経論の教えから その9 『観心覚夢鈔』

一つには性境。所謂、一切、実種より生じて実の体用有り。(略)二つには独影境。所謂、其の境、能縁の心と同一種より生じて実の体用無く、能縁の心、自相を得ず。(略)三つには帯質境。所謂、能縁の心は自相を得ずと雖も、而も其の境相は本質有るが故に帯質境と名づく。

 

仏教とりわけ唯識学においては、認識の対象を3種類に分けて整理をします。1つは性(しょう)境と言いまして、これは私たちが普通に目にしたりしている対象です。2つは独影(どくよう)境と言いまして、これは幻覚などのことです。3つは帯質(たいぜつ)境と言いまして、これは言うなれば勘違いといったところです。たしかに、この3種類でだいたい説明は出来そうですが、では、幽霊はどうなのでしょう?

 

唯識学では、認識の対象は心から出てきていると考えます。ですから、現前にある状況というものは、心にあらかじめ種があることになります。もし幽霊にもちゃんとした種があるのであれば、これは性境ということになります。他者はもちろん、机とか電柱とか、そういったものと同類になるわけです。なんか変ですよね。幽霊っぽくないかもしれません。

 

では独影境か帯質境か、この2つであればどうでしょう。幽霊は幻覚のようなものでもあるので、独影境の可能性は高そうです。「実の体用無し」とありますので、実体や実際の作用はないのですが、しかし、映像としてはあるということで、幽霊のイメージに合致するところがあります。帯質境は勘違いということなので、実はほとんどの幽霊目撃談は帯質境かもしれませんが、だとするならば、これは本来、幽霊ではないということになります。

 

ところで、幽霊話というものは、必ずと言っていいほど尾ひれがついています。ゾッとするように増幅されている。たとえば、いわゆる「成仏できない状態」にある幽霊が、「お~い、お経でもあげて成仏させてくれ~」と言わんばかりに出てくる。たいてい夕方から夜でしょうか。あまり爽やかな午前中はありません。まったく先入観なく、その場所にいって何かを感じるというのは、やはりどうも、都合の良い話なんじゃないかと思います。

 

先入観があるから見えるわけで、事件や事故があったとか、そう聞かされると感じるものあるでしょう。この感じというものは、仏教的に言えば外部的なものではなく、つまるところ、内部的、すなわち自分自身の心の動揺である不安や恐怖です。それが何かしら現出し、目の前に現象をもたらすのが幽霊であり、この現出・現象が明確な人や明確な状態にある人は、しばしば幽霊を見ることになるのでしょう。幽霊の存在は感情的なものであり、感受性豊かな人こそ、いわゆる霊感が強い人、ということになるかと私は思います。今まで見えていた幽霊が急に見えなくなるということも、たとえばお経をあげてもらったとか、何かしら心の区切りがついたとか、そういう心のあり方に左右されるのでしょう。

 

ただ、この現象世界の事物について、唯識学が完全に説明し尽しているかと言えば、そんなことはありません。幽霊は独影境だとするのが手っ取り早い判断ですが、性境である可能性だってあるでしょう。この世から去った人であっても、その心が何らかの手違いで部分的に残ることも、ないわけではないでしょう。何事も完璧ということないと思いますので、エラーすることだって、たまにはあるかもしれません。