人と人との出会いを考えたとき、とりわけ恋人や夫婦としての出会いは運命的なものを感じることもあるかもしれません。かつて、「あの日、あの時、あの場所で♪」という歌がありましたが、まさにそれです。こうした出会いも含めて、自分の周囲で起こることというのは、そもそも何でそうなるのでしょう。完全な回答にはなりませんが、仏教には「縁起」という考え方があります。物事が起きることにはその他色々な物事が関連しており、その色々な物事を「縁」として物事が起き「立つ」ことを言います。この「縁起」から出会いを考えてみましょう。
まず、ここは現世(今、この世)だけの視野ではなく、過去世も含めた視野で考えていきます。過去世とは今の自分が生まれる前、別の存在であったときのことです。当然、その記憶は今の自分には残っていないのですが、そういう以前の「命のステージ」があったと仏教では考えています。たとえば人であったかもしれませんし、動物であったかもしれません。こうした過去世を想定しないと、現世において何で自分はこの両親の間に生まれてきたのか、この容姿や先天的能力、性別は何でこのように決定づけられているのかなど、色々と説明できない部分が出てくるからです。つまり、現世とは過去世によって縁起したものであり、生まれは過去世と深い因果関係にあると見たのです。
次に、自分の行為やその影響というものは、刻一刻と自分の心のなかにあたかもデータのように貯蔵されていきます。これはすべての行為についてです。ああした行為をしたので、その結果、こういう物事が、今、自分に起きた。身近なことで考えてみますと、頭に何かがぶつかれば痛くてコブができます。原因と結果です。これを過去世も含めて考えてみますと、過去世での行為やその影響(原因)が心に貯蔵され、それが現世まで持ち越してきて、自分はこうして生まれた(結果)となるわけです。データは過去世の自分から今の自分へ持ち越されると考えます。
両親や自分の容姿、先天的能力や性別という、生まれながらの物事は過去世における自分の行為とその影響によってもたらされた結果です。これ以外にも、様々なデータを持ち越して生まれてきます。両親との出会い、兄弟姉妹との出会い、祖父母との出会い、そして血縁ではない友人との出会いも無関係ではありません。この両親の元で生まれたということは、ある程度、今後出会うであろう人々が限定されてくることを示します。もちろん、現世での自分の行為とその影響によって出会う人々は変わってくるのですが、大枠は決まってくると言ってもいいでしょう。ちなみに、私たちは自分の母親を自分で選んでいます。
となりますと、「あの日、あの時、あの場所で♪」とは言いましても、それは単純な運命ということではなく、過去世と現世における、他でもない自分自身の行為とその影響によって縁起した出会いであったということになります。過去世からのデータがどのように花開くかは現世での自分の行為に関係してくるのですが、出会う可能性が高い状況において、私たちは生まれてきたようです。
仏教では行為とその影響を「業」(ごう)と呼びまして、この「業」によって自分が縁起して存在するという考え方を「業感縁起」と呼んでいます。なお、「業感縁起」は今の状況の責任を単に過去世に転化して誤魔化すためのものではなく、むしろ逆にどのような状況であっても、自分の行為によって未来はいかようにも変化していくという教えであることを付記しておきます。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦

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