ワンクリックでのお坊さん手配

ここのところ、いわゆる「お坊さん便」が盛況のようです。インターネットのクリック1つでお坊さんを呼ぶ、という仕組みですが、状況によってはクリックしたら「在庫切れ」と表示されることもある様で、あたかも僧侶がモノ、在庫扱いされているような状態に一僧侶として驚きを隠せないのが正直なところです。まるで工場で統一規格生産されたものの様ですが、依頼する側も、実際どんなお坊さんが来てくれるのか分からない、といった不安はないものかと考えてしまいます。しかし、供養のための僧侶手配というものは、今に始まったことではありません。

 

鎌倉時代頃からは、葬儀等の供養を取り仕切る半僧半俗の人々もいたようです。寺院住職とは別に、こうした供養を生業にしていた人々もいたのでしょう。葬儀社や石材店から供養依頼を受けることがありますが、それも鎌倉時代からの流れのなかで捉えることが可能かもしれません。そう考えますと、仲介の場がインターネット上になったというだけで、何か新しいことが起きたということでもなさそうです。

 

とは言いましても、「お坊さん便」の問題点はむしろ別のところにあると言えます。手軽であるがゆえ、供養ということを軽く考えがちにもなりましょうか。供養の意味が忘れられてしまうかもしれません。「お坊さん便」のお坊さんも、お寺の住職さんと言うよりは、配達されてきたお坊さんと思われてしまうかもしれません。手軽さというものは、じっくり向き合う機会を失わせるものです。だからこそ手軽なのでしょう。供養は決して手軽に済んでしまうことではありません。別離の苦悩というものは、少々のことで忘れ去られるということではないからです。

 

これは個人的な思いですが、供養を手軽に済ますということが、命を軽んじるということにつながっていかないか心配です。別離は苦悩でありますが、同時に残された私たちにとりましては、命についての学びの場を与えてくれる仏縁でもあります。とくに子供たちにとりまして、おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていくということは、本当に大きな人生の学びになることでしょう。別れを経験することもまた大事なことです。じっくり向き合う機会を奪うべきではないでしょう。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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※本記事は『仏教神奈川』第71号に寄稿したものを一部再編集したものです。