史の綴りもの 001 水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま

水戸黄門にはひれ伏さぬ御公家さま 
 
 
皆さまご存知の人気時代劇『水戸黄門』。越後のちりめん問屋のご隠居という世を忍ぶ仮の姿で日の本全国を旅してまわり、各地で権力を傘に悪事を働き、民百姓を苦しめる悪党を見つけては厳しく仕置きするのは、徳川御三家の一家、水戸徳川家(但し当初は水戸松平家で、駿河徳川家断絶後に徳川を賜姓される。)常陸水戸藩の第二代藩主、徳川光圀(水戸光圀)でございました。 
どこからともなく現れて、いままで甘い汁を吸い放題だったところに賢しげに説教する旅の一行。悪事を働く者たちにとって、それはさぞかし不愉快不機嫌極まりないものに違いありません。せっかく悪事で潤い築き上げた今の立場を手放そうとするはずもなく、たかが旅の商人の一行くらい後でなんとでもなると、お約束で皆殺しを手下に命じます。 
ところが、葵紋の印籠を見せつけられて相手が実は徳川光圀(水戸光圀)であると告げられるものだからさぁ大慌て。世は徳川宗家を頂点とする江戸幕府が治める江戸時代、そして水戸光圀と言えばその徳川宗家に近い一族の先代当主です。目の前にいるただの老いぼれと見下していた相手が、実は大変な権力者であったわけですから、何はともあれひれ伏してしまいます。露見した悪事を誇らしげに語り、思いっきり開き直ってしまったわけですから、手下に始末させてキレイさっぱりとの目論見が一転、自分たちが始末(処断)されてしまいそうなことになってしまったとなれば、それはもうびっくり仰天です。 
 
さて、当時、財力の基となるものはご承知のように基本的には土地でした。水戸黄門のご一行が旅をしていた土地というものは、実際にはもっとずっと細かく分かれますが、きわめてざっくりと分けてしまえば、天領か大名領かの何れかでございました。天領は幕府直轄地で、幕府が直接治める地であり、ここにいるのはいわゆる幕府が任じた代官です。一方で大名領地は、徳川家との関係、幕府への貢献度合などから幕府に領地を治めることを許された大名家が治める土地でした。幕府に近しい順に親藩、譜代、外様となっておりますが、いずれもそれぞれ大名家がやはり代官をあちこちに配して治めておりました。日の本全土の実行的支配権を徳川宗家の江戸幕府が握っている時代、例えどこのどんなに小さな村であっても、水戸黄門のご威光というものは、それは強いものでありました。なぜなら、天領であった場合には言うに及ばず、大名領地であったとしても、その大名たちの中で徳川幕府に逆らえる者など存在しない程の力の差があり、幕府に従属している関係でしたので、詰まるところ権力を傘に着て悪事を働く者たちの拠り所となるその権力が、すなわち最終的には徳川江戸幕府の力であり、ゆえにご老公の身分を表す印籠は全国何処でも効果覿面なのでございました。 
 
ところが、ごく稀に印籠を見ても全く意に介さない悪しき権力者が登場します。取り分け江戸初期における武家主導の実行支配体制を鑑みるに、上の者と言えば将軍家に、他の御三家当主たちと数えるほどの徳川光圀ですが、確かにそれだけの考えの枠には嵌らない高位者が存在しました。それらの代表的存在が、天皇と、天皇を中心とする公家です。そもそも、如何に実行支配力を持っていたとしても、徳川宗家とて我が国においては天皇の臣下であり、水戸光圀とてまた例外ではありませんでした。徳川宗家が戦国の世を経て覇者となるよりもはるか昔より、我が国は朝廷により治められてきておりましたし、鎌倉時代以降、長きにわたり武家の政治的独立に伴う複雑な二元政治的流れを形作りながらも、少なくとも形式の上では変わるものではなかったためです。 
このような印籠に屈しない悪しき権力者の例は数回あった様なのですが、その中のひとりに、一条三位という公家がおりました。印籠を見せられても屈するどころか薄笑いを浮かべ、『麻呂は帝の臣であり、徳川の家来ではおじゃらん!』と光圀たちに言い放ちます。 
 
さてこの一条三位、曰く中納言を務めたとのことですが、分解してみますと一条家の一族であり(分家ではないと仮定)、位は三位(正三位もしくは従三位の何れか)、また官(官職)として中納言を務めたことがある、ということになります。公家には家格というものがあり、その家格毎に位や官に上限が定められておりましたが、一条家と言えば藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする藤原北家の流れを汲み、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流として公家の最高位に数えられる藤原嫡流五家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)の一家、まさに名門中の名門、摂政・関白の位に就ける唯一の家格でした。とはいえ一条家といっても大きな家ですので、少なくとも一条宗家や中心的な人物ではなかったとは思われますが、名門ゆえに相応の官位に恵まれていた存在と考えてよいと思います。因みに、中納言に限らないことと言えますが、南北朝時代以降は中納言の正官は任命されなくなり、もっぱら権官(「権」は「仮」の意で、主に正規の官職員数を越えて任命する場合に使われた。実権を伴わぬ名誉職的な側面も。)のみが置かれたそうですので、一条三位もまた、権中納言であった可能性が高いと考えられます。 
ではその一条三位中納言に対して、同じく帝の臣たる徳川光圀ですが、寛永十七年(西暦1640年)従三位の位に叙せられ、官は右近衛権中将、参議などを経て隠居後の元禄三年(西暦1690年)権中納言となっておりました。皆さまよくご存知の通り、水戸黄門の『黄門』は、中納言を中国の官職名諷に言ったもので『黄門侍郎』から来ております。
官と位はほぼ相当するものであり、中納言の位は従三位とされておりましたので、一条三位も途中で何らかの特別な御沙汰など無き場合、正三位への昇叙はなく従三位のままであった可能性が高くなります。 

その場合には、どちらも位は従三位、どちらも官職は権中納言となり全くの同格同列です。そんな一条三位が徳川一門の印籠に対して平伏する理由は確かにありませんが、帝の臣であるのは光圀もまた同じですね。 
 
事の裏側を知った光圀は、そのような一条三位の反応は予想済で、目には目を、公家には公家を、と、一条三位が頭の上がらない良識人に事情を説明し助力を頼んでおりました。光圀を罵る一条三位の前に登場したのは朝廷の左大臣、これにはさすがの一条三位も仰天です。律令制において司法・行政・立法を司る、いわば最高行政機関たる太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言、そして後に中納言・参議が加わり、議政官として政務の重要な案件を審議する場であり、且つ太政大臣は常設の地位ではなかったため、事実上左大臣がいわば太政官における最高責任者でありました。そして菊亭と名乗った左大臣、菊亭家といえば今出川家のことであり、公家の家格としては、最上位の摂家につぐ清華家(時代により異なるが、主に三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・今出川の七家を指す。)の家格、太政大臣まで就任できる家格でしたので、左大臣として一条三位を叱責する立場での登場となったのであろうと考えられるかと思います。 
 
武家官位ではあるものの、やはり高位の水戸光圀、それに全く物怖じしない相手としては、それ相応の公家が必要であったのでしょう。五摂家の家格の公家まで登場させますが、最後には光圀の仕込みに屈することに。その相手として清華家家格の左大臣を配するあたり、やはりよく考えられていますね。 
 
至極簡単ではありますが、少しだけ幅を広げて名シーンを回想してみました。いつもの定番シーンに、こんな一波乱がこれまで幾度かあった様ですが、何せ有名な場面ですので既に情報も出揃っているかとは思います。ただ、ほんのすこしだけ深堀してみることで、また新たな疑問が湧いてはこないでしょうか? 
 

回を重ねて、いろいろなちょっとした歴史の深堀におつきあいいただければ幸いです。 
 
 
『のこす記憶.com  史(ふひと)の綴りもの』について 
 
人の行いというものは、長きに亘る時を経てもなお、どこか繰り返されていると思われることが多くござりまする。ゆえに歴史を知ることは、人のこれまでの歩みと共に、これからの歩みをも窺うこととなりましょうか。 
 
かつては『史』一文字が歴史を表す言葉でござりました。『史(ふひと)』とは我が国の古墳時代、とりわけ、武力による大王の専制支配を確立、中央集権化が進んだとされる五世紀後半、雄略天皇の頃より、ヤマト王権から『出来事を記す者』に与えられた官職のことの様で、いわば史官とでも呼ぶものでございましたでしょうか。様々な知識技能を持つ渡来系氏族の人々が主に任じられていた様でござります。やがて時は流れ、『史』に、整っているさま、明白に並び整えられているさまを表す『歴』という字が加えられ、出来事を整然と記し整えたものとして『歴史』という言葉が生まれた様でございます。『歴』の字は、収穫した稲穂を屋内に整え並べた姿形をかたどった象形と、立ち止まる脚の姿形をかたどった象形とが重ね合わさり成り立っているもので、並べ整えられた稲穂を立ち止まりながら数えていく様子を表している文字でござります。そこから『歴』は経過すること、時を経ていくことを意味する文字となりました。
尤も、中国で三国志注釈に表れる『歴史』という言葉が定着するのは、はるか後の明の時代の様で、そこからやがて日本の江戸時代にも『歴史』という言葉が使われるようになったといわれております。 
 
歴史への入口は人それぞれかと存じます。この『のこす記憶.com 史(ふひと)の綴りもの』は、様々な時代の出来事を五月雨にご紹介できればと考えてのものでござりまする。読み手の方々に長い歴史への入口となる何かを見つけていただければ、筆者の喜びといたすところでございます。
 
 
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