宗の教え016 二種深信で充実度アップ

仏教に限らず、どのような宗教でも信心は不可欠です。仏さまも神さまも、普通に生活していれば頻繁に出遇えるという存在ではありません。宗教において、私たちが直接触れているのはまずは教えであり、教えを通じて宗教体験をすることが可能となります。つまりその教えを聴いてみないと、そもそも始まらないのが宗教なのです。そこが衣食住と異なるところであり、宗教は人生を豊かにしてくれるものですが、必須ということでもありません。 
 
たいていの宗教には尊格がありまして、仏教では仏さまが筆頭の尊格です。尊格がたくさん存在する宗教もあれば、ひとつだけの宗教、また、抽象的な宗教もあります。仏教は対機説法と言いまして、説法を聴く人に合わせて様々な教えが説かれます。必然的に仏さまも色々な性格が出て来まして、たくさんの仏さまが存在することとなりました。別人格というわけではなく、仏さまの多様な側面という意味になります。一方、キリスト教やイスラム教など、神は唯一としてその多様性を説かない宗教もあります。 
 
いずれにしましても、教えには仏さまや神さまを信じることの意義深さが説かれており、そこから信心が始まっていきます。仏教のなか、とりわけ信心を重んじているのは浄土教であり、阿弥陀如来の教えを説くものです。阿弥陀如来は命あるものすべてを救い取ってくださるはたらきであり、阿弥陀如来に帰順することが浄土教の信心となります。 
 
しかし、一度教えを聴いただけで簡単に信じられるのかと言えば、そんなことは稀でしょう。教えを通じて、自分自身にとって何らかの実感があるからこそ、信じる気持ちにもなるものです。 
 
浄土教において、信心というものは2つの側面があると言われます。まず、人は教えに触れることによって、はじめて明確に自分の過ち、自分の至らなさに気づかされることがあります。愚かな自分に気づかされるのです。そして、愚かであるからこそ、だからこそ救いの手を差し伸べてくださる阿弥陀如来。こんな自分を無条件で受け入れてくださる阿弥陀如来の慈悲に触れたとき、信心は自から実感できるものとなります。信心はまさに阿弥陀如来からいただくとも言えましょう。これを二種深信(にしゅじんしん)と言います。 
 
自らの愚かさに気づかされること、場合によっては、懺悔(さんげ、ざんげ)という言い方もいたします。仏教のみならず、キリスト教などにも見られる宗教行為です。自分を悔い改めるということです。仏さまや神さまの前だからこそ、嘘偽りのない自分に正直に向き合うことが出来るのでしょう。信心というものは、ただ信じ込むというものではなく、内省による自分自身の気づきがあって初めて成り立つものなのです。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

善福寺の公式サイトはこちら

 
『宗の教え~生き抜くために~』アーカイブはこちら