佐野昌綱と桐生助綱 ~戦国北関東のある物語①~

平安の末より、下野の国を中心に栄えた佐野氏は、平将門を討ったことで名高い藤原秀郷にまでその起こりを溯りまする。秀郷の後裔は下野国足利荘を本拠としたことから足利氏と呼ばれまするが、後に室町幕府将軍家となる源氏足利氏との混同をせぬよう、藤姓足利氏とも呼ばれまする。 
 
後に北関東を中心に多くの有力武家の基となる藤姓足利氏でございますが、中でも下野国の唐沢山城を本拠とした佐野氏は、唐沢山城が延長五年(西暦927年)、下野国押領使となり関東に下向した藤原秀郷により築かれたものと伝えられておりますことから、藤姓足利氏の流れを汲む一族の中でも有力な家であったと考えられておりまする。 唐沢山城は、佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、唐沢山山頂を本丸として一帯に曲輪を配した山城、関東の城には珍しく高い石垣が築かれており、戦国時代には佐野氏第十五代当主・佐野昌綱が活躍した唐沢山城の戦いでも知られるとおり、上杉謙信の十度にもわたる侵攻を度々退け、謙信を悩ませるほどであったと伝えられておりまする。 
 
さて、代々古河公方足利氏に従ってきた佐野氏でござりまするが、永禄二年(西暦1559年)に家督を継いだ昌綱もそれを踏襲、足利晴氏に仕えておりました。戦上手と謳われた佐野昌綱は、戦場での戦のみならず、大勢力に囲まれた境界に位置する地にあって駆け引きにも長じていた様であり、やがて古河公方の力が衰退し小田原北条氏の勢力拡大に合わせて北条氏康と結ぶなどしておりまする。しかしながら、越後の龍、上杉謙信が関東侵攻を始めるやこれに呼応し小田原城攻囲にも参戦するが、関東各地で武田軍・北条軍に相次いで攻められ、永禄四年(西暦1561年)に、それまで武田軍の上野国侵攻を抑えてきた箕輪城主・長野業正が病に斃れると、いよいよ上杉軍は劣勢を強いられていくこととなりまする。佐野氏の唐沢山城は、それに先立つ永禄三年(西暦1560年)北条勢三万に攻められるも、昌綱は徹底抗戦し、上杉勢の援軍が間に合いこれを退けておりまする。ただ、全ての戦線での上杉勢の劣勢を覆すには至らず、小田原城攻囲が失敗に終わりますると、程なくして佐野氏は再び北条方へとつくのでございました。 
 
戦国の世、節を曲げなければならぬ時もまたあり、時には戦で退け、また時には大局を読み味方する側を選びながら、少なくとも唐沢山城が落城することはなく、乱世において強大な勢力に囲まれた地で佐野氏の命脈を保ち続けることこそ、本来果たすべき主の役割であり、それを成し遂げてきた佐野昌綱の胆力と力量とは、語り継がれていくべきものであったということではないでしょうか。家が代々守り続けてきたものを盲目的に通し続けることに必ずしも拘らず、己が真に守るべきは何かを然と見極め断を下すことは、自由であるという側面と守られないという厳しい側面がございますが、時代が大きく動く時には、このような生き方が求められてくるのでしょうか。今の世にもどこかしら通じるものを感ぜずにはいられぬところがございます。 

 
さて次回は、近隣の桐生氏のお話へと続きまする。

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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