風景を仏教的に考えてみると

私たちは宇宙という環境のなかに自分や他者がいると思っています。たしかに自分の意思が環境に及んでいるとは通常実感できませんし、むしろ厳格な境界線があるかのようです。しかし、こんな体験はないでしょうか。気分の良い日には何もかも美しく色映え、逆に気分の悪い日にはどんな風景も白黒に見える。落ち込んでいるときには、あまり風景なんて気にならなくなってしまいますよね。

 

こう考えますと、どうやら環境に自分の意識が反映されているかのようです。何もかも思い通りになったりする、というわけではないのですが、どこかに関係性があると言えなくもない・・・。

 

そもそも、環境というものは自分の感覚器官、たとえば目とか耳とか、そういう器官を通じて認識しているわけで、媒介を要していることは間違いありません。入れものとしての環境を感じることも、皮膚の感覚によるわけです。面白いことに、自分の意識が環境に接しているということではなく、あくまでも感覚器官が境界線になっているのです。

 

感覚器官からの信号によって環境を感じているのが私たちです。感覚器官がなければ環境を感じることはできません。目であれば、目からの信号を映像として認識しているのであり、これは環境から直接というよりも、自分自身の内的な受け取りと言えるかもしれません。さらに一歩踏み出して言えば、この映像を再び目が見ることによって、それをまた信号化して送ることになる。もとより外的な環境というものは存在せず、すべては内的な環境であったとも考えられそうです。

 

大乗仏教ではこうした事情に着目しまして、環境というものは自分自身に基づくものであり、外的な存在というものは現象に過ぎず、すべては虚構なのだと見ました。「諸行無常」と言いまして、すべての物事(諸行)は移り変わり(無常=常に同じではない)なのであり、そこに執着しても何も得るものはないと仏教では説きます。根強い執着心に対抗するため、固定的に見えたりするものであっても、それは単なる現象なのだと断ずるのです。

 

環境というものは、現象を自分自身が認識しているだけのものであり、自分が今、見たり聞いたり感じたりしているものは、他でもない自分自身の内部に由来するのかもしれません。だからこそ、気分の良し悪しに風景が関係していることもあるのでしょう。輪廻もこのように考えることが可能で、自分の心が悪しき心で支配されているのであれば、環境は自から地獄になってくるわけです。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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