幽霊はいるのでしょうか?

ここまで3回にわたって前世と来世のことに言及しましたが、皆さんはどちらに興味がおありでしょうか。前世でしょうか、それとも来世でしょうか。私ははじめ、来世のことのほうが心配でしたが、最近は前世の存在に関心があります。前世での行いにより、今こうして人として生かされていると思いますと、とても感慨深いものがあります。どれだけ輪廻してきたか分かりませんが、ようやく仏教、そして他力に出会うことができたわけですし、長い旅を続けてきたんだなあとしみじみ思います。前世は何をしていたのか、ちょっと気になるところです。音楽が好きなので、もしかしたら鈴虫であったかもしれません。もちろん、蝉であったかもしれませんが。

 

しかし残念ながら、前世を振り返ることはできません。記憶というものは、おそらく命にとってはそれほど重要ではないのでしょう。業は蓄積されているのですが、それは閲覧可能な状態にはありません。しかも記憶というものは曖昧で、私たちの願望が都合よく反映されることもしばしばです。いわゆる「思い出補正」されていることは、よくあることです。記憶は完全なデータというわけではないので、現世を生きる上で前世の記憶を残しておく意味はないと言えます。ただし、もちろん転生によってすべてが消え去るわけではなく、自分のしてきたことは業として残るので安心です。

 

このように仏教ではサッパリとした考えを持っています。ジメジメしてはいません。ジメジメと言えば幽霊ですが、どうも今までの話のなかで幽霊が出て来そうな部分はないように思えます。幽霊は昔からとても身近な存在なのですが、仏教の理論からすると縁遠い存在になってしまうのです。でも、面白いですよね、昔からお坊さんが幽霊を成仏させるという話は多くありますし、仏教と幽霊は関係が深いのも確かなのです。

 

結論から言いますと、幽霊の存在背景というものは怨みや妬みが中心となっているわけなので、これは私たちの煩悩そのものです。つまり、幽霊は自分の心を見ているようなものなのです。怨まれ妬まれているかもしれないという恐怖、そして自分自身も人を怨み妬んでいるという心のあり方が、幽霊となって眼前に現れるのでしょう。そもそも仏教では、自らの業の発動によって出現した世界を自らが見ていると考えますので、この意味においては、幽霊はちゃんと存在することになります。人がたくさんいて、全員が同時に同じように幽霊を見たという話があまりないことからも、おそらく個人的に眺めているものが幽霊なのだと言えそうです。

 

ただし、エラーするということもあるのではないかと、最近は考えています。即座に補正されるのでしょうが、宇宙はエラーと補正で成り立っているという側面もあろうかと思います。転生だってエラーすることもあるでしょう。死を迎えて業が発動するとき、何らかの間違いで部分的に何かが現世に残ってしまうこともあるかもしれません。それをたまたま誰かが見たのが幽霊と言えなくもない。補正されるので即座に消えるのかもしれませんが、そこでお坊さん登場となっていたのかも。

 

本当のところを知ることはできませんが、幽霊話がたくさん残されていることを考慮しますと、それだけ人には怨みや妬みの心があるということが分かると同時に、人の思考を超えたシステムのダイナミズムのなかに私があると感ぜずにはいられません。何事も知りたくなるのが人の性ではありますが、そっとしておくのが風情というものでしょう。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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