史の綴りもの 010 摂家将軍誕生 後鳥羽上皇と九条家の人々 ~朝廷から見た承久の乱~

此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、近衛家と並ぶ五摂家の双璧とされた九条家の起こりとともに、武家がもはや公家の意のままに動く軍事貴族から一段上の存在へと昇ってきた時代における摂関家の姿を見つめてみたいと思いまする。 
 
時は、後に鎌倉時代とよばれることになる時に入りましてからしばらく後、鎌倉に幕府を作り武家政権を樹立した源頼朝が世を去り、三代将軍となった頼朝の次男、源実朝が兄、頼家の忘れ形見である僧・公暁の手で弑され、混乱の中でさて次の鎌倉殿を誰にするかと思惑が入り乱れている時でございます。 
 
京では、後白河院も既に崩御、建仁二年(西暦1202年)には失脚した前の関白九条兼実は出家し、源通親(土御門通親・正二位、追贈 従一位)は薨逝、いよいよ名実共に治天の君として院政を布き、朝政を主導する後鳥羽院でございましたが、鎌倉を本拠とし坂東武士の武力があつまり、その上に統治体制が整いつつあった鎌倉幕府は、どうにか手駒にしたいところでございました。元は源氏に率いられた軍事貴族集団、実の態はさておき源氏は天皇家から別れ出た氏族でありましたが、混乱期にある今の鎌倉を取り仕切るのは執権北条家、朝廷から見れば縁もゆかりもない陪臣にすぎず、面白くないことこの上ありませぬ。 
 
さて、『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけではなく、狩猟を好み武芸にも通じるところのございました後鳥羽院は、白河法皇の御代に形作られたとされる上皇の身辺警衛や御幸に供奉した武士であり、いわば院の直属軍としての性質を持っていた北面武士に加えて、新たに西面武士を設置し、軍事力の増強を図られたのでございました。北面武士と申しますれば、創設期の構成は近習や寵童といった院と個人的な関係の深い者が中心でございましたが、後に源氏平氏といった、それぞれがある程度の武士団を従えております、いわゆる軍事貴族が加わるようになり、名実共に院の直属軍としての性質を帯びたものとなってきたのでございます。平正盛(清盛祖父)、平忠盛(清盛父)、源義朝(頼朝、義経父)等もみな北面武士でございました。新たに設立された西面武士は、主に西日本の有力御家人から成っており、元々は院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め所があった北面武士に対して、院御所の西面に詰め所などがあったことから、このように呼ばれるようになったそうでございます。そして西面武士成立の背景には、やはりこの時期まだ西国に対する幕府の支配力も限られたものであり、未だ成立して間もない幕府と朝廷との、事実上の二元政治体制ゆえの混乱がございましたことは否めない理となりますでしょうか。 
 
そのような中で起こりました承久元年(西暦1219年)一月の源実朝暗殺による源氏将軍断絶は、将軍継嗣問題を可及的速やかに決さねばならないものとして、政を司る人々の上に押し付けることになったのでございます。幕府という力をこのまま北条の手に委ねたくないのは朝廷側としては一致した意思たるものの、では誰を、というところでは思惑は少しずつ異なるものがございました。鎌倉を意のままにするのであれば、然るべき身分の者を将軍として送り込む必要があり、且つまた源氏色が強い者よりも京に近しい者が適任であることは申すまでもありません。この時考えられた皇族将軍の実現は結果として見送られることとなりましたが、折衷案的に採用されたのは、摂関家の者をあらたな将軍として送る、というものでございました。 
 
ここで少し時を遡りまして、この『史の綴りもの ~歴史の木戸口~ 』で以前にも触れました悪左府藤原頼長卿のお話から連なる、摂家将軍を出すこととなる九条家について触れておきたく存じます。 
 
久寿二年(西暦1155年)のこと、元々皇位継承とは無縁であり気楽に暮らしておりました雅人親王(後の後白河天皇)でしたが、皇位を継ぐこととなった子、守仁親王(後の二条天皇)が如何にしても幼少であり、且つまた実父(雅人親王)も存命であるものを、それを飛び越えての即位はさすがに如何なものかとの声も無視できず、守人親王即位までの中継ぎという形で、その父である雅仁親王が立太子もせぬまま即位することとなりましたのでございます。運命の悪戯ともいえるような流れから第七十七代天皇、後白河天皇の御世ははじまりました。尤も、この突如として雅仁親王を擁立する運びとなった裏には、雅仁親王の乳母の夫であった信西の策動があったと言われておりますが、定かなところは知る由もなきことにございまする。しかしながら、ここに権力をめぐり激しき政略戦が繰り広げられ、その中で内覧としての立場も奪われた藤原頼長は失脚に等しい状態とされていたのでございます。 
 
その翌年、保元元年(西暦1156年)二十八年の長きにわたり院政を布いた鳥羽法皇の崩御を機に、それまで薄氷の下を流れていた水が亀裂からほとばしるかの如く事態は動き始めるのでございました。世に言う保元の乱でございます。保元の乱につきましては、他に事細かく述べられているものも多く存じますので、ここで詳述はいたしませぬが、朝廷内の権力争いに平氏源氏の武士が動員され、大きな役割を果たさせたことが武士の政への参画への糸口となり、平氏政権時代への遷移とともに摂関家もかつての権力を維持できなくなり、実に四世紀もの長きに亘りました日の本の支配体制が大きく動いたのでございました。 
 
謀反人の烙印を押され、挙兵せざるを得ない立場に置かれ、その正当性を示すために崇徳上皇を上にいただくも結果敗死することになる頼長。乱後、摂関家の力はすでに往事のものとは程遠いとは申せども、依然朝廷において重きをなす藤原摂関家は、悪左府頼長の兄、藤原忠通の手に戻ってくるのでございました。早世してしまうなど長らく後継となるべき男子に恵まれず、年の離れた弟、頼長を養子としていた忠通でしたが、齢四十を過ぎてから再び男子に恵まれ、四男の基実が後の五摂家である近衛家の祖となり、六男の兼実が同じく五摂家の一家となる九条家の祖となったのでございました。五摂家の一条家、二条家は後に九条家から枝分かれした家であることから、この三家をして九条流とも呼ばれておりまする。 
 
こうして激しい権力争いの時を経て、悪左府藤原頼長の兄、藤原忠通の子から五摂家の基が始まっていくのでございますが、九条家の祖、九条兼実は、保元の乱でその勢力を大きく後退させることとなった摂関家の生き残り方として、故実先例の集積により儀礼政治の執り行いに精通することにより、己の立ち位置を確立せんとしたのでございます。学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として朝廷内で昇進を遂げていく様は、やはり藤原一門らしさともうすべきでございましょうか。後白河法皇に仕え、紆余曲折ありながらも摂政・氏長者を宣下された兼実は、政に精力的に取り組んでいきます。鎌倉との結びつきを強めていったのも、時流を感ずる術に長けていたが故に、と申せますでしょうか。ただ、後白河院崩御後に新たな治天の君となった後鳥羽天皇は、その兼実の厳格な姿勢に不満を抱くところも多く、やがて兼実は失脚してしまうのでございました。しかしながら、兼実の弟、天台宗の僧・慈円が後鳥羽上皇に仕えており、九条家の者が姿を変え、立場を変え、朝廷の中で治天の君の傍に座すという形が保たれていたのでございます。 
 
建久三年(西暦1192年)、三十八歳で天台座主となりました慈円僧正でしたが、後鳥羽上皇の傍にありて、様々政の助言を行うなど、知の力で朝廷を支える立場にありましたが、源氏将軍三代目の実朝が暗殺されたことによる混乱の中で、一時は皇子をとも考えられるも上皇に躊躇の心も見える中、源頼朝の遠縁にもあたることが鎌倉側にとっても受け入れやすいことにつながるとし九条一門の中から、三代当主九条道家の三男にあたる三寅(後の九条頼経)を四代目将軍として送り込むことをなしております。承久の乱を経て、すでに鎌倉に送られていた三寅はやがて元服、ここに朝廷と幕府の思惑に挟まれた摂家将軍の時代がはじまり、そこには九条家のものがいるという形を作る事を成しえたのでございました。尤も、承久の乱を経て鎌倉と京との力関係は大きく変わり、専ら鎌倉の執権北条家にとっての都合のよさで考えられていくことにはなりますが、後鳥羽上皇の挙兵を諫め、今ある形をつつがなく続けられるようにと願ったであろう慈円僧正の心は、しかしながら慈円僧正もまた九条の家に連なる者であることから、手駒選びへの関与とみられてしまうのでございました。 

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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