前世と来世 ‐他力‐

仏教の歴史は2500年もあります。解脱の方法も様々に考案されました。日本にも宗派がたくさんありますが、違いはその方法に基づいているとも言えます。お釈迦様は瞑想によって解脱されましたので、瞑想するということが基本的な方法になります。しかし、瞑想というものは短時間ではあまり成果がなく、ある程度の長さと繰り返しが必要です。人にとりまして、同じことの繰り返しというのは面白いとは言い難いでしょう。スポーツ選手は練習を繰り返すわけですが、かなりの忍耐が必要なことは言うまでもありません。仏教でも忍耐は瞑想とともに修行の重要事項になっています。

 

念仏でありましても、たとえば何万回もとなえるという話もあります。たしかに念仏は短時間でどこでも出来るものですが、何万となると大変です。なぜ何万回という数字になるのかと言えば、これもやはり忍耐というものが課せられているからでしょう。それだけ頑張ったということなのだと思います。しかし、頑張れない場合はどうなるのでしょうか?

 

皆が等しく頑張れるのであれば、そもそも宗教なんて必要ありません。宗教の本質というものは、「頑張れない場合はどうしましょう?」というところ、つまり、人の本来持つ弱さを包み隠さぬところに由来します。勉強と同じことで、クラスの皆が等しく優秀であるならば先生は必要ありません。小中高の先生にとって大事なことは、クラスのなかの落ちこぼれを引き上げていくことでしょう。先生は多様な方法を示して生徒を導く存在です。仏教で言えばお釈迦様。お釈迦様は私たちの弱さを見抜かれ、たくさんの経典(説法)を残されました。出来の悪い生徒でも歩んでいけるような方法も含まれています。

 

その経典の1つに『無量寿経』というものがあります。簡単に言いますと、阿弥陀如来が上記のようなあまり頑張れない人々を救いとるという内容です。阿弥陀如来はお釈迦様のような先生という立場ではなく、むしろ母親のような存在です。こちらの出来具合の良し悪しに関わらず、むしろ出来の悪い私たちこそ救いの目当てとされるのです。このはたらきを他力と言います。

 

私たちは大海原で溺れかけているような存在です。実はそのまま力を抜けば浮かぶのですが、どうしても自分だけの力で何とかしようとするところがあります。阿弥陀如来はそんな私に対しまして、私が何をしようとも大海原のように大きく包んで下さいます。修行もままならず、死に向って恐れおののく私であっても、そのまま極楽浄土へ参らせていただけるのです。皆、母なる国土へ還っていくわけです。

 

宗教には救いが必要です。仏教は自分自身を厳しく観察することを要求すると同時に、こうした救いをテーマにもします。他力は解脱の方法の1つとして考えて良いものです。阿弥陀如来にすべてを任せるような思いに包まれるということは、言い換えるならば、真に自分自身の出来の悪さに気づかされたということでもありましょう。それでもなお、この世にいる限りは迷い続ける私たちですが、命尽きると同時に迷いも霧散し、解脱の境地に至ることが出来るというわけです。業の蓄積と発動は停止され、これ以上輪廻することもなくなります。この世での私という「意識」がどうなるのかは分かりませんが、おそらく大雑把に言えば、迷いの私ではない本来の私に還っていくのでしょう。

 

それがどういうものなのかは、私には分かりません。いずれにしましても、他力によって生かされているのが私という存在であるようです。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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