逢坂の関

百人一首を暗誦されている方も多いでしょう。最近は映画の題材にもなっているようで、その人口に膾炙した存在は稀有なものです。私はもっぱら「坊主めくり」で腕を振るいましたが、情深い内容のものが多いなか、お坊さんの和歌はちょっと仏教色を出してピリッときます。

 

たとえば有名な蝉丸。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」と詠みます。私訳しますと、「これがまあ、行く人も帰る人もここで別れ、知っていようがいまいが別れていくという逢坂の関なのだ」(私訳)というような具合でしょうか。なんとも当たり前のことです。だから何だと思いたくもなるかもしれません。

 

しかし、どうでしょうか。人は好きな方とはずっと一緒にいたいと思うものです。いつか別れがあるとは分かっていても、情においては認めがたい。人は本来、諸行無常という移り変わりの世界を生きているものです。出会っては別れ、出会っては別れの連続なのですが、それに抗って生きているから生きづらい。

 

蝉丸が逢坂の関で何を思ったのかは具体的には分かりません。「別れ」から何を見たのでしょう。諸行無常を思うならば、移り変わりという点の連続こそ人生です。それを「逢坂の関」という有名な場所に置き換え、当たり前のようにサラリと詠んでみたのでしょうか。知らない人ともすれ違っていくのが私たちです。出会いとはまさに不可思議なものですね。

 

善福寺 住職 伊東 昌彦

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