「ら抜き言葉」と美しい日本語をのこすということ

日本人として自分たちの文化を大切に伝えていきたい、その思いは時代が変わってもひとりひとりの根底にあるものかと思います。「言葉」もまたそういった、のこし伝えていきたい文化のひとつかと思いますが、社会のグローバル化が進み、様々な文化や価値観の流入が加速する中、そのことが却って自分たちが昔から持っているもの、自分たちの姿を見直すきっかけになることもまた少なくない様です。

 

文部科学省が先般行った普段の言葉遣いなどについての調査によれば、「日本語を大切にしている」、「考えてみれば大切にしていると思う」と回答した人が78.5%と増加傾向の数字を示しており、世界でも珍しい部類に入る日本語という言葉を大切に使い、伝えていきたいという思いは広く共通のものとなっていることを嬉しく思います。

 

ただ、その同じ調査で、またそれとは別に文化庁が先般実施した平成27年度「国語に関する世論調査」の結果でも、いわゆる「ら抜き言葉」を使う人が、正しい言葉使いをする人を上回ったという事実には、ひとりひとりの思いとは別に、きちんとのこし伝えていくということの難しさを感じずにはいられませんでした。

 

文法的なことを長々と書いても正直敬遠されてしまうかとも思いますのが、「~れる」の形で可能の意味を表す時に、「~られる」とすることが本来の正しい言い方と聞けば、あぁなるほど、と思われる方もまだまだいらっしゃるのではないでしょうか。つまり、動詞に可能の助動詞「られる」がついた「食べられる」「見られる」などから「ら」を抜いた表現を「ら抜き言葉」と呼ぶわけです。

 

最近はテレビを見ていても、喋っている人が「ら抜き言葉」で喋っていて、そのテロップは「ら」が入った正しい表記になっているのをよく見かけます。話し言葉と書き言葉ではたしかに違いもありますので、仕事でも資料など文書化されたもので「見れる」などと書いてあればさすがに訂正をしたりしますが、会話の中ではまぁそんなものなのかなぁ、などと思ったりもします。それでも、家庭では少々口うるさく直すくらいのことが親の仕事かな、などと思いつつ、「食べれる」などは「食べられる」だよ、と都度都度直す係をやっています。

 

言葉は生き物とよく言われます。今私たちが標準、正しいとしている言葉の使い方で、その昔は誤った用法であったものも少なくはありません。生き物ですので姿を少しずつ変えていくこともまた自然なことかもしれません。しかし、それでも、世代を越えて受け継がれてきた美しい日本語の姿というものを、出来る限りその姿のまま、のこし伝えていくことができれば、と思います。

 

 

終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。

 

らぬき