佐野昌綱と桐生助綱 ~戦国北関東のある物語②~

此度は続きの話にて、近隣の桐生氏のお話でござりまする。 
 
佐野厄除け大師の通称で知られる天台宗惣宗寺の北東およそ二里弱(約7.5km)に位置し、下野国唐沢山城を本拠として平安の末より栄えた佐野氏についてお話いたしましたが、そこから北西に十二里(約48km)ほどのところにござりました柄杓山城(桐生城)を中心とした上野国の東部、山田郡桐生地方は、代々桐生氏の治める地でござりました。佐野氏と同じく、藤姓足利氏に連なる桐生氏は、佐野氏より分かれ出て、柄杓山城を築き拠点とし南北朝時代より戦国時代にかけて彼の地に勢力を持ったと伝えられております。 
 
既に奈良時代には朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されていることもあり、桐生の地は古くから養蚕業・絹織物業で栄え、後年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣の折、急遽西進して石田三成を討伐することを決するも、軍旗が足りないという事態であった。その際、不足している軍旗を僅かの間に桐生の村々で揃えたことから、桐生の絹はさらに名を高めることになったと伝えられておりまする。 
 
永正九年(西暦1512年)に桐生真綱の子として生まれた桐生助綱は、長じて桐生氏の家督を継ぎ、桐生氏の全盛期を築くこととなるのでございます。天文元年(西暦1531年)には仁田山赤萩地方を桐生氏の勢力下におくことに成功、本拠である柄杓山城の支城とも言える拠点になる仁田山城、またそれと一体となってひとつの山城を形成する赤萩の砦を守りの要衝とするのでございますが、その守りを、無位無官の浪人から取り立てた里見勝広に任せるのでございました。里見勝広は、安房里見氏の一族ながら故あって安房の国を追われ、既に結城合戦にて嫡流は途絶えてはいたものの、仁田山の地に同族である上野里見氏を頼ってこの地に流れてきていたところを、桐生助綱に見いだされた様でございまする。
やがて天文十三年(西暦1544年)には領を接する細川氏、善氏を破り、勢力圏を拡大させ、桐生氏は最盛期を迎えるのでございました。 
 
永禄三年(西暦1560年)の越後上杉勢による関東侵攻においては、北関東の諸家と同じくこれに従い、桐生助綱は関白 近衛前嗣、また上杉憲政の警固を任され、後日京に戻った近衛前嗣から丁重な謝辞を贈られておりまする。しかしながら、その後の武田・北条勢による巻き返しは、本拠から遠く離れた越後勢を徐々に劣勢へと追いやっていくのでございました。永禄九年(西暦1566年)頃には、近隣の新田金山城主・由良成繁の勧めもあり、小田原北条氏(形としては北条氏康の傀儡である古河公方・足利義氏方)に旗を転じることとなるのでございました。 
 
こうして桐生氏の勢力拡大に成功した助綱でございますが、永禄十三年(西暦1570年)に亡くなり、桐生氏は同族である佐野昌綱の子が、養父助綱亡き後の家督を継ぐのでございました。
こうして桐生氏当主となった桐生親綱は、凡そ穏やかとは程遠い勢いで、桐生家古参の家臣たちをあからさまに遠ざけ、実家である佐野氏から後見役として付き従ってきた家臣たちにのみ諸々の仕置きを委ね、さらにはこれまでの法も廃した上で暴政を重ねていったため、将士民心が離れていくのは当然の結果でございました。 
 
桐生氏の行く末を案じた里見勝広らの諫言も聞かぬばかりか、自害に追い込む始末で、全盛期を築き上げた桐生氏はその勢力を弱めていくばかりであったが、当主には何も見えておりませんでした。
元亀三年(西暦1572年)由良氏家臣・藤生善久に柄杓山城を攻められ城は陥落、親綱は這う這うの体で実家の佐野に逃亡し、ここに桐生氏は滅亡してしまうのでございました。 

 

 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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