宗の教え020 真如法性で充実度アップ

運命の分かれ道ってありますよね。あの時、ああしていればよかったなあとか。もっと前向きに言えば、ああしたから今があるんだとか。人によって様々だと思います。自分の判断だけでは避けられないような出来事もありますが、だいたい自分の判断で歩みを進めてきたと思えることでしょう。運命は自分で切り開いていくものなのだと考えている方も多いかもしれません。 
 
人生を振り返るならば、たしかに分かれ道はあると思えますが、歩んできた道は1つです。そして、これから先も歩む道は1つです。おそらく分かれ道はあるでしょう。しかし、歩める道は1つなのです。分かれ道では自分の判断で歩む方向を決めることでしょう。それが人生であるはずなのですが、本当に自分が下す判断に方向を決める力はあるのでしょうか。もしかしたら、はじめからそう判断するよう決められているのかもしれません。 
 
こうした考え方を運命論と言いまして、運命はすべて決まっていると考えます。分かれ道があるように思えても、決まっている道を歩んでいるだけなのです。がっかりする思いではありますが、避けがたい出来事もあることを考えますと、一概に否定することはできないかもしれません。自分の判断だけで切り開けない場合もあるからです。そして、自分の判断であっても、あらかじめ決められた判断であったとも考えられなくはないですよね。 
 
さて、仏教ではどう考えるのでしょう。結論から言いますと、仏教には上記のような運命論はありません。仏や神によって運命が定められているとか、そういうことはないのです。仏教では因果論と言いまして、この宇宙における物事の流れというのは、何らかの原因によって結果がもたらされるという原則です。避けがたい出来事であっても、それが起きる原因は必ずあります。また、自分の判断で道が開かれたならば、当然、自分の判断が原因となっていますし、そう判断したことの原因もまた存在しています。 
 
これはつまり、自分が人生を切り開くという意味において、運命論とは対極的であるとも言えそうです。さらに言うならば、大乗仏教においては唯心思想と言いまして、物事の原因はすべて自分の心によっていると考えます。となりますと、自分に無関係そうな出来事であっても、めぐりめぐってその原因は自分にあるということにもなってきます。ここでは唯心思想について深入りはしませんが、いずれにしましても、仏教ではあらかじめ決められた道を歩むのが人生であるとは考えていません。 
 
なるほど、ならば人生において大事なことは、やはり自分の判断なのだと思えてきそうなところですが、実はそう簡単ではありません。よくよく考えてみるならば、こうした因果論というものは、究極的に言うなばら、すべての出来事は1つの原因に収束されていくということになってしまいます。つまり、その原初的な原因の存在によって、この宇宙の出来事はすべて起きるべくして起きているということです。これは見方を変えただけで、実際には運命論と変わらないとも言えます。 
 
先に述べましたように、自分の判断であっても、そう判断する原因はあるわけで、そうであれば、その原因のそのまた原因もあることにもなります。それを突き詰めれば、原初的な原因にたどり着いてしまいます。なんだ、結局のところ人生は決まっていると言えるではないかと。何のために生きているのかと悲観的になってしまいますよね。しかし大丈夫。ここからが仏教の本領発揮するところであり、こうした因果の束縛から自由になることこそ仏教の目的です。 
 
大乗仏教においては、真如法性(しんにょほっしょう)をさとることにより自由になることができると説きます。言い換えれば、それをさとらないかぎり何をしてもダメなのです。完全にさとることがなくとも、段階的なさとりでも変化は起きてきます。さて、この真如法性とはどうやってさとるのでしょう。そもそも、真如法性って何なんだ。 
 
少し話が変わりますが、仏教では迷いの世界に縛られていることを輪廻転生と言います。命あるものすべて、迷っているかぎり、様々な命のステージをグルグルめぐっているだけだと考えます。前世もあり、前々世もあり、数限りないステージをへて今、私はこうして人としてのステージを生きているわけです。輪廻とはよく表現したもので、もしかしたら私は迷っているかぎり、いくつかのステージにおける同じ人生を、何度も何度も繰り返しているだけかもしれないのです。 
 
では、私は何に迷っているのでしょう。それは物事のとらえ方です。宇宙の物事はすべて諸行無常であり、これは移り変わっているという意味です。因果は絶え間なく発動しているので、変化は絶え間なく起きています。停滞することはありません。自分自身の存在もそうです。先ほどの自分と、今の自分は同一ではありません。だって心は絶え間なく動いてしまうでしょう。それを無理矢理、固定的にとらえようとするから間違えるのです。物事を正しくとらえることができていない、変化に対応できていない、だから迷う。真如法性とは、物事の正しいあり方です。 
 
真如法性をさとることができれば、今まで持ち合わせていなかった原因を自分に植えつけることができます。そうでないかぎり、結局のところ同じ過ちを繰り返すため、判断はいつも間違えることになります。避けがたい難局に遭遇したとしても、正しい物事のとらえ方ができていれば、人生の歩みは変わっていくことでしょう。因果論は原則として存在しますが、人生を変えることはできるのです。ちなみに真如法性をさとるためには、正しい生活をして正しく思考することが前提です。倫理的な善悪もしっかりわきまえないとならぬわけで、まずは自分自身の行いを振り返ることがスタートとなりそうです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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