如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし
この和讃は、『恩徳讃』として親しまれている親鸞聖人御作の仏徳讃嘆です。私のような愚かな凡夫であっても、いえ、凡夫だからこそ如来は私に大悲を向けてくださる。そして、私に如来の大悲を気づかせてくださった先生方にも、とても大きな恩徳があるのだと。だからこそ、私の出来ることは「身を粉にして」、「骨を砕きて」報謝することであり、報恩謝徳こそ聖人の仏道なのだと看て取れます。
私たちは多くの恩を受けて生きています。たとえば毎日の食事であっても、動植物の命をいただき生きているのが私たちです。しかし毎日というところに落とし穴があり、いつの間にか有難いことであっても、毎日毎日ではそれが「当たり前」になってしまう。私たちにはこうした手前勝手な心があります。あまりないことには感謝をしますが、毎日のことになると感謝を忘れてしまうのです。これではいけません。
如来の大悲は、食事よりも頻度が高く休まる暇さえありません。如来は常に、休みなく私を導いてくださっています。頻度が高いので、これまた「当たり前」になりすぎまして、私たちはまったく気づいていません。これは仏教に限らず、神仏の力というものはそういうもので、あまりにも大きく包んでくださるので、愚かな私たちには見えてこないようなのです。ふとした日常を生きているとき、ありふれた日常であるからこそ、本来は大きく感謝していかねばならぬことでしょう。
恩に報いる生き方とは、日常への感謝の気持ちから。有難う、有難いの気持ちを大切にしていきたいものです。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦