宗の教え014 自業自得で充実度アップ

今回、タイトルだけを見ますと、あまり良い印象を持たれないかもしれません。「自業自得」という言葉は、一般的には悪い意味で用いられることが多いでしょう。「悲惨な結果になったのは自業自得」など、悪いことは自分の責任なのだという意味です。しかし、これはもともと仏教の言葉であり、「自分自身の行為(身体、言葉、心)の結果やその影響(→自業)は自分自身で得ることになる(→自得)」という意味なので、善いことも悪いこともすべて含まれています。善い行いをしたら善い結果が得られるという意味でもあります。 
 
ただ、善悪という概念は判定が難しいので、今回は善悪には触れず、自分自身の行為の結果やその影響は自分自身で得ることになる、という点に絞ってみたいと思います。 
 
今、自分はなんでこんな状況に置かれているのだろう、自分はなんでこんな境遇にあるのだろう、そもそも、なんで人として生まれてきのか、なんで自分という人格を得ているのか。たいてい人には不満があるものなので、なんでかなとその責任の所在を突き止めたくもなります。しかし、いずれも自業自得です。仏教の考えで捉えれば、生まれてこの方、してきたことはすべて自分自身の業によります。さらに言えば、どう生まれたのかも、どのような境遇で生まれたのかも、実は両親や先祖の責任ではなく自分自身の業によっているのです。もちろん、これは「前世」という生まれる前の自分のあり方、宗教的な考えに基づいてはいますが、自分が生まれてきたのは両親や先祖の責任にはならないのです。 
 
生きていますと、自分の意志とは反対の方向に事が流れていってしまうこと、よくよく遭遇いたします。おかしい、こんなはずじゃなかったのに、という具合です。人生の歩みは何でも意志通りになるわけではないこと、私たちは経験的に理解しています。ただ、自分の意志、つまり意識レベルにおいて、今まで自分の行ってきたことや自分で考えていたこと、すべてを管理して記録してあるかと言えば、そんなことはないでしょう。この世のことでもこんな程度なのですから、前世のことなんてまったく分かりません(もとより前世の記憶は、現世であるこの世には持ち越されません)。 
 
意識というものは、私たちのほんの一部に過ぎません。今現在の自分を構築するものという視点において、業こそが私の本質とも言えます。意識はあくまでも舵取りの役目であり、本質とまでは言い得ません。善いことをしようとしても、思わず悪い方向に行ったりすることもあるでしょう。そんなつもりはなくとも、そうなってしまうのは、自分の業によって物事が引き起こされているからです。舵が効かないこともあるわけですね。自分のあずかり知らぬことに思えても、自分に起きている事態はすべて自業自得によっているのです。思い通りにならないわけです。極端な言い方になりますが、人は死にたい時には死ねず、死にたくない時には思いがけず命を落としたりするものです。 
 
私たちは、こうした一見すると不条理かと思えるようななか、生きてゆかねばなりません。もしかしたら、不条理であることの説明のため、業という考えが生まれたとも言えるかもしれません。業のはたらきは科学的に解明できるような性質ではないので、存在の証明は出来ません。しかし、何事もまず自分自身の行為を顧みる必要性を説いています。何かと責任転嫁しやすい私たちですが、今ある状況で生きていかねばならぬこと、状況を改善させる可能性は自分以外にはいないこと、そして、だからこそ自分は大切な存在であり、かけがえのない尊厳を持っているのだということを、業という考えは私たちに伝えようとしているのだと思います。 
 
厳しい世の中ですが、自分に可能なことは前向きに取り組んでいきたいものです。出来ないことは出来ないで良いのです。それが自分の業なのですから。無理をするようなことではありません。これは「投げ出し」ではありません。諦めです。「諦める」ということは、実は自分の状況を「あきらかにする」という意味です。諦めることこそ肝腎です。 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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