経論の教えから その7 『華厳五教章』

此の二は無二にして、全体遍取せり。其れ猶お波水のごとし。

 

一般的に私たちは、物事を表現するときに言葉を用います。花が咲いているとか、波が立っているとか、パッと見た瞬間には言葉にはならないものですが、脳内で言葉に変換されていきます。素晴らしい景色を見たときのことを想像していただければ、何となくお分かりいただけるでしょう。これは自分の心のなかでも同じです。認識の瞬間は感覚のみですが、すぐにああだこうだと言葉を用いて考え始めてしまうものです。たとえば「痛い」場合、思わず「イタッ!」と言葉が出るものですが、冷静に観察してみればタイムラグがあるものです。どこかに足をぶつけたりした、あの感覚を「イタッ!」と表現しているのです。

 

物事をよくよく理解しているように思っていますが、私たちは言葉を用いるから理解出来ているようなものです。言い換えれば、物事を人工的な言葉によって区別しているからこそ、ちゃんと整理が出来ていると言えましょう。そうじゃなければ、この世の自然、森羅万象を理解することなんて、とてもじゃないけど出来ない。そうです、この世はあまりにも複雑なシステムで成り立っており、それをそのまま理解することなんて、私たちにとってはキャパシティーオーバーなことなのです。だからこそ、言葉はたいへん便利なツールなのです。

 

ただし、こうした言葉による理解というものは、ひとまずの安心に過ぎないとも言えるでしょう。なぜならば、この理解はあくまでも人工的なもので、便宜的に区別されたものを、表面的に理解しているだけだからです。たとえば花にしても、これは花びらをはじめ、雄しべや雌しべなどにも分解されるもので、さらに言えば、細胞や原子のレベルまで分解が可能です。その結合体として「花」とひとまず呼んでいるわけで、本来的な「花」の成り立ちは省略しています。つまり「花」というものは、ひとまず「花」なわけですね。

 

また、波にしても、「波」というものは、風などによって起こされるもので、そもそもは水です。水が動いている様が波であるので、波と水を別々に分けてしまうことは、とくに波において、実際のところ意味がありません。さらに言えば、水というものは、水素原子と酸素原子によって形成されているもので、波の要素は水素と酸素になります。水素と酸素の結合に風などが影響して波が生じます。これをひとまず「波」と呼んでいるわけです。

 

仏教ではこの世の物事を上記のように要素還元し、いかに私たちが都合の良い理解だけで満足し、同時にそうした中途半端な理解によって、物事の本質を理解せず苦しんでいるかということを指摘します。実際には、花は「花」であり、波は「波」でいっこうに構わず、それで苦しくなることはないのですが、1つの物事について、他との関連性を無視してしまうことは、たとえば人間関係について、場面だけを切り取り、問題の前後関係や、人の背後関係、そして自分との関係というものさえ、見えなくしてしまう原因になりましょう。こうした単眼的で硬直した見方というものは、自分を苦しめる元になることは容易に想像がつきます。

 

要素を知ることによって、それぞれの要素が結びついて全体を、この世の物事すべてを形成しているということに気づいていく。仏教ではこういうことに眼目が置かれているのです。物事というものは、要素的に見ればバラバラに分解することができ、それでいて、すべては複雑に関係し合っている。2つの物事というものは、2つではないからこそ、すべてが関係して全体を成り立たせているわけなのです。

 

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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