Rockをもて仏教す Part 3

ロックの歌詞から面白いなあと感じるところを切り取って、勝手に仏教解釈をしてみます。

 

I’m playing my role in history Looking to find my goal
Taking in all this misery But giving in all my soul
Made in heaven, made in heaven It was all meant to be, yeah
Made in heaven, made in heaven That’s what everybody says
 

偉大すぎて説明の要なしと言えるQueenから、Made In Heavenです。実際にはボーカルのフレディ個人名義作だったかと思いますが、手元にあるのがQueen名義のCDなので、そういうことにしておきます。

 

この歌はもう思い切り宗教歌なわけですが、実は結構、多くの日本人にとりましては、心の底から共感するということが難しいかなあと思います。この歌を貫き通す信仰はズバリ、「神の思し召し」です。フレディ自身はゾロアスター教徒なのか、ちょっと良く分かりませんが、歌詞からは一神教的な思いを感じ取ることが出来ます。ゾロアスター教は一神教です。しかし、こうした一神教的な感覚は日本には根づかず、多神教やちょっと汎神教(←真理の現れが世界なのだとするような教えの分類のことでしょう)的な感覚こそ、一般的な「日本人」を作り上げている土台の一部と言えます。つまり、そこには人々が従うべき絶対的な神の存在性は薄く、物事それぞれがそれぞれ機能し、有機的にダイナミックに結びついている。敢えて言えば勝手に物事が進んでいくなかで、乗り遅れないよう一所懸命に祭祀をするのが日本人ではないかなあと。これは「自然」ということであり、あるがままにあるということを重んじるのが、日本的日常とでも言いましょうか。

 

さて、歌詞を見てみますと、自分は歴史上での「自分」という役割を演じ、自らの最終目的を探しているのだと言います。神によって定められた役割があるという信仰であり、それを知ることこそ人生なのだという、強い信念が見て取れます。おそらく、同じ一神教徒であるキリスト教徒の方々にとっても、大きく頷かれるところかと思います。その後に続く、悲惨な事柄も自分の魂のなかに受け入れようという歌詞からは、神に跪く敬虔な姿が想像されます。そして、こうした一連の事柄は「Made in heaven」、つまり、天国にいる神が造りたもうたものなのだ、それは運命なのだと、皆がそう言っていると結論づけるのです。

 

皆さん、いかがでしょう。私は坊さんだからでしょうか、こうした信仰のあり方に敬意を表すると同時に、どことなくこそばゆいような感触を禁じ得ません。ここまで大々的に信仰を表明できるというのは、むしろ立派なことだと思うのですが、自分にはないなあと。ただ、仏教では物事について、そのまま真実のありようを受け取ることこそ悟りなのだと説くわけですが、ゾロアスター教などの一神教においても、神の意思ということにおいて、実は同じようなことを言っていることに気づかされます。

 

仏教ではあくまでも自己における内的変革、つまり、余計なフィルターを通さず物事に透徹していく心を持つことを重んじます。坐禅のような瞑想修行はもちろん、仏への信仰においても、仏への信仰を通じて自己変革を達成することこそ仏道なのです。そして、その変革によって先入観による執着を捨て、真に自由なものの見方を体得していきます。すなわち、これは一神教徒においても、神の名のもとに悲惨さを含め、すべてをあるがまま受け入れていくのですから、そこに変革を見ることができるでしょう。道程は違えども、究極的には仏教であっても諸々の一神教であっても、同じような境地に達するのではないでしょうか(ただし、道程が異なるという点は重要です)。

 

歌詞にあるこうした表現の仕方に、違和感とまでは言わなくとも、なかなか共感を持てないというのが多くの日本人的感覚かもしれません。しかし、最後に行きつくところは同じであったというのは、面白いことだと思います。仏教では「八万四千の法門」と言いまして、人の数だけ教えの入口はあるのだとします。宗教が違うということは入口が違うということになりますが(本来は仏教内でのことですが、ここでは広く捉えました)、よくよく考えればどんな宗教でも同じ人間同士の営みなのですから、突飛なものではなく長く続いている宗教であれば、同じようになるのは当然と言えば当然と言えるかもしれません。

 

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

 

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