慚愧(ざんぎ)に堪えません・・・、どこかの国会中継で見聞きしたことのある言葉です。何となく難しい言葉遣いなので、教養があるようにも見える一方、問題を煙に巻く意図が見え隠れします。慚愧の慚とは自分を顧みて恥じ、愧とは他者にも恥じる心です。仏教では『俱舎論』や『成唯識論』といった論書に出てきます。慚愧に堪えないということは、恥じ入る心との葛藤に耐えられないということです。冒頭のような場合、とくに謝っているわけではないので注意を要します。悪かったね!ぐらいの意味合いだと思っていただいて良いでしょう。
しかし本来の意味を尋ねてみますと、社会人として持つべき心と言えます。昨今、車両運転中の交通トラブルが多く報道されています。いわゆる煽り運転です。なぜか運転中にはトラブルが多い。歩行中に煽ってくる人はあまりいないでしょう。いきなり喧嘩になってしまいますし、直接相対しているので互いに遠慮もあります。運転中であっても下車して来る輩もいますが、そのまま逃走してしまうケースが多いように思います。やり逃げや、言い逃げをしやすいのが運転中ですので、煽り主はとても気が小さいのでしょう。車載カメラが普及してもなお煽り運転をしてくるのは、いったいどういう感覚なのか分かりません。
煽り運転をして、カメラに見事収まってしまっている自分を見れば、なんと愚かな行動をしているのか分かることでしょう。恥ずかしい。なかには厚顔無恥な輩もいますが、多くの人はおそらく自分の行為に恥じ入るはずです。実は運転中ではなく、普通にしていれば社会人としてごく普通の人なのかもしれません。それがハンドルを握った途端、なぜか人が変わったように豹変してしまう。しかし、それでは困ります。いつでもどこでも、自分の行為は他者に見られています。仮に見られていなくとも、自分自身の心に見られています。自分に恥じ、他者に恥じる慚愧の心を忘れないようにしたいものです。
『宗の教え~生き抜くために~』
宗教という言葉は英語のreligionの訳語として定着していますが、言葉では表し切れない真理である「宗」を伝える「教え」という意味で、もとは仏教に由来しています。言葉は事柄を伝えるために便利ではありますが、あくまでも概念なのでその事柄をすべて伝え切ることは出来ません。自分の気持ちを相手に伝えるときも、言葉だけではなく身振り手振りを交えるのはそのためでしょう。それでもちゃんと伝わっているのか、やはり心もとないところもあります。ましてやこの世の真理となりますと、多くの先師たちが表現に苦労をしてきました。仏教では経論は言うまでもなく大事なのですが、経論であっても言葉で表現されています。その字義だけを受け取ってみましても、それで真理をすべて会得したことにはなりません。とは言いましても、言葉が真理の入口になっていることは確かです。言葉によって導かれていくと言っても良いでしょう。本コラムにおきましては、仏教を中心に様々な宗教の言葉にいざなわれ、この世を生き抜くためのヒントを得ていきたいと思います。
善福寺 住職 伊東 昌彦