宗の教え010 唯識無境で充実度アップ その1

風景というものは、何の変哲もないものに映ることもあれば、時には芸術作品以上に美しく映ることもあります。たとえば、今から40年以上前のこととなりますが、私は東京の神田川につながる、妙正寺川の近辺に住んでおりました。当時の妙正寺川はお世辞にもきれいとは言えず、生命がほとんど感じられない様子でした。今では水質改善がなされていますが、かつては神田川も場所によっては泡立っていたり(母校の獨協中学付近)、下水がそのまま流れ込んでいたかのようでした。 
 
普段、こうした川の流れを見てもまったく感動はしないものですが、なぜかある時、妙正寺川の川面が光り輝いていたことを記憶しています。小学生の時分だと思いますが、もしかしたら何か嬉しいことでもあったのかもしれません。昔のことで記憶が定かではないのですが、今でもはっきりと憶えています。 
 
妙正寺川の流れはいつもと変わりません、おそらく私の心が漫然とした普段とは異なる状況であったのでしょう。つまり、心のあり方によって、目に映る風景は違って見えることがあると言えそうなのです。私たちはごく当たり前に世界を感じ、その中に私が存在していると認めます。川や山、家や公園などは自分の外に存在しているもので、私たちの心とつながっているとは微塵も感じません。実際、私が思ったとおりに世界は回っていませんし、思いとは逆方向に現実が向かうこともしばしばです。しかし、私たちの心が、私たちが認め得る意識だけではないとしたら、これはどうでしょう。意識以外の心作用があり、それが現実を作り出しているとするならば、思ったとおりにならないこともあり得るかもしれません。 
 
大乗仏教では唯識と言いまして、世界も私も物理的に別在しているのではなく、世界も私も含めて、物事すべては眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識と第六意識・第七マナ識・第八阿頼耶識という七つの識を中心にして生じた事象であり、心のなかに認識対象と認識主体があるとする立場があります。もう少し掘り下げて言いますと、私たちが生活をしているこの地球、そして宇宙も含めた外的な環境世界、そして他でもない私自身は、知性である第六意識ではなく、潜在的とされる第七マナ識(自我意識)よりも、さらに不可知な第八阿頼耶識に植え付けられている種子(可能性)から生じたのです。その生じた事象を、たとえば眼識が認識して、さらに第六意識によって、これは「川」というように言語化していきます。認識対象と認識主体を合わせ持つ識のみが存在し、普段、外的に認めている世界は実在しません。これを「唯識無境(ゆいしきむきょう)」と言います。 
  
次回へつづく

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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