Reality’s a dream
A game in which I seem to never find out just what I am
I don’t know if I’m an actor or ham
A shaman or sham but if you don’t mind, I don’t mind
ロックの歌詞から個人的に面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈を施してみたいと思います。そもそも社会の諸事象というものは、とくに仏教に基づいて存在しているわけではありません。そうであれば、むしろ本来の存在意義とは別の角度で、仏教的な見方をしてみることのほうが実りありそうです。作詞者には失礼ですが、それぞれの曲の主旨はさておき、少々図々しくチャレンジしてみたいと思います。
まずはイギリスのパンクバンド、BuzzcocksのI don’t mindから引用してみました。いきなり現実は夢なんだと言うところ、かなり仏教マインドあふれています。そしてさらに、現実なんて自分が何者なのか分からないようなゲームなんだと。大根役者なのかも分からんし、インチキ霊媒師なんだとしても、君が気にしないのなら、自分も気にしない。気にしないってというところも、とても仏教していて私は好きです。
かつて日本仏教においては、夢も現実に準じる、いえ、霊的にはそれ以上の価値で捉えられていたようです。夢のお告げです。夢だからこそ、直接、自分の心に語りかけてくると思うことは、あながち荒唐無稽というわけではありません。現実においては私たちの五感がかなり敏感に作用し、心を落ち着かせることは難しいことです。霊的な作用というものは五感ではなく、心に作用するとするならば、肉体的には寝ている状態である夢のほうが効果的でありそうです。
そもそも、今、私たちが思い込んでいる現実存在というものは、本当に真実だと言えるのでしょうか。私たちは大根役者やインチキ霊媒師かもしれませんし、上っ面なところだけをなぞって生きているに過ぎないとも言えるかもしれません。でも、真実をまた解明しようとすることが正しい生き方かと言いますと、そうとも言い切れません。なぜならば、何が真実であるかを判断するような智慧を、私たちは持ち合わせていないからです。
であるならば、そのまま、気にしないでいいじゃないか。あんたもいいなら、オレもいいよっていう、肩の力を抜いた生き方をしたほうが、むしろ真実に近づけるかもしれません。仏教的に言いますと、真実というものは何か特別なものと言うよりは、あるがままを、あるがままに受け取ることによって見えてくるものかもしれないからです。こだわらない生き方とも言えるでしょうか。押しつけがましいのはやめてくれって、そんなところでしょう。
善福寺 住職 伊東 昌彦