交わす言葉と察しの文化

私は言いたいことは言う、言える-そういう人は、実のところそう多くはないと思います。理由は様々あるでしょう。例えば、直接言っては角が立つから、言って相手の気分を害してしまうのが気まずいから、言ってもちゃんと理解してもらうのに苦労するから、なかなか言い出しにくい雰囲気だから、聞いてもらえそうにないから、などなど、環境や相手との関係により理由は様々でしょうが、誰しも日々の生活の場面で経験のあることかと思います。

 

そしてこのようなことは、昨今、意外と近しい関係においてもよく発生している様です。毎日顔を合わせる間柄だから、であるとか、同じ環境で育ってきたし、同じ理解をしているはず-その想いがゆえに、却ってボタンの掛け違えを起こしてしまい、それをなかなか元に戻せない、などということも意外と多いかと思いますが、そこには『察しの文化』が影響している部分もまたあるのではないかと思うのです。

 

言わずとも察してほしいという日本の文化は、遠回しに言うこと、気が付いてもらうようにする工夫をするというコミュニケーションを育ててきました。それにより円滑な関係を保つという考えが根底にあるかと思うのですが、それは同時に手間のかかることでもあります。ただ、そんな手間のかかる人と人とのコミュニケーションの連鎖がそれを可能にしてきたのだと思うのです。

 

しかしながら、昨今、効率化の名のもとに少ない人数で変わらず物事を進めようとし、人ひとりが負う責任範囲も広くなってきている傾向が全体的に顕著に見られます。また効率化や利便化の名のもとに、人と人とのコミュニケーションも簡素なテキスト(文字)情報交換に依存することが増えてしまい、結果、情報交換や共有は効率的に行えても、本当の意味での意思疎通をむしろ阻害してしまっている側面が多い様にさえ思えます。

 

何気ない言葉を交わすことから得られる人と人との相互理解はやはり大きいですし、そこから汲み取ることができるものもまた多いと思います。相手が言えない言葉を察する、表になかなか出せない想いを汲み取る―機械的な情報交換をいくら積み重ねても、その基礎となる土壌は出来上がっていかないものなのではないでしょうか。

 

察して考えてほしい、行間を読んでほしい、という気持ちは誰しも持っているかと思いますが、それを可能にするには、やはりそれなりの何気ない交流の積み重ねもまた欠くことのできない大切なものなのではないでしょうか。友人や同僚からの相談、部下の悩み、子供がかかえる不安、あるいは親や上司からの相談だって時にはあるでしょう。そんな場面で、『今時、誰だって色々忙しいし、大変なものだ。』『自分もみんなも頑張っているのだから君もがんばって。』『それは私も過去に乗り越えてきた壁だから。』…そんな言葉をよく聞くことがあります。

 

言う方は何らかの励ましの気持ちや純粋な応援の気持ちから発しているだけかもしれません。けれど、考えてみてほしいのです。それらの言葉で何か汲み取ることができるのだろうか、何かを良い方向に向かわせることが本当にできるのだろうか、と。よく知っている間柄であればこそ、立ち止まって本当に相手を慮ることができているのだろうか、と考えてみる機会をどうか持ってみてください。

 

たとえ一見同じような境遇であっても、そこはやはり違うところの多い人と人、年齢や性別、立場や環境が違えばなおさらです。そんな時は、難しいことかもしれませんが、相手の背丈に合わせて、目線を同じくして、同じ早さで言葉を交わしてみることを試してほしいと思うのです。その時、それが、ここのところ私たちがいつの間にか無くしてしまっている、大切な『手間のかかるコミュニケーション』なのかも、と気が付けるかもしれません。

 

察しの文化をよく機能させる土壌作り、伝えていきたいものだと思います。

 

 

終活支援サイト『のこす記憶.com』がお届けする『のこす記憶.comコラム』では、日常生活の何気ない一コマから、のこし伝えていきたい記憶を不定期更新で綴ってまいります。