経論の教えから その4 『観無量寿経』

もろもろの諸仏・如来、これ法界身にして、一切衆生の心想の中に入りたもう。

 

「成仏」という言葉につきまして、皆さんはどのような印象をお持ちでしょうか?仏としての覚りを得る・・・、とは思っておられないでしょう。迷うことなくあの世に行ったという具合でしょうか。仏という言葉にしましても、かつて刑事もののドラマでは亡くなった被害者の方、とりわけ遺体を「ほとけさん」と呼んでいるシーンを見ましたが、むしろこちらの印象も強いことでしょう。いずれも完全に間違いというわけではありませんが、やや理解がずれてしまっています。

 

成仏とは「仏に成る」という意味で、仏としての覚りを得ることを言います。迷いである煩悩が完全に消滅しますので、この世で「迷う」ことはたしかにないわけです。ただ、この場合の「迷う」ということは、おそらく「祟り」を指しており、様々な煩悩があって正しい道を歩めず迷ってしまう、という本来の意味からは逸脱しています。仏教では「祟る」という考え方はそもそもありません。何事も自分自身の問題であるからです。

 

また、故人やその遺体を「ほとけさん」と呼ぶことについても、浄土真宗の考え方によれば、亡くなると同時に成仏すると説きますので、この点は正しいのですが、遺体が仏であるということにはなりません。この身体はあくまでも仮の宿のようなもので、身体がすなわちその人自身ということではないからです。不正解ということではないのですが、正しいというわけでもないので、仏教はちょっと難しいところがあるかもしれません。

 

では仏とは何かと言いますと、これは作用であると言って良いと思います。私たち迷っている者を正しい道へいざなう作用、つまり、はたらきなのです。真理は大宇宙に遍満しているわけですが、私たちはそれに気づかず、いつも自己中心的な発想で迷ってしまっています。真理とは何かという点は省略しますが、とにかく大宇宙の全方向から、私に気づくようにいざなうのが仏です。私たちはそのはたらきに呼応しまして、少しずつ正しい道を歩み出すことが出来ているのです。

 

冒頭、「諸仏・如来は法界身」とありますが、法界とはまさにこの大宇宙のことであり、それこそが仏身であると言うのです。そしてそれが、私たち一切衆生の心に入ってくる。すなわち、仏のはたらきが私に届けられてくるわけです。成仏するということは、私が真理に気づかされ、迷いを打ち捨てた覚りの境地に到達するということなのです。

 

こう書きますと、なんだか現実離れしていますね。「成仏」や「ほとけ」という言葉が誤用されてきたのも分かる気がします。とにもかくにも、まずは迷っている自分に気づくということ、これが第一歩となります。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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