前回、自業自得のお話をさせていただきました。私たちは自分の意志に関わらず、思いがけず善い方向にも悪い方向にも行ってしまい、困惑することもしばしばです。だからこそ、時には肩の力を抜いて、流れにまかせるような生き方も必要ではあるのですが、状況を変化させる自分の意志もまた業とは無関係ではありません。変化させたいと思う意志も業のうちであり、変化を望むということは、そうした業によってもたらされた結果でもあるのです。
分かってはいても、なかなか状況を変化させられない。そういう時は、いまだ変化するという結果がもたらされていないか、変化の最中にあっても、正しい行動を取れていないということになります。時が満ちていない場合は待つしかありませんが、思うように上手く変化出来ない場合は、正しくない行動によって、さらに悪業を積んでしまっている可能性もあるでしょう。では、悪業を積まないようにするためには、どのような心掛けが有益なのでしょうか。
仏教においては、私たちの行動指針として、無所得ということが頻繁に説かれます。これはもちろん報酬を得ないというボランティア精神のことではなく、得るところがない、すなわち、物事に余計な執着をしないという意味になります。私たちが物事をとらえて、実体があると思ってしまうことであっても、仏教ではそのように見ることはありません。私たちの身体を例に取ってみますと、身体はたしかに実体があり、だからこそ私たちは生きていて、時には爽快感を、また、ときには苦痛を感じることもあります。しかし、よくよく考えてみるならば、身体は刻一刻と変化しているのであり、私たちが思い込んでいるような固定的な実体があるわけではありません。その証拠に、私たちの身体はいつか使用不能になる、つまり、私たちはその時が来れば死ぬわけです。
他にも名誉ですとか、お金というものであっても、実際には実体なんてありません。実体がないにも関わらず、私たちはそれを得るために一所懸命であったりします。出来れば限度までそれらが欲しい。ただし、思いよりも満足に得ることが出来なければ、逆に苦しみや辛さが増すばかりです。思うように人から評価されない、思うようにお金がない、そして、健康だったのに病気になってしまった…、となれば、誰でも良い方向に人生が向いているとは思わないでしょう。
名誉だって、お金だって、そして健康だって、出来ればある程度得ることが出来たほうが良いでしょう。問題は、どの程度に思うかということなのです。本来は実体のないものなのですが、私たちはそれらを追い求めて幸せを感じるところがあります。これはもう仕方のないことです。執着している以上、完全に正しいといは言えないあり方ですが、これを修正するためには厳しい修行をせねばなりません。より自分にとって充実した人生を歩むためには、以前もこのコラムで取り上げましたが、少欲知足、欲少なく足るを知る心掛けが大切であり、そのためには、そもそも自分が一所懸命に得ようとしている物事なんて実体がなく、すべては無所得なのだという理解が一助となるはずです。何事もほどほどに、欲張れば欲張るほど悪い方向に行ってしまうからです。
執着は悪業となって、自分自身に苦しみや辛さといった悪い結果をもたらします。正しい行動とは執着を出来るだけ少なくしていくことであり、それは善業となって善い結果を生み出すことでしょう。状況が改善されていくということは、こうした正しい行動があってのことだと言うこと、肝に銘じておきたいものです。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦