仏教の修行と言いますと、かなり難易度が高いと思われる方も多いでしょう。修行という言葉のイメージが厳しさを伴いますし、実際、難しい修行は現代でも受け継がれています。しかし難しい修行があるならば、易しい修行もあるのが道理です。難易度は自分に合った程度を選べば良いので、それほど恐れることはありません。
私は縁あって浄土真宗の坊さんであるのですが、浄土真宗は他力易行門を旨とすることから、身体的に厳しい修行はありません。江戸時代から学問に力を入れてきた宗派なので、勉学には励まねばなりませんが、皆さんが想像するような難しい修行はないのです。
難行であれ易行であれ、仏教には修行がつきものです。他力易行門においても、自力で行う難しい修行はありませんが、阿弥陀如来から賜る意味での修行はあります。少し奇妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、阿弥陀如来が修行時代に完成された「修行の成果」を、そのまま私がいただくというのが他力易行門の修行です。「他力」とは「阿弥陀如来のはたらき」を指す仏教語です。阿弥陀如来から成果をいただき、同じようにさとりへと向かわせていただくというわけです。
難しい修行を私が自力で成すのではないので、その意味において易しい修行、つまり易行です。ただ、そのまま私が疑いなく阿弥陀如来から成果をいただく、受け取るというのは簡単なことではありません。疑いというのは、難行に対する心構えもない私が、阿弥陀如来に頼らずとも自力で成すことが出来ると思う慢心です。
慢心とは驕った心であり、仏教ではご法度です。まずは自分の至らなさ、愚かさを知ること、そのためには仏法を聞くしかありません。人の話を聞かず、自分だけの尺度で物事を計っていますと、どうしても独りよがりになりがちですよね。そこに慢心が生まれます。仏法は阿弥陀如来から賜る尺度です。仏法を聞くことによって、ようやく自分の至らなさ、愚かさに気づかされます。まずは何事も耳を傾け、聞くことが大切です。
仏法を聞いて、自分自身に向き合い思慮深くなることが出来れば、自から疑いも晴れて来ることでしょう。深い思慮は気づきにつながります。偽りのない自分本来のすがたに気づかされ、阿弥陀如来に「私の修行」をおまかせすることが出来れば、それがそのまま他力易行の修行となります。「聞・思・修」は仏教における仏道の歩み方を示します。これは自力難行でも他力易行でも同じです。
まずは聞くこと。普段の生活においても、「聞」こそまず大事だと言えますね。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦