北畠氏 ~伊勢の公家大名⑨~

親房亡き後、三男の北畠顕能が伊勢国司となり伊勢を北畠宗家の本拠として固めていったのでございます。やがて世は室町の時となりましても北畠氏はその勢を保ち、いわば公家大名という形での勢力を築いていきました。 
 
時は流れ、文亀三年(西暦1503年)、第六代当主・北畠材親の嫡男として生まれたのが北畠晴具でございます。北畠宗家の例にもれず永正七年(西暦1510年)まだ幼くして叙爵し侍従に任官、そして翌永正八年(西暦1511年)には父から家督を譲られ、伊勢国司家第七代当主となるのでございました。永正十三年(西暦1517年)の従五位上昇叙を経て永正十五年(西暦1518年)に左近衛中将に任ぜられると、室町幕府第十二代将軍・足利義晴から偏諱を受け晴具と改名しておりまするが、このことからも北畠氏が朝廷のみならず幕府ともまた十分にわたり合える力と立場とを有していたことが窺えまする。凡そ政にしても武にしても、何かに偏りがあってはこのような立場を保ち続けることができるものではなく、そこにこそ北畠氏の在り様を見て取れるのかもしれませぬ。 
 
七代当主・晴具の姿は、そのような北畠氏の血を思わせるものであったと伝えられております。和歌や漢学に通じ、朝廷儀礼にも明るく、公卿としての風を色濃く残す一方、戦国の世を生きる武家の棟梁として、軍勢を率い、城を守り、国人衆を束ねるだけの胆力も備えておりました。柔弱でもなくば無論粗野なところなど微塵もなく、文武に秀で志高く、北畠の血かくあるべしと申すべきものでございましょうか、その人となりを伝えることとして国人衆どうしの領地争いを収めた術が伝えられております。 
 
ある折、伊勢の国人衆が国境の領地争いから争論を起こしたことがございましたが、やがて互いに兵を集め、もはや揉め事では収まらぬ有様となりつつありました。その報を受けた晴具は、兵を差し向けるでもなく、当事者双方を多気の館へと呼び寄せたのでございます。さても国司から厳しいお沙汰があるかと戦々恐々としながらも今ここで譲るわけにもいかぬとの思いで館まで双方が参じましたところ、まず和歌の会が催され、晴具は争っていた両者にも一首ずつ詠ませたといいます。やがて盃が巡り、夜も更けたころ、晴具は静かに言葉を発しました。 
 
「人の世は、歌に詠まれるほどには美しくはござらぬ。されど争いのままでは、歌にすら残らぬ」 
 
その言葉を聞いた両者はそれぞれ己を恥じ、落ち着いて話し合うことで争いは収められたと伝わります。武威を以て押さえ鎮めても火種はのこる―ならば人の心をほどくことでと晴具の気質が表れていると申せましょう。 
 

さりながら世は戦国、左様な風雅のみで渡っていけるほど穏やかなものではございません。畿内と東国とを結ぶ要衝である伊勢の地は常に周囲の勢力が窺っておりました。世は移ろい、もはや「正統」の旗印だけで人が動く世ではない。兵糧と領地、そして力を持つ者こそが世を動かす―その現実を、晴具はよく理解していたのでございました。 
 
隣国尾張では三管領家の一家たる斯波家の守護代、織田家の中でも守護代家に仕える奉行家の織田家が急速に勢力を拡大してきている-これまで長きに亘り歴代当主の誰もが経験したことのない類の舵取りが求められる時代へと、これまでの常識では推し量ることのできない時代へと伊勢の国もまたのみこまれようとしていたのでございました。
 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 
 
<筆者紹介>  
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。 
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
 
 
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