宗の教え025 初発心で充実度アップ

何事も始めなければ達成されることはありません。しかし始めるということは、簡単なようで難しいという一面もあります。たとえば部屋を片づけること。多くの人が部屋を片づけようとは思ってはいるでしょう。乱雑な状態が心地よい場合もありますが、不要なものは整理したほうがいいですよね。ただ、始めるのが面倒くさい。試験勉強と同じです。8時から始めよう、それまで漫画読む。いや8時半からにしよう…。というような経験は誰しも一度はあると思います。面倒くさいんですよね。 
 
面倒くさいというのは、人生を歩む上で大敵です。しかも面倒くさがっているのは他でもない自分自身なので、これまた厄介です。自分を奮い立たせる必要に迫られるわけですが、そういう場合、たいてい心のなかにやる気ある自分と、やる気ない自分が隣り合わせになっています。ここはもう、やる気のある自分が頑張るしかないのですが、始めてしまえばちゃんと終わるものなんだということ、多くの人は知っているはずです。部屋の片づけも、試験勉強も、仕事だって始めてしまえばいつかは終わります。そうであるならば、始めることがいかに大事なのかということが分かってきます。 
 
仏教では「初発心時便成正覚」(しょほっしんじべんじょうしょうがく)という教えがありまして、簡単に言えば覚りを得ようと初めて思った時、すなわち覚りは完成されているのだという意味です。人は元より覚ってはいるのだが、迷いの心によって覚りが覆われており、それに気づくことが出来ていない。覚りを得ようと思ったということは、迷っている自分に気づいたということであり、それはもう覚ったも同然ということです。始めるということは、現状を把握して目標に向けて動き出すということなのですから、そこには終えるまでのすべてが詰まっていると言っても過言ではありませんね。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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