前回の続きとなります。
なるほど、普段物事を考えているのは第六意識であっても、それとは別の第八阿頼耶識に
よって世界も私も成り立っているわけですから、たしかに思ったとおりにはならないはず
です。そしてまた、何らか衝撃的な縁によって、眼識に認識される対象が普段と異なる姿
を見せることもあり、たとえば小学生の時分であれば、友達と遊んでいまだかつてないほ
ど楽しかったり、学校で先生から猛烈にほめられたり、そういう衝撃的な縁が阿頼耶識に
可能性を植え付け、光り輝く川面を生じさせることもあるでしょう。世界も私も私自身の
心ではあるのですが、それらは意識だけではなく、意識よりも深い部分にある不可知なと
ころから生じているのであり、普段意識している事とは違った見せ方を生じさせることも
あります。ただし、あくまでも意識として知り得ることができないだけで、違った見せ方
であっても、それもまた私自身の心なのです。
人生は思わぬ展開になる事も多いのですが、唯識という仏教的立場からすれば、自分が知
り得ていないだけで、すべて自分自身の可能性に基づいているということになります。も
ちろん、その可能性はこの世で生じたものばかりではなく、前世や前々世から持ち越して
きたものもあり、それが努力だけではどうにもならない生まれや境遇を直接生み出してい
るのですが、それでもなお、自分は可能性のかたまりなのだと言えます。いつもと変わら
ぬ川、言い換えれば、変化しそうにない状況にあっても、人は自らの思考や行動によって
いくらでも可能性を蓄えることができます。そして、その可能性はいつか発芽して花開き
、自分自身や状況を変化させることになります。願いというものは勝手にかなうわけでは
なく、願いに向けた努力が可能性となり、自らが願いを成就させていくものなのです。
なお、私はもうかれこれ20年ほど前、30歳頃には妙正寺川近辺から引っ越しをしてお
りますが、その当時、すでに川はきれいになっておりましたので、最後につけ加えておき
たいと思います。合掌
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦