買い物難民と高齢者

内閣府による「2005年度高齢者の住宅と生活環境に関する意識調査」によれば、「日常の買い物」を現在住んでいる地域での不便な点として挙げたのは、60歳以上の高齢者の実に16・6%という数字でした。全国で推定700万人以上とも言われる『買い物難民』、2008年に出版された『買物難民-もうひとつの高齢者問題』(杉田聡 著)などにより、さらに広く認知される様になった『買い物難民』という言葉ですが、その状況の深刻化もまた文字通り全国規模で進んでいる現状があります。

 

従来型の商店街が衰退することで住宅地から徒歩圏で購入できた日用生活品が、遠くまで行かなければ買えなくなってしまう、そしてその商店街衰退の主たる原因のひとつであることが多い、進出してきた大規模店舗へも、個人の交通手段(自動車、バイク、自転車など)なしではなかなか行くことが難しく、またほんのちょっとした買い物だけのために混雑した広い店内を移動したり、長いレジの列に並んだりするのも、高齢者にとっては正直大変なことですし、足腰を痛めていたりすればなおさらのことです。

 

公共交通機関も充実しているとは言い難い地域では、それこそお豆腐一丁を買うためだけにタクシーで往復しなければならない場合もあり、しかもその非現実的なオプションでさえ、選択肢とできるところはまだましなくらいということになれば、これはもう日用品の買い物難民という言葉が、残念ながらしっくりきてしまう深刻さだと言えるかと思います。

 

首都圏のように、一見様々な規模の店舗が多くある様に思えるところでさえ、買い物難民化は起こり得てしまいます。健常な青壮年男性にとっては近くて便利な場所であっても、途中の道が交通量の激しい狭い道であったり、距離は短くても急な坂であったり、それこそ足腰が不自由であったり、血圧が高かったり、他様々な理由で1人での外出自体がそもそも困難な高齢者にとっては、結局行ける範囲にお店がない、ということになってしまうことが意外と多いのです。

 

インターネットで注文をすることなど選択肢とできない高齢者の多くは、頼んでいるヘルパーさんに買い物をお願いしたり、ここ数年展開が進んでいる移動スーパーや、あるいは食事をお弁当の宅配サービスなどに頼ったりすることが多いかと思いますが、やはりここで大切に考えなければならないのは、単に物が届く、ということではなく、自分で買い物をすること、その行為を通じてのコミュニケーションなのではないかと思うのです。(移動スーパーの成長はそのあたりのニーズに対応できていることが要因と考えられているかと思います。)

 

高齢になり、体力や健康にも問題がある中、独り暮らしとなり、買い物にいくことも難しければ、食事もいつも独りで済ませる現実-長年進んできた都市部への集中、核家族化の進行とも関連の深いことかと思いますが、人と触れ合うことが極端に少なくなれば、やはりそれは心身の不健康につながっていってしまうと思います。筆者にも少し離れたところで暮らす、高齢で独り暮らしとなってしまった伯母がおりますが、遊びに行き、一緒に買い物に行けば、自分のペースでゆっくりと、あぁ、あれが買いたい、これが食べたい、となりますし、食事をする時は『みんなで食べるとやっぱり美味しい』と言って、普段よりもよく食べてくれます。都度思うことですが、その一言にすべてが集約されている様に感じられてなりません。

 

自動化や効率化の波の中、それを重宝しつつも同時に、便利さ、っていったい何だろうと改めて疑問に思うこともしばしばです。馴染みのところでマイペースで買い物ができる環境、日々の何気ない会話、そして難しい場合が多いかもしれませんが、家族みんなで食卓を囲んで-少しでもその風景を次世代にも伝えていけたら、と思います。

 

終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。