散骨と追悼と  ~散骨のすすめ~

お墓とは、故人を追悼するためのものです。ただ、かつて日本人は、遺体が時とともに崩れゆく様に怖れ、死を「穢れ」と見なすことがありました。穢れを「封印」するという意味合いから、遺体は日々の暮らしの場からは遠ざけて埋葬されていたのです。埋葬の場にはわずかな盛土や小さな石など目印程度のものが置かれるのみで、追悼の場はそれとは異なる場所に設けられました。もちろん埋葬地がそのまま追悼の場になることもありましたが、埋葬と追悼とは別々に考えられることもあったのです。そして、遺体はそのまま大地へと還ってゆくものでした。

現代日本において、お墓と言えば遺骨のある場所となります。長らく土葬の占める割合は高かったのですが、近代化にともなって、都市部を中心に土葬用墓地の不足のほか、伝染病予防の観点からも火葬の占める割合が高くなっていきました。そして、昭和二十三年の「墓地、埋葬等に関する法律」制定により、火葬が全国的に行われるようになりますと、遺体はもはや時とともに崩れゆくものではなくなり、火葬された遺骨は死の穢れを感じさせる存在ではなくなりました。遺骨は故人と同じように大切に扱われ、遺骨を納める埋葬地と、故人を追悼する場は同一になっていきました。それが現代のお墓です。

死は誰にでも訪れる命の節目であり、もとよりなんら穢れたものではありません。命あるもの誰しもがいだく死への怖れが、死を穢れたものとして、避けるべき対象としてしまったのでしょう。大きな自然のなかで生成された身体が、そのはたらきを終えて、ふたたび自然へと還ってゆくこと、それが死であると言えます。大切な方の遺骨はいつまでも手元に置いておきたいものですが、還るべき場所は自然であり大地です。故人を悼む気持ちは誰にでもありますし、むしろ人として大切にすべき心情ですが、自然のなかに散骨して還すということは道理にかなっています。

自然あふれる箱根山麓の善福寺では、こうした考えにもとづいた散骨ができます。

社会の移り変わりとともに、人とのつながりも数えるほどの細い糸のようになってしまう実情もあろうかと思います。自分が亡くなった後、散骨により自然へとふたたび還ることができ、それでよいという方も少なくないかもしれません。縁は人それぞれですので、散骨をご自身の遺骨の行く先として選ばれることも、ひとつの選択肢かと思われます。

しかしながら、身内ではなくとも、これまで生きてきたなかで触れ合ってきた様々な縁でつながる誰かが、追悼を願う誰かがいるかもしれません。ご自身の歩んできた道をあらためて振り返ってみたとき、私とは一体どういう存在であったのか、何を欲し何を好み、どのような想いをもって生き抜いたのか、その記憶をのこす価値はきっとあります。なぜならば、それこそが人の営みであり、それらひとりひとりのかけがえのない記憶こそが人類そのものであると言えるからです。それは決して他者に評されたり、優劣をつけられたりする類のものではありません。のこし伝えられていく故人の記憶に触れるなかで、故人に感謝をしつつ、そこから何かしら生きる糧を得ようとすることが追悼であると言えましょう。

のこす記憶.comでは、「私事を綴る」ページにて自分自身の記憶をのこすことができます。そしてそれはそのままクラウド上で「追悼の場」としての役割を果たしてくれるものとなります。

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