後醍醐帝の御代、そして帝亡き後も南朝を支え続け、『神皇正統記』を著した北畠親房が嫡男、北畠顕家の末裔が、陸奥国府・多賀城よりはるか北、津軽・浪岡の地にてその血をつなぎ、戦国期には浪岡御所を中心に北奥羽に勢力を保ったとされておりまする。
と申しますのも、かつて武神が如き存在として、奥州より兵を率い実に二度までも足利勢を敗走せしめた北畠顕家。顕家が討たれたのち、幕府方の勢力を止めるものはもはやなく、陸奥においても南朝方の勢力は大きく後退する中、霊山城の落城後、その子顕成の流れが北奥羽にてつながっていったとされるも、それを示す文書は残念ながらなく、人々の伝承によるものか、兎にも角にも浪岡北畠氏は戦国期、幕府の力とてもはや無きに等しい足利将軍家十五代義昭公の時代には、北奥羽、津軽・浪岡の地にて浪岡北畠氏が彼の地を治めていたのでございまする。
浪岡北畠氏は、多くの戦国大名との交友でも知られ、『歴名土代』の編纂者であり武家伝奏の役をはたしてきた山科言継の記録に見える第七代当主、長享元年(西暦1487年)生まれの浪岡具永の代に最盛期を迎えたとされております。内政手腕に優れた具永は浪岡を中心に北奥羽をよくまとめ上げ、自らも上洛し朝廷より任官を受けたと伝えられておりまする。天文十七年(西暦1548年)に正五位下、天文二十一年(西暦1552年)には従四位下の位、そして左近衛中将の官にもついておりまする。
こうして徐々に勢力を回復していった浪岡北畠氏でございましたが、世は戦国、第九第当主浪岡 具運の時、一族の内輪もめ(河原御所の乱)で勢力後退を余儀なくされ、津軽西方の雄、大浦為信(後の津軽為信)により浪岡北畠氏は滅亡させられてしまうのでございました。
文武に秀でた顕家の末ながらも、戦国の世を亘ってゆくだけの力は持ち合わせなかったのかもしれませぬ。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
<筆者紹介>
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら

Facebook