宗の教え017 極楽浄土で充実度アップ

極楽浄土、仏教で説くところのいわゆる「あの世(あちらの世間)」ですが、より清浄さが強調される場合は「出世間(しゅっせけん)」とされ、穢れである世迷い事のある世俗を出たより高次な国土とされます。「世間」というのは、まだ迷いの世界にあるという意味で使われる場合が多いようです。イメージとしては、私たちが生きている「この世」です。いずれにしましても、極楽浄土は阿弥陀仏という仏のいる国土にはなります。 
 
う~む、何のことやら、と思われことでしょう。しかし、浄土と名のつく仏国土は他にもあり、どの浄土へ行くことが最善なのかと議論されたこともあったのです。極楽浄土は他浄土の信奉者から低次に見られることもあったのですが、そもそも、極楽浄土を説く経典はたくさん存在し、それぞれ説いている内容に矛盾があったりしました。どの程度清浄なのか何とも言えず、どんな仏国土なのかなかなか定まらなかったのです。今でこそメジャーな極楽浄土ですが、この立場を得るためには紆余曲折あったわけです。 
 
ところで、極楽浄土はどのような過程をへて人の知るところなったのでしょう。文章化という視点から言えば、1世紀頃に編纂されたとされる『阿弥陀経』など、阿弥陀仏が登場する浄土経典(たくさん種類があります)に説かれていることが分かっています。と言うことは、それ以前にどこかの誰かさんが発見したことになります。え?それってお釈迦さまなのでは?と思われるかもしれませんが、たしかに仏教の開祖はお釈迦さまなのですが、歴史的に見ますとお釈迦さまが極楽浄土を説いた形跡は今のところありません。お釈迦さまは仏教の基本的な教えと瞑想法を説かれましたが、お釈迦さま以降も仏教は発展し、高僧方が様々な教えと瞑想法を提示されたのでした。極楽浄土はこうしたなかで歴史上に登場します。 
 
浄土経典に説かれていることを見ますと(『阿弥陀経』など、本屋さんで売っています)、極楽浄土は当時の僧侶にとっての理想国土のようにも思えます。当時というのは前述の紀元前後のことなので、お釈迦さまがお亡くなりになって5~600年前後は経過していると思われます。お釈迦さまはこの世に出られた仏(←釈迦牟尼仏とも言います)であり、仏の教えを直接受けることは僧侶の宗教的理想です。しかし、そのお釈迦様はすでにおられないとなりますと、この世からどこか別の仏のいる国土へ移動するしかないわけです。 
 
高僧方が瞑想をされるなか、おそらく、こうした願いも相俟って、この世とは別の仏国土である極楽浄土の存在を知り、そこに阿弥陀仏を見たのではないかと思います。瞑想においては、阿弥陀仏が眼前に立たれ教えを説かれることもあったかもしれません。瞑想によって観察した阿弥陀仏の姿と極楽浄土の風景を改めて言語化し、それをもとに神話的脚色、つまり、阿弥陀仏がどのような修行をへて仏となったのか、仏になる前は何をしていたのかといった話を加え、浄土経典が誕生したのかと思います。その阿弥陀仏は歴史上のお釈迦様をなぞるように語られ、阿弥陀仏から直接教えを聞く願いが達せられる国土として、理想的に極楽浄土は描かれています。理想国土という意味で言えば、たとえば沐浴場の水温調節が完璧だとか、洗濯物がよく乾くとか、そういう生活空間の願いも込められているところは興味深いです。阿弥陀仏がおられて、そのご指導のもと、心地よく仏教の教えを実践することができるような国土なのです。 
 
語弊を恐れず言い方を変えれば、会いたい人に会える国土、それが極楽浄土です。誰しも再会したい方はいることでしょう。家族であったり、友人であったり、はたまたその道の先達であったりと、人によって様々だと思います。浄土経典には「倶会一処」という言葉がございます。極楽浄土においては、「ひとところ(一処)でとも(倶)に再会できる」という教えです。古の僧侶たちは仏に会いたいと願ったことでしょう。 
 
死すれば何もなし、と考える方もおられるでしょう。もちろん、どうなるかは死なないと分かりません。しかし、私は何もないのでは寂しい。会いたい人、たくさんいます。もう会うことができないなんて、せっかく出会ったのに悲しいことです。仏教での極楽浄土のみならず、諸々の宗教では何らかの「あの世」が説かれます。宗教とは自分の「生き死に」を課題としているものですが、それは宗教でしか解決できないからです。科学的に解決するということではなく、宗教として、宗教的な解決を図っているのです。死は誰にとっても恐ろしい事です。できれば死にたくないし、大事な方にも死んで欲しくない。そう思うのが人情ですが、そうはいきません。会いたい方に会えるところ、それが極楽浄土であり、いわゆる「あの世」です。願うならば、行くことができるはずです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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