前回からの続きとなります。
幽霊登場のお話や、幽霊画や幽霊像を見るならば、恨めしい思いを持って亡くなった人もいるだろう、怒りのなかで亡くなった人もいるだろう、大きな悲しみをこの世で懐いて亡くなった人もいるだろう、そういう「まだ生きている人の感情」の投影が幽霊という存在を形作ってきたことは想像に難くないことです。しかし、そうは言いましても、実際に幽霊を見たという話は、昔も今も尽きることがありません。幽霊が見える、という認識は精神医学や心理学の側面から解明できる場合も多いようですが、仏教においても、認識の対象(いわゆる五感や意識で認識可能なところ)を3種類に分けて解説していますので、そこに幽霊の正体を見出せるかもしれません。
大乗仏教の唯識思想では、三類境(さんるいきょう)と言いまして、私たちが日常世界で認識している対象(=境)を、以下、3種類に分析します。
①まずは「性境(しょうきょう)」と言いまして、言うなれば「実在」しているものです。主観に左右されずに客観的に存在しています。それ自身の本性を守って存在している、という意味です。日常世界における物理的存在です。
②つぎは「独影境(どくようきょう)」で、これは逆に主観によって描き出された存在で、本性や本質というものがまるでありません。影像だけが独りで起きているので、幻覚とか幻聴といったものに該当します。物理的に存在していないのです。
③最後に「帯質境(たいぜつきょう)」です。独影境は本性や本質がありませんでしたが、こちらは本性があり本質を帯びています。しかし性境のように、主観がその本性をしっかり認識できているかと言えば、ありのままに認識されているわけではありません。簡単に言えば見間違い、聞き間違いです。
以上です。意外とシンプルに思われるかもしれませんが、この3種類を導き出す過程は複雑なものの、たしかにこれで十分だと言えそうです。では、幽霊はどこに当てはまるのかと言えば、①性境ではないのは確実なので、可能性としては②独影境か③帯質境になります。しかし、②独影境には本性がなく、そこには幽霊を幽霊たらしめるこの世への怨念や悲哀といった心の一部すら存在していないことになります。主観が勝手に作り出した幻であるため、これは精神医学や心理学で分析される事象に近いでしょう。だとするならば、巷で騒がれることの多くは③帯質境になります。
夜中に境内にいれば、木々が幽霊に見えることは経験上よくあることですし、何となく薄気味悪い雰囲気を感じれば、何でも幽霊に見えてくるものです。心霊スポットもそうです。心霊スポットという触れ込みがあるからこそ、そこに行けば主観はそう物事を認識してしまう方向に誘導されるもので、幽霊はたくさん出現しそうです。主観は雰囲気に左右されるものなので、複数人であっても共通の雰囲気のなかにいれば、同じように見間違いや聞き間違いをする可能性もあるでしょう。仮に心霊スポットという看板がなくとも、今までの経験や知識の上から、何となく幽霊が出そうだなと感じてしまえば、幽霊の出現率は高くなると思います。幽霊が何故かだいたい似たような姿で伝わるのは、あらかじめ幽霊の姿が私たちにインプットされているからです。モデルはもちろん、ご遺体です。
このように、大乗仏教の理論の上からするならば、幽霊存在の可能性はどんどん狭くなってきてしまいます。ただし、何事も完全に「ない」を証明することは困難と言われますし、上記の三類境であっても、もとより、幽霊の存在を分析するための教義ではありません。私が勝手にここで使用しただけなので、分析として不十分ではあります。では、もし三類境以外に幽霊が見えるという現象を尋ねるならば、それはもう真如、つまり仏さまからのはたらきかけに他ならないでしょう。たとえば亡父の幽霊かと思ったが、実はそうした姿で語りかけてくださる仏さま、幽霊だって仏さまとして、私を導いてくださる存在として捉えることも可能だと思います。私は、こうした幽霊は大いに信じています。父はちゃんと成仏して、敢えて幽霊になって戻ってきたとも言えるでしょう。有難いことです。
幽霊とは、亡き方を思う気持ちにより成り立っている、亡き方を思わなければ、幽霊という存在はあり得ません。言い換えれば、幽霊は供養なのです。日本人は古来、それだけ人の死を悼んできたということでしょう。生死こそ、私たちの一大事だからです。
幽霊に出遇ったならば、有難い気持ちで接したいものです。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦