一条氏と申さば、藤原氏嫡流たる五摂家、すなわち近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家の一家であり、公家の中でも最も高き家格、摂政・関白・太政大臣への昇任が許される限られた名門でございました。
応永三十年(西暦1423年)に生まれ、永享十年(西暦1438年)に元服した一条教房。世は室町幕府六代将軍、足利義教の時代、一条家歴代当主としては初めて足利将軍家からの偏諱を受け教房と名乗ることとなったのでありますが、時の室町の武家政権の勢いのほどが覗える話でございます。
さは言え名門一条家の当主、翌永享十一年(西暦1439年)には正三位・権中納言に叙任され公卿に列し、内大臣、左大臣を経て、長禄二年(西暦1458年)には関白となり、氏長者となるのでございます。
寛正四年(西暦1463年)には関白氏長者を辞しておりましたものの、応仁元年(西暦1467年)応仁の乱となりますと、京にいられるものでもなく、戦火をのがれ、やがて一条家領のございました土佐国幡多荘に下向、四万十川下流の中村の館に移り住むことになるのでございました。尤も、この下向そのものは、京での戦火を逃れた後に、鎌倉期より続く荘園経営の強化のためであったと言われております。そのような背景からこの時、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に共に下向したために、京の文化もまた土佐中村の地に移入することにつながり、彼の地の繁栄の基が築かれたと伝えられております。
教房亡き後、嫡男政房は既に応仁の乱の中で没しており、一条家の家督は年の離れた実弟の冬良が継ぐ一方で、亡き政房の弟、房家は土佐に土着、これが土佐一条氏のはじまりとなったのでございます。
文明七年(西暦1475年)誕生と伝わる、関白・一条教房の次男、一条房家は、教房下向のために土佐で生まれ育ちましてございます。四万十川の河口から上流へ二里半ほど(約10km弱)進んだところに開けた地があり、そこには国人たちとも良好な関係を築くことができた教房が拠点として置いた中村館を中心として繁栄の基礎がつくられ、土佐中村の地で生まれ育った房家は、長じてそのまま土佐中村を拠点として彼の地を繁栄させていく道を選んだのでございました。いわば地方に「在国」しつつも、公家として高い官位は有し、京の一条宗家とのつながりも保ちながら土佐の国人領主たちの盟主といった立場を築き上げていくことに成功したのは、当時の大名家としても稀有な形であり、公家大名などとも呼びならわされる所以かもしれませぬ。
文化と文明が合い携えて伝わっていくことが常でございました時代、京とのつながりの深さはそのまま新しき様々を土佐中村の地にもたらすことにつながり、中村御所とよばれるようになりました一条氏の拠点を中心として、さながら小京都とでも言えるような発展を遂げていくのでございました。四万十川の流れが作り出す自然の美しさに、京の雅が重ねられた土佐中村の有様は、国人衆にとっても大きな変化を目の当たりにすることとなったに違いありませぬ。
永正十三年(西暦1516年)上洛して、権大納言となった房家は、広範に周りを見渡し婚姻戦略なども通じて権威権勢を巧みに保ちつつ、幕府細川管領家の後退から、土佐七雄と呼ばれる七国人が割拠する状態となっていた土佐国において、それら国人領主の盟主的立場を確立させておりました。遡ること永正五年(西暦1508年)には、七国人同士の争いで、長宗我部兼序(後に四国統一を成し遂げる長宗我部元親の祖父)が同じ七国人の本山氏らに討たれた折、房家はその遺児の千雄丸(後の長宗我部国親)を保護、長宗我部家の再興を助けたとされておりまする。このような国人領主間の争いにも、ただ上からではなき形で介入し、巧みに土佐一条氏の勢力を保つことにつなげられた政の手腕もまた、房家をして国人衆の盟主たり得ることを支えたものであったのかと思われまする。
こうして築かれた土佐一条氏初代、房家の治世は、土佐一条氏最盛期とも言われまするが、次回は二代目となる一条房冬のお話からでございまする。
『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』について
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
<筆者紹介>
伊藤 章彦。昭和の出生率が高い年、東京生まれ東京育ち。法を学び、海を越えて文化を学び、画像著作権、ライセンスに関わる事業に日本と世界とをつなぐ立場で長年携わっている。写真に対する審美眼でこだわりぬいたファッション愛の深さは、国境をこえてよく知られるところ。
どういうわけだか自然と目が向いてしまうのは、何かしら表には出ずに覆われているものや、万人受けはしなさそうなもの。それらは大抵一癖あり、扱いにくさありなどの面があるものの、見方を変えれば奇なる魅力にあふれている。歴史の木戸口『史の綴りもの』は、歴史のそんな頁を開いていく場。
『歴史コラム 史(ふひと)の綴りもの』アーカイブはこちら