昔、両親から「暑さ寒さも彼岸まで」と教えられましたが、気候変動なのか9月はお彼岸になっても暑いです。たしかに空気は秋なのですが、日差しは真夏と変わりません。かつては多少涼しくなっていく頃合いが、夏が終わったことを証明し、もの悲しいような雰囲気に包まれるのが秋のお彼岸でした。夏のお盆は亡き方がお帰りになるとのことで、別れのなかにも再会があり、家族でお仏壇のお飾りもいたします。一方、お彼岸はそうした賑わいも去り、秋の透き通った空気が大切な方との別れ、この世の無常を知らしめてくれもしました。ところがどうも今は暑くて、まだ夏かとも思えるほどです。
さて「彼岸」とは「あちらの岸辺」ということで、いわゆる「あの世」を指しています。こちらの世界は「此岸」です。「こちらの岸辺」です。つまり、三途の川に隔たれた、あちらとこちらなのです。昔の人々にとって大河を渡るということは大変で、まさに命懸けであったことでしょう。大河の先は異文化であったかもしれず、そんなイメージが投影されているのかと思えます。仏教においては、「あの世」と言えば仏様のいらっしゃる浄土へ続いており、浄土そのものとも理解されます。浄土は「迷いの世」を超えているので、本来は浄土=「あの世」とは即座になりませんが、あまり固いことは言わないで良いでしょう。
この世は迷いの世界なのだと言われます。この世の有様を見るならば、自分を含めて迷っている者ばかりです。戦争や犯罪が根絶されないことも、その根源を訪ねれば他者との共存の出来ない自己中心性に行き当たります。自己への執着心が戦争や犯罪の根源です。他者への攻撃性は、当然のことながら自己保全の裏返しだと言えるからです。彼岸に到ることを「到彼岸」と言いますが、浄土に到ることは自分も仏に成ることであり、それは「智慧の完成」とも言われます。「智慧」というのは「知恵」とは異なり、仏としての正しいものの見方のことです。「知恵」は人知であり、どうしても自己への執着がともない、完全に平等な見方とは言えません。自他平等、それこそが「到彼岸」なのです。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦