北畠氏 ~伊勢の公家大名③~

天皇親政を理想とし、実に二百五十年ぶりに政がその形へと回帰を見るに至り、後醍醐帝の思いがその政の持続へと向けられていくのは、元より定められていた流れなのかもしれませぬ。たとえ天皇親政ではないにしても、時は皇位継承者を持明院統と大覚寺統から交互に立てる決まりとなっておりました両統迭立の定めが続く世、後醍醐帝は実子に譲位し、そのまま上皇として院政を敷き治天の君となる、ということすらも立ち行きませぬ。己が理想とする政を、と願う帝の思いは憂いとなり、やがては両統迭立という縛りをもたらしている鎌倉幕府を倒す、ということにつながっていくのでございました。 
 
長きに亘り北条得宗家が執権として権勢をふるう鎌倉幕府では、もはや憚る様すら見せぬ北条一門への偏重に加え、重なる負担や情勢不安は幕府をして多くの御家人からの支えを失わせるに十分なものでございました。 
 
事の流れは様々伝えられておりまするが、倒幕の挙兵は、優勢であった鎌倉幕府側により一時鎮められたかに見えたものの、後醍醐帝の挙兵に呼応した楠木正成が河内国千早城にて幕府の大軍を翻弄し続ける戦ぶりは幕府側に厭戦の気運を生じさせ、倒幕の機運を熟させるものとなったのでございました。そして後醍醐帝の皇子の中でも武の人として知られる護良親王が再び挙兵、流刑地を脱した後醍醐帝の綸旨と、護良親王の令旨とが日の本に広く発せられたことは倒幕の気運を大いに高め、幕府方で北条得宗家と代々縁戚関係を結んできた武家源氏の名門、足利氏の当主・足利高氏(のちの足利尊氏)の幕府離反が転機となり、鎌倉からの討伐軍と京・六波羅探題は壊滅にいたりましてございます。さらに、関東で御家人新田義貞らが倒幕に応じ、北条得宗家を倒し、鎌倉幕府による支配を終わらせた後醍醐帝は、理想とする建武の新政を開くのでございました。時、元弘三年/正慶二年(西暦1333年)文月(7月)のことでございまする。 
 
この時、出家し政の世界から身を引いていた北畠親房は、鎌倉幕府倒幕の動きにも関わっておらず、と伝わっておりまする。後宇多院政より朝廷の中枢に身を置いてきた齢三十八の親房には、この大きな時代の移り変わり、どのように映っていたのでございましょうか。 
 
鎌倉幕府を倒し、理想とした天皇親政に邁進する帝でありましたが、還俗し自ら兵を率い転戦を続け、武の側面で父帝を支え続けた護良親王は、本来あれば勲功第一とされてもよい働き―建武の新政において征夷大将軍に任じられこそしましたものの、やがて自らに権力を集中させようとする父帝後醍醐の思惑、巧みに帝の信頼を得ていく足利尊氏との対立、そして実子に皇位を継がせたい後醍醐帝の寵后、阿野廉子の働きかけなどに翻弄され、父帝後醍醐との溝は深まるばかり、建武二年(西暦1334年)霜月(11月)には、鎌倉に流罪とされてしまうのでございました。 
 
さて、建武の新政が始まり、一たびは隠棲しておりました北畠親房も再び政に参画いたします。ただ、親房はこの時すでに帝との溝が深まる護良親王派であったこともあり、政の中心とは少しばかり遠い立場であったとされておりまする。やがて東国武士の帰属、陸奥の支配を手堅くせんと欲する帝は、親房の嫡男、北畠顕家を従三位陸奥守に任じ、第七皇子義良親王を奉じて陸奥国多賀城へと下向させるのでございますが、この折、親房も共に陸奥へと随行するのでございました。 

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 
 
<筆者紹介>  
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。 
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
 
 
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