仏教用語としての空は「そら」ではなく「くう」と読みます。読経のときに「くうくう」と聞こえるのは、この「空」が連続している箇所です。空とは簡単に言いますと、有るのでもなく、無いのでもないことです。この世の一切の森羅万象、物事は固定的に存在しているのではなく、つねに流動的に現象として存在していると見ます。直接的や間接的に何らかが因となり、同質であったり異質であったり何らかの結果を生み出す。その結果はまた何らかの直接的や間接的な因となり、別の何らかの結果を生み出します。流動的なのです。
私たちは物事を感覚的に有ると認識しますが、このように考えますと、物事は有るようで無いのかもしれないと思えてきます。しかし実際にはたしかに感覚的には有るわけで、決して何も無いということではなさそうです。実際、空を体得することは難儀なことですが、大切なのは物事を固定的に捉えないということです。私たちの固定的な見方は、私たち自身を苦しめる原因になります。良い物事はいつまでも変わらずと願うものですが、それが叶わないと苦しい。であれば、そもそも、そう願わないほうが良さそうです。
良いときであっても、すべては空なのだから流動的に捉えるべきであり、何かしらの原因で悪い方向に進むかもしれません。当然、悪いときであっても同じです。良い方向に進むかもしれません。瞬間瞬間で物事は移り変わっており、因果関係によってすべては現象として存在します。あっという間もない出来事です。言い換えれば、空を体得していなければ、その瞬間瞬間にまったく気づくことが出来ないということになります。
1秒間に24コマとかの映画フィルムをイメージして下さい。動いているように見えるだけでしょう。本来、動きなんてどこにも無いのです。有るのはその瞬間のコマだけ。そのコマもあっという間に消滅、つまり動いているように見せる役割を終えて過ぎ去ります。ただし仏教ではもう少し複雑で、そのコマは心のある場所に蓄えられ、今後のコマを作る因になっていくと説きます。これは、物事はすべて自分自身の心によっているという唯心という考え方で、とくに大乗仏教では重視されています。
空という捉え方は、必要以上に物事に拘泥しがちな私たちを諌めてくれます。物事にがんじがらめの現代人ですが、ときにはその束縛から離れてみるのもいいでしょう。物事なんてすべて空なのですから。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦