宗の教え013 三類境を知って充実度アップ(その1)

日本人は幽霊話が好きなようで、日本ではお能や怪談など、幽霊が出てくるお話が多く伝わります。私も小学生の頃、心霊写真大図鑑などを友だちと見ては恐怖に慄いたものです。幽霊にも色々とあるようで、かつて父親に谷中の全生庵に幽霊画を見に連れて行ってもらいましたが、だいたい同じ構図とはいえ、表情は色々でした。また、私は中野にある哲学堂の近くで育ちましたので、幼少から頻繁に幽霊像を拝んでいたものです。哲学堂の哲理門には左右に天狗と幽霊が鎮座しているのです。なかなか怖いお顔立ちで、今でも思い出しては恐怖します。 
 
幽霊に対処するのは坊さんが多いようですが、私は正対したことがありません。そりゃまあ住職なので、普段、ほとんどお墓のなかで暮らしているようなものです。幽霊の1人や2人出会っても良さそうなものですが、そういう雰囲気はあるものの、残念ながら一度もお会いしていません。亡くなった祖父曰く、「お寺には仏さまがいらっしゃるから、みな成仏して幽霊はいないんじゃ」とのことで、幼い時分はそれで安心したものですが、今では小賢しくなったもので、「成仏したいからこそ、やって来ているのでは?」、とか屁理屈を考えてみたくもなります。 
 
では実際、仏教では幽霊をどう考えているのでしょう。ただ、仏教は論理的な教えだけではなく、様々な側面を持ち合わせていますので、幽霊を成仏させる方法とか、その実例ですとか、そういう実践的な面も含んでいます。すべてに渡ると収集がつかなくなるので、ここでは大乗仏教の教えに基づき、論理的にどう幽霊が解釈可能であるのか、すこし尋ねてみたいと思います。なお、ここで言う「幽霊」というのは、皆さんが思う「幽霊」で良いと思います。定義なんてないので、大雑把で良いのです。 
 
この世で死を迎えますと、つまり、自分の身体機能が終えますと、即座に次のステージが決まります。どう決まるかと言えば、自分自身のこの世での行為やその影響、さらに前世やそれ以前の世における行為やその影響も含めて、これを業と言うのですが、この業によって決まります。即座に決まるので、この世を名残惜しむ暇はなさそうです。「死」というものは、次のステージにおける「生」を意味します。「生」への準備が即座に始まります。それは往生浄土であるのか、それとも再び六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)をへめぐるのか分かりませんが、どこかの「生」にはなります。人でしたら、まずは自分のお母ちゃんになる人を探すとか、そんなように説かれることもあります。 
 
と言うことで、もし幽霊というものが、この世で亡くなった人であるならば、実は仏教では幽霊は存在し得ない、という何とも味気ない結論に至ってしまいます。幽霊には身体はありませんので、なぜか身体もなく心やその一部だけがこの世で見られる、という不可思議な現象ではあるのですが、そもそも、それも無理なわけです。怨念だけが残ったとか、ファンタジーの世界ではありがちな素材ですが、怨念も心の一部であり、たしかにそういう感情の記録も心には植えられますが、実はそういう負の心も含め、自分自身で背負わねばならない業であるので、それを切り離すことは出来ません。仏教では自業自得と言いまして、善いことも悪いことも、すべて自分自身が独りで受け持たねばならぬ、という鉄則があるのです。しかしまあ、何事もエラーはありそうですし、たまには即座じゃない人もいるかもしれませんし、お忘れものとかね。ちょっと色々と処理に時間がかかっちゃったとか。何かありそうですよね。 
 
次回へつづく

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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