死んだらどうなるのかなあ。私は小学生のころ、寝床で漠然と考えることがありました。宇宙の先はどうなっているのかという疑問とならび、小学生の私にとっては難問の双璧でした。考えていると怖くなりましたが、いつの間にか寝てしまっていたものです。もちろんいまだ完全解明には至っていないわけですが、これからも難しそうです。ただ、仏教の教えに触れてからというもの、あまり気にならなくなりました。死は大きな人生の区切りだと思いますが、仏教的視点で捉えればその怖さは薄らいでいったからです。
死という概念は、そもそも生という概念がないと意味がありません。生も同じく、死という概念がないと意味がありません。と言うことは、生きるということは死があって成り立つので、私はすでに死をへて生きているとも考えられます。私たちは時間を客観的かつ直線的に捉えがちですが、仏教では主観的・円環的に捉えることが多いと言えます。つまり、生と死は一過性のものではなく、何度も繰り返されるものとされるわけです。これは宇宙についても言えることで、仏教では積極的に宇宙の終始を説くことはなく、むしろ繰り返しであることを強調します。
私たちはいつか死を迎え、そして再び、いえ何度目か分からないほどの繰り返しのなか、また生きていきます。死は終焉ではなく、すなわち新たな生の始まりなのです。どのような生を迎えるのかは、その時にならねば分かりません。生と死は別々の概念ではなく、まさに表裏一体、一如、生は死があってはじめて生であり、死は生があってはじめて死なのです。もし仮に死がなければ、私たちは生きているという実感もなく、ただ「ある」だけの無味乾燥な存在に堕すことでしょう。このほうがよほど怖いと言えるのではないでしょうか。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦