仏のはたらき 十二光

一般的に「お経」と言いますと『般若心経』がとても有名です。『般若心経』は大乗仏教の空思想を簡潔にまとめたもので、空にもとづいた智慧の実践を説き明かします。智慧そのものに対する信仰も表現されていると言われ、大乗仏教の本道とも言える修行と信仰のエッセンスにより成り立っています。

 

ただし、日本仏教においては、『般若心経』をあまり用いない宗派もあります。日蓮宗や浄土真宗はもちろん大乗仏教ですが、『般若心経』とは多少距離があるでしょう。日蓮宗では大乗仏教の王とも言える『法華経』を最重視しますし、浄土真宗では阿弥陀如来のはたらきを明かす「浄土三部経」を最重視します。また、後者においては、その「浄土三部経」を元に作成された「正信偈」を普段読むことが多いようです。私も毎朝「正信偈」のお勤めをしています。

 

さて、正信偈のお勤めをしていますと、「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」という文言に行きあたります。正信偈は七言絶句の規則のなか、巧みに浄土の教えがまとめられています。だからでしょうか、声を出してお勤めするときには調子がいいのですが、内容をいただく際には難しさを感じることもあります。言葉が省略されていることもありますし、羅列だけということも多いからです。ここはそれほど難しい内容ではないのですが、阿弥陀如来の十二光についての知識がないと、ちょっと戸惑ってしまうかもしれません。

 

阿弥陀如来の十二光というのは、『無量寿経』巻上に説かれます無量光・無辺光・無碍光・無対光・燄王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光のことです。なるほど、こうして見ると冒頭の正信偈の文言に十二光が含まれていますね。阿弥陀如来は別名無量光如来とも言い表されることがありまして、凡夫を救いとるそのはたらきは、世界の隅々まで行き渡る光に譬えられることがあります。十二光のそれぞれを味わうことが出来れば良いのですが、ここでは最後の超日月光にスポットをあててみましょう。

 

光といえば太陽です。この宇宙で光り輝く存在と言えば恒星であり太陽系では太陽です。光の譬えが太陽によっていることは間違いないのですが、ここでは超日月、すなわち太陽や月を超えた光だとされているのです。私たちが普段触れているまばゆい太陽は、朝方に地平線から上り夕方には再び地平線に沈みます。一方、月は太陽の光を受けています。昼間はあまり目立つ存在ではなく、夜になると輝きを増していきます。いずれも太陽光であることに変わりはないのですが、地球上にいる私たちからしてみますと、公転や自転といった条件によって見え方は限定的になってしまいます。もとより太陽は常に光り輝いているのですが、私たちはこれが当たり前だと感じてしまっているのです。

 

日月を超えるということは、私たちの思い込んでいる普段のあり方を超えて、本来の太陽、いえそれ以上の存在だということを示していると思います。古来、太陽は世界のいたるところで強大な存在の象徴でした。しかし、その力強い太陽とはいえ、昼夜があることを考えれば無限のはたらきがあるとは言えません。地球上では光が届かない所も出てきてしまうわけです。しかも、この宇宙はどこまで行っても限定的です。私たちからすれば無限の広がりを持つように思える宇宙空間でさえ、果てがあると言われます。太陽も例外ではなく寿命の限られた存在です。燦然として力強い太陽でさえ無量の光を持つとは言えず、阿弥陀如来の存在はそれを超えているのです。

 

十二光のなかに難思光という名もありますように、阿弥陀如来のはたらきは人の思惟では理解し難いと言われます。人がいくら考えをめぐらせても、如来から見ればそれは凡夫の限定的な営みにすぎないと言えましょう。十二光の譬えをいただくとき、改めて私どもの有限性、凡夫性に気づかされる思いがいたします。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

善福寺の公式サイトはこちら

※本記事は『寺報「やさしい法話」3月号(栗原智山、2016年3月)』に寄稿したものを一部再編集したものです。