙もどうしても目につきやすい時期ではなかったかと考えられます。しかしながら、房基はよく家中をまとめ、土佐東部や南伊予へ兵を進めております。尤も、結果的に一条家の勢力圏を拡げることにつながったとは雖も、降りかかる火の粉を払いのけるためであったり、縁戚関係にある豊後大友家の求めに応じての出兵であったりと、此方から仕掛ける類の戦ではなかったのでございまする。当主が相次いで代わることを余儀なくされた土佐一条家でしたが、これまでに打ってきた布石は功を奏し、房基の動きを扶けることにもつながったのでございます。
よく家中をまとめあげ、兵を動かし、土佐一条家の勢力圏拡大に努めるなど武に優れた観のある房基でしたが、摂関一条家当主であり、叔父にあたる一条房通に一条家秘蔵の有職故実書である『桃華蘂葉』の写本手配を願い、また、初代房家が三条西実隆に書写を願い出て土佐一条家に伝わった『伊勢物語天福本』の奥書に房基の花押があり、親しく触れていたことも伺い知られ、文芸にもまた親しむ、文武に秀でた当主であったことが伺い知れまする。
こうして房基の治世が続き、勢いを増すやに思われた土佐一条家。なれどそれが続くことはなく、天文十八年(西暦1549年)房基は突如として自ら命を絶ったと伝えられております。享年二十八、その真偽のほどは杳として知れず。世は戦乱の時、桜の花見頃を過ぎようという頃でございましょうか、土佐一条家を率いる若き当主が世を去り、混乱の足音が聞こえてくることを否とは言い切れぬ、卯月の土佐中村でございました。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
<筆者紹介>
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら
此度は、土佐一条家のお話の続きでござりまする。
明応七年(西暦1498年)一条房家の嫡男として誕生した房冬は、永正七年(西暦1510年)に元服いたしますと、従五位上・侍従に叙任、その後も官位を進め、大永元年(西暦1521年)には従三位に叙せられて公卿に列したのでございまする。
土佐に在国したままの土佐一条家、代が変われば次第に一条宗家との関係もやはり少しずつ遠いものにはなってしまうもの。一条家が土佐にあって有力であり得たのは、決して単独で大きな武力をもっていたからではなく、京から離れてもなおその家格に見合う高い位を維持し、巧みな政の才をもって国人領主たちの盟主たる立場を築けていたことに起因するところが多くございます。そしてその有力な立場を以て、近隣の大勢力とも結んでいくという、外交政略に依るところ大でございました。
機を見るに敏で、政の才に長けていた房冬は、前関白一条教房の子でありながら、京におらず土佐在国ということ故に官位を進めることに時を要した父、房家の例を慮り、その溝を少しでも埋めるべく、自らは一条宗家、摂関一条家の当主であった一条冬良の猶子となったのでございまする。そしてさらに京とのつながりを深めることとして、房冬が公卿に列せられた大永元年(西暦1521年)には、房冬の正室にと内々定められておりました伏見宮邦高親王の王女・玉姫宮が降嫁のため土佐国に下向するのでございました。これには先代房家の頃からの働きかけが功を奏したであろうことは想像に難くないが、房冬が一条宗家当主たる一条冬良の猶子であったことも事が運ぶ大きな助けとなったのではないかと思われまする。尤も、如何に摂関家猶子とはいえ、名門皇族の姫宮が、京にはおらず、在国の公家へと降嫁するのはさすがに前例のないことと、眉を顰める者も少なからずであった様でございまする。
こうして、土佐一条家は『皇族の姻戚』という地位も手に入れ、ますます強まった中央とのつながりは、周辺大名家をして土佐一条家の存在を再認識させるものともなるのでございました。世は乱世に向かって実なる力が問われる様に移り変わりつつある時、権威だけでは覚束ないところも鑑みねばなりませぬ。大国の後ろ盾を得るべく、房冬は周防の大内義興の娘を側室に迎えるのでございますが、大内家にとっても、摂関家猶子たる房冬との縁組は、中央へのつながりを太くすることにつながり、相互の利害が一致するものでございました。
祖父教房の頃よりつながりのあった堺商人や山科本願寺との関係をより強固なものとすることにも心を砕いた房冬。明国との貿易を通じて利を上げ、堺商人や山科本願寺とのつながりも深かった大内氏とも姻戚関係となり、経済的恩恵も受けられる枠組みの中に土佐一条家を導いていったのでございます。
天文四年(西暦1535年)には、左近衛大将に任じられる房冬。しかしながら、左近衛大将と申さば京の帝が住まう御所の警護を司る近衛府の長、時の後奈良天皇もさすがに土佐在国の房冬を左近衛大将へということは当初肯んじられませんでした。しかし房冬は任官を諦めるどころか、人脈を使い、銭も惜しまず手を尽くして徐々に外堀を埋めていき、任官へといたるのでございました。
世の動きを見定め、つながりを広げる労を惜しまず、決して容易くはない舵取りが求められる時代に土佐一条家の主であった房冬。惜しむらくは父、房家亡き後、わずか二年で病没したと伝えられておりまする。享年四十四歳。天文十年(西暦1541年)霜月のことでございました。
房冬が病に斃れることなくば、歴史は大きく変わっていたのかもしれませぬ。
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
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一条氏と申さば、藤原氏嫡流たる五摂家、すなわち近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の一家であり、公家の中でも最も高き家格、摂政・関白・太政大臣への昇任が許される限られた名門でございました。
応永三十年(西暦1423年)に生まれ、永享十年(西暦1438年)に元服した一条教房。世は室町幕府六代将軍、足利義教の時代、一条家歴代当主としては初めて足利将軍家からの偏諱を受け教房と名乗ることとなったのでありますが、時の室町の武家政権の勢いのほどが覗える話でございます。
さは言え名門一条家の当主、翌永享十一年(西暦1439年)には正三位・権中納言に叙任され公卿に列し、内大臣、左大臣を経て、長禄二年(西暦1458年)には関白となり、氏長者となるのでございます。
寛正四年(西暦1463年)には関白氏長者を辞しておりましたものの、応仁元年(西暦1467年)応仁の乱となりますと、京にいられるものでもなく、戦火をのがれ、やがて一条家領のございました土佐国幡多荘に下向、四万十川下流の中村の館に移り住むことになるのでございました。尤も、この下向そのものは、京での戦火を逃れた後に、鎌倉期より続く荘園経営の強化のためであったと言われております。そのような背景からこの時、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に共に下向したために、京の文化もまた土佐中村の地に移入することにつながり、彼の地の繁栄の基が築かれたと伝えられております。
教房亡き後、嫡男政房は既に応仁の乱の中で没しており、一条家の家督は年の離れた実弟の冬良が継ぐ一方で、亡き政房の弟、房家は土佐に土着、これが土佐一条氏のはじまりとなったのでございます。
文明七年(西暦1475年)誕生と伝わる、関白・一条教房の次男、一条房家は、教房下向のために土佐で生まれ育ちましてございます。四万十川の河口から上流へ二里半ほど(約10km弱)進んだところに開けた地があり、そこには国人たちとも良好な関係を築くことができた教房が拠点として置いた中村館を中心として繁栄の基礎がつくられ、土佐中村の地で生まれ育った房家は、長じてそのまま土佐中村を拠点として彼の地を繁栄させていく道を選んだのでございました。いわば地方に「在国」しつつも、公家として高い官位は有し、京の一条宗家とのつながりも保ちながら土佐の国人領主たちの盟主といった立場を築き上げていくことに成功したのは、当時の大名家としても稀有な形であり、公家大名などとも呼びならわされる所以かもしれませぬ。
文化と文明が合い携えて伝わっていくことが常でございました時代、京とのつながりの深さはそのまま新しき様々を土佐中村の地にもたらすことにつながり、中村御所とよばれるようになりました一条氏の拠点を中心として、さながら小京都とでも言えるような発展を遂げていくのでございました。四万十川の流れが作り出す自然の美しさに、京の雅が重ねられた土佐中村の有様は、国人衆にとっても大きな変化を目の当たりにすることとなったに違いありませぬ。
永正十三年(西暦1516年)上洛して、権大納言となった房家は、広範に周りを見渡し婚姻戦略なども通じて権威権勢を巧みに保ちつつ、幕府細川管領家の後退から、土佐七雄と呼ばれる七国人が割拠する状態となっていた土佐国において、それら国人領主の盟主的立場を確立させておりました。遡ること永正五年(西暦1508年)には、七国人同士の争いで、長宗我部兼序(後に四国統一を成し遂げる長宗我部元親の祖父)が同じ七国人の本山氏らに討たれた折、房家はその遺児の千雄丸(後の長宗我部国親)を保護、長宗我部家の再興を助けたとされておりまする。このような国人領主間の争いにも、ただ上からではなき形で介入し、巧みに土佐一条氏の勢力を保つことにつなげられた政の手腕もまた、房家をして国人衆の盟主たり得ることを支えたものであったのかと思われまする。
こうして築かれた土佐一条氏初代、房家の治世は、土佐一条氏最盛期とも言われまするが、次回は二代目となる一条房冬のお話からでございまする。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
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此度は続きの話にて、近隣の桐生氏のお話でござりまする。
佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、下野国唐沢山城を本拠として平安の末より栄えた佐野氏についてお話いたしましたが、そこから北西に十二里(約48km)ほどのところにござりました柄杓山城(桐生城)を中心とした上野国の東部、山田郡桐生地方は、代々桐生氏の治める地でござりました。佐野氏と同じく、藤姓足利氏に連なる桐生氏は、佐野氏より分かれ出て、柄杓山城を築き拠点とし南北朝時代より戦国時代にかけて彼の地に勢力を持ったと伝えられております。
既に奈良時代には朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されていることもあり、桐生の地は古くから養蚕業・絹織物業で栄え、後年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣の折、急遽西進して石田三成を討伐することを決するも、軍旗が足りないという事態であった。その際、不足している軍旗を僅かの間に桐生の村々で揃えたことから、桐生の絹はさらに名を高めることになったと伝えられておりまする。
永正九年(西暦1512年)に桐生真綱の子として生まれた桐生助綱は、長じて桐生氏の家督を継ぎ、桐生氏の全盛期を築くこととなるのでございます。天文元年(西暦1531年)には仁田山赤萩地方を桐生氏の勢力下におくことに成功、本拠である柄杓山城の支城とも言える拠点になる仁田山城、またそれと一体となってひとつの山城を形成する赤萩の砦を守りの要衝とするのでございますが、その守りを、無位無官の浪人から取り立てた里見勝広に任せるのでございました。里見勝広は、安房里見氏の一族ながら故あって安房の国を追われ、既に結城合戦にて嫡流は途絶えてはいたものの、仁田山の地に同族である上野里見氏を頼ってこの地に流れてきていたところを、桐生助綱に見いだされた様でございまする。
やがて天文十三年(西暦1544年)には領を接する細川氏、善氏を破り、勢力圏を拡大させ、桐生氏は最盛期を迎えるのでございました。
永禄三年(西暦1560年)の越後上杉勢による関東侵攻においては、北関東の諸家と同じくこれに従い、桐生助綱は関白 近衛前嗣、また上杉憲政の警固を任され、後日京に戻った近衛前嗣から丁重な謝辞を贈られておりまする。しかしながら、その後の武田・北条勢による巻き返しは、本拠から遠く離れた越後勢を徐々に劣勢へと追いやっていくのでございました。永禄九年(西暦1566年)頃には、近隣の新田金山城主・由良成繁の勧めもあり、小田原北条氏(形としては北条氏康の傀儡である古河公方・足利義氏方)に旗を転じることとなるのでございました。
こうして桐生氏の勢力拡大に成功した助綱でございますが、永禄十三年(西暦1570年)に亡くなり、桐生氏は同族である佐野昌綱の子が、養父助綱亡き後の家督を継ぐのでございました。
こうして桐生氏当主となった桐生親綱は、凡そ穏やかとは程遠い勢いで、桐生家古参の家臣たちをあからさまに遠ざけ、実家である佐野氏から後見役として付き従ってきた家臣たちにのみ諸々の仕置きを委ね、さらにはこれまでの法も廃した上で暴政を重ねていったため、将士民心が離れていくのは当然の結果でございました。
桐生氏の行く末を案じた里見勝広らの諫言も聞かぬばかりか、自害に追い込む始末で、全盛期を築き上げた桐生氏はその勢力を弱めていくばかりであったが、当主には何も見えておりませんでした。
元亀三年(西暦1572年)由良氏家臣・藤生善久に柄杓山城を攻められ城は陥落、親綱は這う這うの体で実家の佐野に逃亡し、ここに桐生氏は滅亡してしまうのでございました。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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平安の末より、下野の国を中心に栄えた佐野氏は、平将門を討ったことで名高い藤原秀郷にまでその起こりを溯りまする。秀郷の後裔は下野国足利荘を本拠としたことから足利氏と呼ばれまするが、後に室町幕府将軍家となる源氏足利氏との混同をせぬよう、藤姓足利氏とも呼ばれまする。
後に北関東を中心に多くの有力武家の基となる藤姓足利氏でございますが、中でも下野国の唐沢山城を本拠とした佐野氏は、唐沢山城が延長五年(西暦927年)、下野国押領使となり関東に下向した藤原秀郷により築かれたものと伝えられておりますことから、藤姓足利氏の流れを汲む一族の中でも有力な家であったと考えられておりまする。 唐沢山城は、佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、唐沢山山頂を本丸として一帯に曲輪を配した山城、関東の城には珍しく高い石垣が築かれており、戦国時代には佐野氏第十五代当主・佐野昌綱が活躍した唐沢山城の戦いでも知られるとおり、上杉謙信の十度にもわたる侵攻を度々退け、謙信を悩ませるほどであったと伝えられておりまする。
さて、代々古河公方足利氏に従ってきた佐野氏でござりまするが、永禄二年(西暦1559年)に家督を継いだ昌綱もそれを踏襲、足利晴氏に仕えておりました。戦上手と謳われた佐野昌綱は、戦場での戦のみならず、大勢力に囲まれた境界に位置する地にあって駆け引きにも長じていた様であり、やがて古河公方の力が衰退し小田原北条氏の勢力拡大に合わせて北条氏康と結ぶなどしておりまする。しかしながら、越後の龍、上杉謙信が関東侵攻を始めるやこれに呼応し小田原城攻囲にも参戦するが、関東各地で武田軍・北条軍に相次いで攻められ、永禄四年(西暦1561年)に、それまで武田軍の上野国侵攻を抑えてきた箕輪城主・長野業正が病に斃れると、いよいよ上杉軍は劣勢を強いられていくこととなりまする。佐野氏の唐沢山城は、それに先立つ永禄三年(西暦1560年)北条勢三万に攻められるも、昌綱は徹底抗戦し、上杉勢の援軍が間に合いこれを退けておりまする。ただ、全ての戦線での上杉勢の劣勢を覆すには至らず、小田原城攻囲が失敗に終わりますると、程なくして佐野氏は再び北条方へとつくのでございました。
戦国の世、節を曲げなければならぬ時もまたあり、時には戦で退け、また時には大局を読み味方する側を選びながら、少なくとも唐沢山城が落城することはなく、乱世において強大な勢力に囲まれた地で佐野氏の命脈を保ち続けることこそ、本来果たすべき主の役割であり、それを成し遂げてきた佐野昌綱の胆力と力量とは、語り継がれていくべきものであったということではないでしょうか。家が代々守り続けてきたものを盲目的に通し続けることに必ずしも拘らず、己が真に守るべきは何かを然と見極め断を下すことは、自由であるという側面と守られないという厳しい側面がございますが、時代が大きく動く時には、このような生き方が求められてくるのでしょうか。今の世にもどこかしら通じるものを感ぜずにはいられぬところがございます。
さて次回は、近隣の桐生氏のお話へと続きまする。
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人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、近衛家と並ぶ五摂家の双璧とされた九条家の起こりとともに、武家がもはや公家の意のままに動く軍事貴族から一段上の存在へと昇ってきた時代における摂関家の姿を見つめてみたいと思いまする。
時は、後に鎌倉時代とよばれることになる時に入りましてからしばらく後、鎌倉に幕府を作り武家政権を樹立した源頼朝が世を去り、三代将軍となった頼朝の次男、源実朝が兄、頼家の忘れ形見である僧・公暁の手で弑され、混乱の中でさて次の鎌倉殿を誰にするかと思惑が入り乱れている時でございます。
京では、後白河院も既に崩御、建仁二年(西暦1202年)には失脚した前の関白九条兼実は出家し、源通親(土御門通親・正二位、追贈 従一位)は薨逝、いよいよ名実共に治天の君として院政を布き、朝政を主導する後鳥羽院でございましたが、鎌倉を本拠とし坂東武士の武力があつまり、その上に統治体制が整いつつあった鎌倉幕府は、どうにか手駒にしたいところでございました。元は源氏に率いられた軍事貴族集団、実の態はさておき源氏は天皇家から別れ出た氏族でありましたが、混乱期にある今の鎌倉を取り仕切るのは執権北条家、朝廷から見れば縁もゆかりもない陪臣にすぎず、面白くないことこの上ありませぬ。
さて、『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけではなく、狩猟を好み武芸にも通じるところのございました後鳥羽院は、白河法皇の御代に形作られたとされる上皇の身辺警衛や御幸に供奉した武士であり、いわば院の直属軍としての性質を持っていた北面武士に加えて、新たに西面武士を設置し、軍事力の増強を図られたのでございました。北面武士と申しますれば、創設期の構成は近習や寵童といった院と個人的な関係の深い者が中心でございましたが、後に源氏平氏といった、それぞれがある程度の武士団を従えております、いわゆる軍事貴族が加わるようになり、名実共に院の直属軍としての性質を帯びたものとなってきたのでございます。平正盛(清盛祖父)、平忠盛(清盛父)、源義朝(頼朝、義経父)等もみな北面武士でございました。新たに設立された西面武士は、主に西日本の有力御家人から成っており、元々は院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め所があった北面武士に対して、院御所の西面に詰め所などがあったことから、このように呼ばれるようになったそうでございます。そして西面武士成立の背景には、やはりこの時期まだ西国に対する幕府の支配力も限られたものであり、未だ成立して間もない幕府と朝廷との、事実上の二元政治体制ゆえの混乱がございましたことは否めない理となりますでしょうか。
そのような中で起こりました承久元年(西暦1219年)一月の源実朝暗殺による源氏将軍断絶は、将軍継嗣問題を可及的速やかに決さねばならないものとして、政を司る人々の上に押し付けることになったのでございます。幕府という力をこのまま北条の手に委ねたくないのは朝廷側としては一致した意思たるものの、では誰を、というところでは思惑は少しずつ異なるものがございました。鎌倉を意のままにするのであれば、然るべき身分の者を将軍として送り込む必要があり、且つまた源氏色が強い者よりも京に近しい者が適任であることは申すまでもありません。この時考えられた皇族将軍の実現は結果として見送られることとなりましたが、折衷案的に採用されたのは、摂関家の者をあらたな将軍として送る、というものでございました。
ここで少し時を遡りまして、この『史の綴りもの ~歴史の木戸口~ 』で以前にも触れました悪左府藤原頼長卿のお話から連なる、摂家将軍を出すこととなる九条家について触れておきたく存じます。
久寿二年(西暦1155年)のこと、元々皇位継承とは無縁であり気楽に暮らしておりました雅人親王(後の後白河天皇)でしたが、皇位を継ぐこととなった子、守仁親王(後の二条天皇)が如何にしても幼少であり、且つまた実父(雅人親王)も存命であるものを、それを飛び越えての即位はさすがに如何なものかとの声も無視できず、守人親王即位までの中継ぎという形で、その父である雅仁親王が立太子もせぬまま即位することとなりましたのでございます。運命の悪戯ともいえるような流れから第七十七代天皇、後白河天皇の御世ははじまりました。尤も、この突如として雅仁親王を擁立する運びとなった裏には、雅仁親王の乳母の夫であった信西の策動があったと言われておりますが、定かなところは知る由もなきことにございまする。しかしながら、ここに権力をめぐり激しき政略戦が繰り広げられ、その中で内覧としての立場も奪われた藤原頼長は失脚に等しい状態とされていたのでございます。
その翌年、保元元年(西暦1156年)二十八年の長きにわたり院政を布いた鳥羽法皇の崩御を機に、それまで薄氷の下を流れていた水が亀裂からほとばしるかの如く事態は動き始めるのでございました。世に言う保元の乱でございます。保元の乱につきましては、他に事細かく述べられているものも多く存じますので、ここで詳述はいたしませぬが、朝廷内の権力争いに平氏源氏の武士が動員され、大きな役割を果たさせたことが武士の政への参画への糸口となり、平氏政権時代への遷移とともに摂関家もかつての権力を維持できなくなり、実に四世紀もの長きに亘りました日の本の支配体制が大きく動いたのでございました。
謀反人の烙印を押され、挙兵せざるを得ない立場に置かれ、その正当性を示すために崇徳上皇を上にいただくも結果敗死することになる頼長。乱後、摂関家の力はすでに往事のものとは程遠いとは申せども、依然朝廷において重きをなす藤原摂関家は、悪左府頼長の兄、藤原忠通の手に戻ってくるのでございました。早世してしまうなど長らく後継となるべき男子に恵まれず、年の離れた弟、頼長を養子としていた忠通でしたが、齢四十を過ぎてから再び男子に恵まれ、四男の基実が後の五摂家である近衛家の祖となり、六男の兼実が同じく五摂家の一家となる九条家の祖となったのでございました。五摂家の一条家、二条家は後に九条家から枝分かれした家であることから、この三家をして九条流とも呼ばれておりまする。
こうして激しい権力争いの時を経て、悪左府藤原頼長の兄、藤原忠通の子から五摂家の基が始まっていくのでございますが、九条家の祖、九条兼実は、保元の乱でその勢力を大きく後退させることとなった摂関家の生き残り方として、故実先例の集積により儀礼政治の執り行いに精通することにより、己の立ち位置を確立せんとしたのでございます。学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として朝廷内で昇進を遂げていく様は、やはり藤原一門らしさともうすべきでございましょうか。後白河法皇に仕え、紆余曲折ありながらも摂政・氏長者を宣下された兼実は、政に精力的に取り組んでいきます。鎌倉との結びつきを強めていったのも、時流を感ずる術に長けていたが故に、と申せますでしょうか。ただ、後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇は、その兼実の厳格な姿勢に不満を抱くところも多く、やがて兼実は失脚してしまうのでございました。しかしながら、兼実の弟、天台宗の僧・慈円が後鳥羽上皇に仕えており、九条家の者が姿を変え、立場を変え、朝廷の中で治天の君の傍に座すという形が保たれていたのでございます。
建久三年(西暦1192年)、三十八歳で天台座主となりました慈円僧正でしたが、後鳥羽上皇の傍にありて、様々政の助言を行うなど、知の力で朝廷を支える立場にありましたが、源氏将軍三代目の実朝が暗殺されたことによる混乱の中で、一時は皇子をとも考えられるも上皇に躊躇の心も見える中、源頼朝の遠縁にもあたることが鎌倉側にとっても受け入れやすいことにつながるとし九条一門の中から、三代当主九条道家の三男にあたる三寅(後の九条頼経)を四代目将軍として送り込むことをなしております。承久の乱を経て、すでに鎌倉に送られていた三寅はやがて元服、ここに朝廷と幕府の思惑に挟まれた摂家将軍の時代がはじまり、そこには九条家のものがいるという形を作る事を成しえたのでございました。尤も、承久の乱を経て鎌倉と京との力関係は大きく変わり、専ら鎌倉の執権北条家にとっての都合のよさで考えられていくことにはなりますが、後鳥羽上皇の挙兵を諫め、今ある形をつつがなく続けられるようにと願ったであろう慈円僧正の心は、しかしながら慈円僧正もまた九条の家に連なる者であることから、手駒選びへの関与とみられてしまうのでございました。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
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