北畠氏 ~伊勢の公家大名③~
天皇親政を理想とし、実に二百五十年ぶりに政がその形へと回帰を見るに至り、後醍醐帝の思いがその政の持続へと向けられていくのは、元より定められていた流れなのかもしれませぬ。たとえ天皇親政ではないにしても、時は皇位継承者を持明 […]
続きを読む →天皇親政を理想とし、実に二百五十年ぶりに政がその形へと回帰を見るに至り、後醍醐帝の思いがその政の持続へと向けられていくのは、元より定められていた流れなのかもしれませぬ。たとえ天皇親政ではないにしても、時は皇位継承者を持明 […]
続きを読む →親房もまた北畠氏の例にもれず、正応六年(西暦1293年)水無月(6月)の末、まだ生後半年ながら叙爵、従五位下の位に列せられ、長じて朝廷の政を執り行う側のひとりと定められたのでございます。律令制における官職と位階において位 […]
続きを読む →飛鳥時代の終わりごろよりはじまりました中央集権国家の実現への取り組みの中、国を統べるあり方を律令制へとうつしていく朝廷は、やがて諸国をその持てる力毎に、大国、上国、中国、下国の四つの段階に分けることをいたしました。平安時 […]
続きを読む →一条房基が命を絶つ天文十八年から遡ること六年、天文十二年(西暦1543年)、房基の嫡男として、一条兼定は土佐国幡多郡中村に生を受けたのでございます。 室町の幕府は十二代将軍、足利義晴の時代、ただ依然勢力争いが絶えず、もは […]
続きを読む →大永二年(西暦1522年)一条房冬の嫡男として誕生した一条房基。享禄三年(西暦1530年)にわずか齢九つで従五位下に叙爵、そして享禄五年(西暦1532年)には右近衛中将に任官と、まだ幼き頃より官位を進めていったのでござい […]
続きを読む →此度は、土佐一条家のお話の続きでござりまする。 明応七年(西暦1498年)一条房家の嫡男として誕生した房冬は、永正七年(西暦1510年)に元服いたしますと、従五位上・侍従に叙任、その後も官位を進 […]
続きを読む →一条氏と申さば、藤原氏嫡流たる五摂家、すなわち近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の一家であり、公家の中でも最も高き家格、摂政・関白・太政大臣への昇任が許される限られた名門でございました。 応 […]
続きを読む →此度は続きの話にて、近隣の桐生氏のお話でござりまする。 佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、下野国唐沢山城を本拠として平安の末より栄えた佐野氏に […]
続きを読む →平安の末より、下野の国を中心に栄えた佐野氏は、平将門を討ったことで名高い藤原秀郷にまでその起こりを溯りまする。秀郷の後裔は下野国足利荘を本拠としたことから足利氏と呼ばれまするが、後に室町幕府将軍家となる源氏足利氏との混同 […]
続きを読む →此度の歴史の木戸口 史の綴りものは、近衛家と並ぶ五摂家の双璧とされた九条家の起こりとともに、武家がもはや公家の意のままに動く軍事貴族から一段上の存在へと昇ってきた時代における摂関家の姿を見つめてみたいと思いまする。&nb […]
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