北畠氏 ~伊勢の公家大名②~

親房もまた北畠氏の例にもれず、正応六年(西暦1293年)水無月(6月)の末、まだ生後半年ながら叙爵、従五位下の位に列せられ、長じて朝廷の政を執り行う側のひとりと定められたのでございます。律令制における官職と位階において位に当たる位階は、正一位から少初位下まで三十あり、一位から三位までは正と従が、四位から八位までは正、従に加えて上と下がございましたが、五位より上の位階がいわゆる貴族となり、家格によりてそこが序となるもの、そこまでは進めぬものとが厳然と隔てられておりました。やがて延慶元年(西暦1308年)霜月(11月)、親房は非参議従三位として公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら議政官。時代により異なるが、律令制における最高国家機関たる太政官において朝政に参画する高官、およびその任官資格を有するもの)に列せられ、延慶三年(西暦1310年)師走(12月)には参議に任じられたのでございます。時の帝は第九十五代となる花園天皇、伏見上皇を治天の君とする伏見院政の時代でございました。 
 
伏見院政はその後、上皇出家に伴い花園帝の異母兄にあたる後伏見上皇(第九十三代・後伏見天皇)へと引き継がれ、正和二年(西暦1313年)から文保二年(西暦1318年)の間、後伏見院政の時代となっていくのでございます。文保二年(西暦1318年)如月(2月)、譲位により後宇多上皇(第九十一代・後宇多天皇)の第二皇子、尊治親王が践祚、第九十六代天皇に即位したのでございました。後に南北朝時代を迎え、南朝初代天皇としても知られる後醍醐天皇の時のはじまりでごさいます。尤も、これまでのように後宇多院政が敷かれ、即位から三年間、元亨元年(西暦1321年)治天の君たる後宇多上皇が隠居するまでは院政がつづきまするが、後宇多上皇が治天の君の座を退かれた後、後醍醐帝による親政が始まるのでございます。齢三十を過ぎての即位が実に二百五十年ぶりのことではありましたが、それだけではなく他にも様々伝えられてはおりまする諸々、是非は兎も角としても、ここに天皇親政が行われることとなったのでございました。 
 
さて、後宇多上皇に仕え、その信任も厚かった親房は参議に任じられた後も要職に任じられ、益々頭角を現し、後宇多院政から続く後醍醐親政においても、必然重きを成して行ったのでございました。その信任の厚きこと、後醍醐帝の第二皇子にして、その聡明さから父帝後醍醐も行く末を期し、目をかけていた世良親王の乳父をゆだねられたことからもうかがい知ることができましょう。 
 
こうして朝廷において重きをなす親房でしたが、はやり病の多かった元徳二年(西暦1330年)、病の床にあった世良親王は、持ち直すことなく儚くも薨去、病の重さゆえ遺言を書き記す力も残されていなかった親王は、最期に親房に遺命を託したとつたえられております。定かには判りえぬところではございますが、世良親王の宝算、二十くらいではと考えられておりまする。 
 
親王の薨去を嘆き、親房は出家、政の世界からも身を引くのでございました。元徳二年(西暦1330年)、親房、齢三十八のことでございました。
世が大きく乱れ、討幕の動きがやがて鎌倉幕府を倒すほどのものとなりまする、世にいう『元弘の乱』に一連する戦の端緒となる笠置山・下赤坂城の戦いは、翌元徳三年(西暦1331年)長月(9月)のことながら、それを然と描けているものなど、未だ誰もおりませんでした。 

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。 
 
<筆者紹介>  
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。 
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
 
 
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