宗の教え008 生住異滅で充実度アップ

私たちは、「時間というもの」は客観的存在であり、かつ、直線的に進んでいるものだと感じることが多いでしょう。過去から現在、そして未来へと進んでいき、決してループしたりすることはない。まさに川の流れのようなものです。私たちはこうした時間に身をゆだねており、あらがうことは不可能です。時には過去に戻ってみたい気にもなりますが、それは妄想であり非現実的です。あの時、ああしておけば良かったと思いましても、それはもうどうにもならないことなのです。 
 
 ところで、仏教では時間を客観的に捉えることはありません。むしろ主観的であり、自分という存在が変化し続けているから、現在という一瞬が連続したまでであり、そこに「時間というもの」があるかのように錯覚すると考えます。唯心と言いまして、環境世界はすべて自己の心によって描き出されているともしますので、心が動くから環境世界も動くということになります。環境世界と自分を二元的に捉えることはしません。 
 
そして自分という存在をより深掘りするならば、六道輪廻と申しまして、天界や人間界、はたまた地獄界など6つの世界をグルグルと廻っていると見ます。私たちも何回こうして廻ってきたか分かりません。色々な世界での生存を繰り返して今に至っているのです。生住異滅(しょうじゅういめつ)とも申しまして、生じて存在し変化して滅していくと説いています。自分も環境世界も、つまり宇宙も同じであり、この生住異滅を繰り返しています。何回目か分からないほどのことでしょう。 
 
このように仏教では、直線的ではなく円環的に物事の存在を捉えます。私たちは直線的な思考に慣れていますので、物事の原初や終末を想像したくなりますが、仏教ではグルグルしているので、その2点だけを拾い上げる意味はほとんどありません。もしかしたら、似たような境遇を何度も何度も繰り返しているのかもしれません。私たちは自分自身の人生は最初で最後だと思いがちですが、実際には微妙に異なる「自分」を繰り返しているだけかもしれません。そういう可能性がないとは言い切れないのです。 
 
 ただ、この繰り返しが永久かと申しますと、実は仏教の目的はそこにこそあります。輪廻は迷いの世界とも申しまして、私たちは真理に到達していないから、迷っているからグルグルと廻ってしまっています。迷いを断ち切ることができれば、この輪廻から解脱することができます。決して無意味な繰り返しをしているわけではありません。少しずつですが良い方向に向かっているので、あまり悲観的になることもないのです。 
 
苦しいことも多い人生ですが、実りあることに巡り合えたならば、それは真理に近づいているということなのでしょう。日々、できるだけ有難く過ごしたいものです。合掌 

 
 
『宗の教え~生き抜くために~』 
 
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
 
 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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