日本人は一般に勤勉だと言われています。耐え忍ぶということも昔からの美徳でしょう。苦しい状況にあっても、忍耐一本で取り組む姿勢が賞賛される傾向も感じられます。仏教でも「忍辱」(にんにく)や「精進」という徳目があり、屈辱や苦悩を耐え忍び(忍辱)、勇猛に歩みを進める(精進)ことを勧めています。私もこれらの言葉は好きです。人生には苦悩が多いことですし、耐えてこそ幸せを掴むことが出来ると思うからです。ああ、昭和時代のスポ根アニメを思い出します。少年時代、夕方はテレビにかじりつきまして、再放送アニメから「忍辱」や「精進」の素晴らしさを学んだものです(昭和48年生)。
とまあ、冒頭いきなり立派な展開となりましたが、実際にはまったくチャランポランに生きている側面が私にはあります。「面倒くさい病」とでも言いましょうか、何でも面倒くさいなあと感じてしまうのです。勤勉や忍耐というものは、美徳として賞賛されもしますが、裏を返せば多くの場合、実現不能だから賞賛されるとも言えます。スポ根アニメであっても、やはりアニメの域を出ないことも多いのです。日本人が勤勉や忍耐を好きなことは否定できませんが、往々にしてそんなに上手くいくものではありません。仏教においても、出来ていないから勧めているわけで、出来ていれば勧める意味はありません。
では私の実際に即して、チャランポランでダラダラと快楽を貪ることこそ人のあるべき姿なのでしょうか。結論から言えば、それはまったく違います。快楽もたまには良いですが、快楽に浸ってばかりでは前に進むどころか後退してしまいます。なぜならば、快楽とは問題解決を後回しにしているだけだからです。人生には取り組まねばならない問題が山積してします。これは誰にでも分かることです。後回しにすればするほど、問題は蓄積していくことでしょう。問題が雲散霧消することはないからです。
忍耐なのか、快楽なのか、さて正解はどちらかと言いますと・・・、実はどちらでもありません。どちらか一方だけに偏り過ぎることは、結局のところ拘りの泥沼にはまるだけだからです。忍耐も快楽も人生の目的にはなり得ませんし、これらはあくまでも手段であり、手段に拘っていては前進することが出来ません。仏教では「中道」(ちゅうどう)と言いまして、一方に偏らない真ん中の道を歩むべきと説きます。言い換えれば、ガス抜きのない生活は破綻するだけだと言うことでしょう。人は機械ではありませんので、忍耐強く生きたいと思うならば快楽を伴う休息が必要ですし、快楽の多い生活をしたいのであれば、時には忍耐強く勤勉することも必要です。お酒を飲む方であれば、働いたあとのビールを美味しいでしょう。あれです。
お釈迦様は苦行ばかりの修行ではなく、ましてや快楽主義に陥ることなく、仏道修行には瞑想を取り入れられました。心静かに自身を顧みること、そして何より、バランスよく一方に偏らない生活をしていくことの重要性を説いて下さいました。これが「中道」です。決してどっちつかずではなく、一方だけに拘らない自然な生き方なのです。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦